ナポリへ!
「なぜ、皇帝は、ライヒシュタット公のイタリア療養をお認めにならないのだ。希望は、そこにしかないというのに」
数日後。
カフェで密かに落合い、ヴィーラーとライマン、二人の新任医師は話し合っていた。
二人の占めた座席は、ボックス席だった。密談には、最適だ。
「宰相が反対されているらしい」
情報通のヴィーラーが説明する。
「イタリアでは、動乱があったばかりだ。その上、ライヒシュタット公は、ナポレオンの息子だ。彼をウィーンから出すことは、政治的にできないらしい」
「確かに皇帝は、身内のご都合より、国家を優先される。ご立派なことだ。だが、これは、
「皇帝は、宰相を、信頼しているからなあ。今のオーストリアがあるのも、ヨーロッパの御者たる、宰相のおかげだし」
「だって……。そうだ。イタリアには、彼のお母さんがいるだろう。イタリアの、パルマに! お母さんの国なら……」
「彼女にその気があれば、とうの昔に、迎えに来ているさ。そもそも、息子をウィーンに置き去りにした母親だぞ? ナイペルクが死んだ後も、パルマで楽しくやってるらしいし。なんでも、また、妊娠したって噂だ」
「へえ! そりゃ、確かに妊婦に長旅は進められないが……つか、父親は誰だ?」
「パルマの有力な、若い貴族らしい。サルヴィターレとかいう」
「名前まで特定されているのか」
ライマンは唸った。信じられないと言う風に首を振る。
「でも、噂だろ?」
「それならなんで、今すぐ、馬車に飛び乗って、ウィーンに来ないんだ? 心配にならないのか。プリンスは、こんなに悪いというのに……」
ヴィーラーが声高に言い、同時に二人は、ため息をついた。
ぼそりと、ライマンがつぶやく。
「その上、マルファッティ先生は、絶対に、結核だと、お認めにならないし」
「ああ。あの先生が療養を勧めるとしたら、イシュルの温泉がせいぜいだ。何しろ先生は、胸の病は、全く疑ってないからな」
ぼそぼそと、ヴィーラーが口にする。
彼は、不満だった。
イシュルの温泉を見つけて、不妊に苦しむF・カール大公夫妻に塩水浴を提案したのは、ヴィーラーだった。
それが、いつの間にか、マルファッティ医師一人の、手柄になってしまっている……。
「我々はどうすべきか。マルファッティ先生に逆らい、真実を公表すべきか? そうしたら、世論を味方にして、皇帝も、彼をイタリアへやれるかもしれない」
ライマンがつぶやいた。
ライマンは、最初から、マルファッティの見立てに批判的だった。
あれほどの咳と熱だ。
肺病を疑わない方が、どうかしている。
……「名医の見立てに異議を唱えたらだめだ。そんなことをしたら、二人ともウィーンの医学界から追放されてしまうぞ」
そんなライマンを、ヴィーラーは、必死で諫めてきた。
……「ウィーンで診療ができなくなってしまったら、君の患者はどうなるんだ? 君に、愛する父や子どもを預けている、患者の家族は!」
だが、皇帝の下問にあって、ついに、マルファッティへの不満が、表に現れた。
ライマンとともに、ヴィーラーは、肺への懸念と、予想される余命を正直に述べ、転地を勧めた。
結核、という病名は、出せなかったけれども。
それでも、ヴィーラーの、マルファッティに対する、せいいっぱいの反抗だった。
……けれども、やっぱり皇帝は、プリンスの転地をお許しにならないのだ。
マルファッティとヴィーラーの関係を知らないライマンが、鼻の穴を膨らませた。
「我々は、医師だ。真っ先に、患者のことを考えなければなくてはならない」
「その通りだ」
二人の意見が一致した時、すぐそばで、人の気配がした。
「……失礼しますよ」
ボックス席に、中年の男が入ってきた。堂々とした恰幅の、身なりのいい男だ。
「レオポルト大公……」
ヴィーラーが腰を浮かした。
「おや、私のことを、ご存知で?」
穏やかに、紳士は笑った。
「……レオポルト大公というと?」
二人を当分に見比べ、おずおずと、ライマンが、
「サレルノ公だよ。マリア・カロリーナ内親王のご子息で、皇帝のご息女、クレメンティーネ内親王のご夫君だ」
「私のことをご存知なら、話は早い」
サレルノ公レオポルトは、にっこりと笑った。
その笑みは、すぐに消えた。
心配そうに……いっそ、悲しげに顔を曇らせ、彼は言った。
「皇帝から聞いた。ライヒシュタット公の具合は、ひどく悪いそうだな。彼は、大丈夫なのか? 助かる道はないのか」
二人の医師は顔を見合わせた。
「暖かいイタリアへ行けば……」
「今ならぎりぎり間に合います」
交互に、二人は言った。
「イタリア……」
レオポルトは目を上げた。
「たとえば、ナポリではどうだ?」
「最高です!」
間髪入れず叫んだのは、ライマンだった。
「暖かい海辺の街、穏やかな気候。ウィーンのように、冷たい湿気もありませんし。ナポリは、医学的に考えられる限り、最高の条件です!」
「決まりだな」
レオポルトは、にやりと笑った。
「お二人は、ライヒシュタット公の保養地として、是非、ナポリを勧めてくれたまえ」
「しかし、」
ちらと、同僚を見やり、ヴィーラーが言った。
「ナポリは、イタリア半島の先端。オーストリアの支配地域ではありません。オーストリアの皇族を、迎え入れてくれるでしょうか」
「それは、大丈夫だ」
強い自信のある声だった。
はっと、二人の医師は、大公に目を向けた。
「そうか。あなたは……」
思わず、ヴィーラーの声が高くなる。
……この大公は、両シチリア国王の、叔父君……。
にっこりと、レオポルトは頷いた。
「大丈夫だ。
「ですが、」
問題はそこではなかった。
なおも、ヴィーラーは言い立てた。
「ライヒシュタット公は、ナポレオンの息子です。
医師の絶望にも、レオポルドは怯まなかった。
「やってみなくちゃ、わからないじゃないか。ナポリが、彼にとって最高の療養地なら、私はもう、ためらわない。君たちもだ。医師としての君等の良心に訴える。あらゆる場所で、ライヒシュタット公の、ナポリ療養を提言してくれ。後のことは、私に任せてくれればいい。とにかく、」
レオポルトの瞳が、真剣な色を帯びた。
「俺は、あの子を救いたい。あの子に、自分の人生を生きてほしいんだ」
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