ベリー公妃の脅威
冷たい空気に触れるだけで、マルファッティの体は、あちこち痛んだ。
痛風とは、そういう病だ。
春になったのは、救いだった。それでも、寒い日には、体の節々が痛む。早く夏がくればいいと、名医は思った。
彼は、ランシュトラーゼの邸宅に呼び出された。
メッテルニヒの館である。
「ヴィーラーとライマンが、皇帝に告げた。ライヒシュタット公は、肺を病んでおり、あと数ヶ月の命だと」
「隠せと言ったはずだ。彼が、結核だということは」
「お言葉ですが、宰相。結核という言葉は出なかったはずです」
自信を持って、マルファッティは答えた。
ヴィーラーの不満は、彼も察していた。
イシュルの温泉を見つけ、ゾフィー大公妃の不妊に、温泉浴を薦めたのは、確かに、ヴィーラーだ。
その手柄を、マルファッティは、横取りする形になっていた。
メッテルニヒが介入してきたからだ。
もちろん、おかげで医院の患者が増えたことは、大いに好ましかった。だが、同僚の信頼を失ったままでは、この先、困る。
そこで、いくばくかの金品を渡し、再び、彼の信頼を得たのだ。
大変な出費だった。
マルファッティは、もはや、メッテルニヒに、我慢がならなかった。医学の門外漢である宰相に、素直に従うつもりはなかった。
「しかしながら、ヴィーラーもライマンも、それなりの医師です。あれだけの咳をしているのだ。ライヒシュタット公が肺の病であることは、ウィーンの石工にだってわかることです」
「少し前に、ドナウ川から、ペッリコの遺体が上がったぞ」
不意に、メッテルニヒが、話を変えた。
……ペッリコ。
カルボナリの仲間だ。
顔を見ないと思っていたが、まさか、死んでいたとは。
高い位置から、宰相が見下ろしている。
「あれは、お前の仕業か?」
糾弾され、マルファッティは慌てた。
「滅相もない! そのようなことは!」
「川岸に、財布が落ちていた。貴公と同じ、イニシャルが入っていたな」
「……」
ペッリコは、さまざまなものを、マルファッティの家から持ち出していた。金に困って換金していたのだろう。
イニシャル入りの財布も、彼が盗み出したに違いない。
マルファッティの顔色が青ざめた。
その変化を、メッテルニヒは、見逃さなかった。獲物を追い詰めるように、続けた。
「いずれにしろ、死体から、身元を示すものは、剥ぎ取っておいてやった。カルボナリの身分証もな。もちろん、財布も処分させた」
「……」
礼を言うべきか。
マルファッティは迷った。しかしどうしても、感謝の言葉が出てこない。
「……あの。ペッリコは、どうして?」
「貴殿が、始末したのだろう?」
「違います!」
メッテルニヒは、鼻で笑った。
「まあいい。足を滑らせて、川に落ちたことにしておこう。ただし、」
ぎろりと、睨み据えてきた。
「ライヒシュタット公が、肺の病であることは、引き続き、伏せるように。結核という病名を、決して、公にしてはならぬ」
「なぜです?」
思わず、マルファッティは問いかけた。
「
「それが困るのだ」
マルファッティの腹の底が、すうーっと冷えた。
「……ナポレオンの息子に生きていられると、宰相は、困るわけですね?」
強情な患者を、マルファッティは思った。
医師の言うことを聞かず、無理ばかり重ねる患者だ。
しかし、彼と過ごす時間は、積み重なっていた。
プリンスは、病床で読んだ本の話をしてくれた。マルファッティが読んだこともないような、詩や小説も、教えてくれた。
彼が教えてくれた虚構の世界は、楽しかった。
プリンスは、マルファッティの施術には、常に懐疑的だった。効くはずがないと思っていることが、一目瞭然だった。
それでも、彼は、施術を拒まなかった。
心の底から、治りたいと望んでいるのだ。
どうやら彼には、やらねばならないことが、たくさんあるらしい。
当たり前だ。
だって、彼はまだ、若い。若すぎる……。
「私が、ライヒシュタット公の死を願っている? 貴君は、何を言っているのだ?」
意外そうな声が降ってきた。
意外さを装っている声だと、マルファッティは思った。
肩を竦め、メッテルニヒは続けた。
「反対だよ。ナポレオンの息子には、生きていてもらわねば困る。今のところは」
「は?」
宰相の言葉は、マルファッティには理解できなかった。
だって、彼は宰相の、喉に刺さった棘ではなかったか? 大きく開いた傷なのでは……。
続く宰相の言葉は、思いもかけないものだった。
「つい先だって、ベリー公妃が、船でマルセイユへ上陸した」
「ベリー公妃?」
「ブルボン家のマリー・カロリーヌだ。アンリ・ダルトワの母親だ」(※)
7月革命で退位を表明した、ブルボン家のシャルル10世は、王位を、孫のアンリに譲った。
フランス王には、ブルボン家の支流の、ルイ・フィリップが即位した。しかし、シャルル10世の譲位を以って、未だに、ブルボン家のアンリを、フランス王と見做す者は多い。
深い溜め息を、メッテルニヒはついた。
「ベリー公妃は、息子の王位の正当性を訴えるべく、王党派の強いヴァンデへ向かったそうだ。どうやら、暴動を起こすつもりらしい」
思わずマルファッティは、息を呑んだ。
「フランスに暴動が起こるのですか? また革命が?」
「革命? そんなものが起きたら、ルイ・フィリップ政権など、ひとたまりもなかろうよ。本来なら、ルイ・フィリップなぞ、どうなっても構わないのだ。だが、今、フランスに動乱が起きたら、ヨーロッパの平和も危機にさらされる」
メッテルニヒは、言葉を切った。
「フランスのアンリ5世に対抗しうるものは、ナポレオンの息子しかいない。フランスの世論を二分させ、しかも優位を保つことは、ナポレオン2世にしかできないのだよ」
「!」
自分の患者の置かれた政治的な立場に、マルファッティは、改めて思いを致した。
彼の患者は……あの優美で高慢な青年は、それほどまでに高貴な存在だったのだ。
マルファッティなどの手が、到底、とどかぬほどの。
それが病魔に襲われ、今、彼に身を委ねている。
その彼に、自分は、見当はずれな治療ばかり施してきた。結核の治療ではなく、肌や肝臓の……。
このままでは、彼の信頼を失うのは、時間の問題だ。
「前にも言ったろう? ナポレオンの息子には、生きていてもらわねばならぬ。どのような状態であれ、生存していてもらわねば、困るのだ」
……ただ、生きているだけ?
その冷たい言葉に、マルファッティは震え上がった。
勇を鼓して、彼は言った。
「でしたら、結核とご公表を。そしてどうか、彼を、イタリアへ……」
「ならぬ」
短く宰相は打ち消した。
なおも、マルファッティは喰い下がった。
「なぜ? 今となってはもはや、イタリアへの転地しか、彼を救える道はありません! カルボナリでしたら、彼らは壊滅状態です。生き残った者どもも、その殆どは、イタリアの外へ脱出しています。半島は、むしろ、平和と言っていい」
……ペッリコは死んだのだ。
……もはや、カルボナリの残党に金を流す者はいない。
「結核は、死病だ。聞いていなかったのか? ナポレオン2世は、抑止力だ。ブルボン家のアンリ5世への」
メッテルニヒが言い放った。
「そのナポレオン2世が、死病に囚われているなどと、公表できるわけがない。それではみすみす、
高い椅子に座った宰相は、優雅に足を組み変えた。
「彼は、
その顔には、どす黒い笑みが浮かんでいた。
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※
アンリ5世の母、マリー・カロリーヌが、フランス、マルセイユへ上陸したのは、この年(1832年)4月のことです。
マリー・カロリーヌの夫、ベリー公は、ナポレオンを信奉する馬丁により、1820年に暗殺されています(ナポレオンは全く関与していません)。
彼女が奇矯な性格だったため、アンリら二人の子どもたちは、彼らの伯母にあたるマリー・テレーズ(マリー・アントワネットの娘)が養育していました。
1831年の初め、マリー・カロリーヌは、息子アンリが成年に達しない場合は、彼の摂政に指名する、という誓約書を、舅のシャルル10世からもぎ取るように、手に入れます。
この後、彼女は、援助を求めて、オランダ、ドイツ、スイス、イタリアを放浪するのですが、ローマ法王も、そしてナポリの実家の親戚たちでさえ、彼女とは、会いたがりません。
(彼女の異母弟が、当時の両シチリア王です。なので、サレルノ公レオポルトは、彼女の叔父に当たります。詳しくは、私のホームページに系図がございます。
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#henri
(ページトップは
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html
「6 ライヒシュタット公とボルドー公」
)
ですが、彼女は一向に平気でした。意気揚々と、マルセイユに上陸し、息子アンリを擁立すべく、活動を開始しました。
この彼女の行動は、息子、そして、彼ら姉弟を養育しているマリー・テレーズには、全く預かり知らぬものでした。ヨーロッパの目が向けられるのは、イギリスに亡命中のブルボン家の人々にとっては、迷惑でさえありました。
こうして、フランスには次第に、きな臭い雰囲気が漂っていったのです……。
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