余命数ヶ月


 一時の危機が去り、小康状態が訪れた。マルファッティは再び、外出を許した。



 「おい、あれを見ろよ」

劇場で、若い男が頭上の桟敷席を指差した。


 幕間の時間だった。

 手すりから身を乗り出して下を眺めたり、扇で合図を送ったり、桟敷席の貴賓達は、思い思いにくつろいでいた。


 言われるままに上を見上げたフランツ……皇帝でもその孫でもない、ウィーンで石を投げれば当たる「フランツ」の一人……は、ぎょっとした。

 ひどく痩せて窶れた姿が、友の指先にあった。


「あれは、ライヒシュタット公……か?」


 二人は、彼に会ったばかりだった。

 その時彼は、バイロンの「マンフレッド」について、熱く語っていた。

 論理的な思考。

 知的な切り返し。

 優雅で上品なものごし。

 あれから、わずか数ヶ月しか経っていない。(※1)


「まるで、……幽鬼のようじゃないか」


 期せずして二人は、3年前、フランスの詩人、バーセレミーの出版した詩集のことを思い出した。


 レンブラントの絵画から抜け出したような、青白い幻。

 感情をどこかに置き去りにしてきたような、悲しげな目。

 こわばった体、緑色の唇……。


 パリに落とされた爆弾ともいわれる、バーセレミーの詩集を、二人は読んでいた。長らく忘れていた帝王ナポレオンの息子の存在を、パリの人々に思い出させた詩集である。

(※2)


 不意に、ライヒシュタット公が、咳き込んだ。咳はなかなか止まらず、彼は、体を二つ折りにするようにして、俯いた。


 「ひどい咳だな」

友人がつぶやいた。

「もしや、彼は……」

病名を言うことができず、フランツは、言葉を途切らせた。


 ……結核。

 それは、死病だ。

 フランツと友人は思わず、顔を見合わせた。







 「殿下。お手伝い致しましょう」

「断る!」

 ライヒシュタット公が言い捨てた。ひどく掠れた声だ。咳き込みながら、宮殿の階段を登っていく。


 上官の後ろ姿を、モルは、悲しい思いで見つめた。

 同じこの階段を、長い脚で2段飛ばしに登っていった、あの、青年が……。

 彼は、笑いながら、無造作にモルの肩を叩き……。


 あの頃、彼は、確かに、モルが、好きだった。新しい付き人が、気に入っていた。(※3)


 わずか1年半の間に、いったい、何が起きてしまったというのだろう!



 本当の所、プリンスは、外出できるような状態ではなかった。

 今では、昼間でさえ、高熱の発作に襲われていた。ひっきりなしの激しい咳は、彼を、ひどく疲れさせた。発熱に伴う、凍えるような寒気も、また。


 それなのに、彼は、外へ出ていく。

 モルら付き人に、体調の悪さを、隠し続けている。


 単純なハルトマンなどは、すっかり、だまされていた。将軍は、パルマのマリー・ルイーゼに、プリンスはすっかりいつもどおりだ、心配なさらずに、などと書き送っている。


 マルファッティ医師もまた、プリンスの容態を、楽観視しているようだった。


 途中までは、モルにもわからなかった。それほど巧妙に、上官は、病を隠し続けた。

 だが、今、モルにはわかっている。

 彼の上官は、結核だと。

 それも、かなり悪化した。

 幼い頃、モルは、兄弟を、この病で亡くしていた。プリンスの症状は、弟が死んでいった過程を、まるでなぞっているようだ……。


 決して、自分たちに心を許さない上官を、モルは、悲しんだ。







 そして、マルファッティが病気になった。

 痛風だ。

 それでも、彼は、ライヒシュタット公の主治医の座を下りなかった。

 痛む体を引きずるようにして、診察に訪れた。

 なんという熱心な医者であろうと、人々は感動した。



 実際のところ、マルファッティは、休んでいるわけにはいかなかった。

 長引く咳と高熱に、新たに二人の医師が召喚されたのだ。

 ヴィーラー医師と、ライマン医師だ。

 二人とも、医師としては、優秀だった。

 だが、政治的な力は、全くなかった。


 特にヴィーラー医師は、完全に、マルファッティの子飼いだった。

 彼の手柄を、マルファッティは、横取りしている。イシュルでの鉱泉浴を提案したのは……結果、ゾフィー大公妃はめでたく懐妊した……、マルファッティではない。ヴィーラーだ。しかし、メッテルニヒの介入もあって、ヴィーラーは、自分の手柄だと言えない。もちろん、マルファッティも、相応の便宜を、ヴィーラーに図ってやっている。(※4)







 4月15日。

 プリンスの診察を終え、医師たちは、別室に集った。


 ホーフブルク宮殿の一室。重厚な彫刻が施され、厚手のカーテンと絨毯が、騒がしい市街の音を締め出している。

 新任の、二人の医師は、緊張していた。



 「それで、君たちは、どう診たかね?」

おもむろに、マルファッティが切り出した。

 ウィーンで、1、2を争う名医である。しかも、彼は、ゾフィー大公妃の、主席担当医でもある。


 ヴィーラー医師もライマン医師も、敬意を持って、耳を傾けていた。


「私はこれを、肝臓の病だと診断した。または、胸の病か」

 最後の一言を、控えめに、マルファッティは付け加えた。


 もちろん、二人とも、名医の見立てに賛成した。


「マルファッティ先生の、触診は、肝臓の病状を改善しました」

 ヴィーラーが褒めそやした。

「それゆえ、肝臓の状態は、申し分ありません。今、心配すべきは、むしろ肺……」


「しかし、依然として、咳の発作が、患者を苦しめている。高熱も続いている。だから、お二人を煩わせる仕儀にあいなった」

ヴィーラーの口を封じるように、マルファッティが言った。



 言いかけた言葉を遮られ、隣りにいるヴィーラーが鼻白んだのが、同じく新任医師のライマンにはわかった。ここに至るまで、マルファッティは、「肺」という言葉を、一度も口にしていない。

 ……しかし、肺の病であることは、一目瞭然。

「マルファッティ先生。私もヴィーラー医師のおっしゃるように、」

勇気を出して、ライマンは口を出した。


「まず、今までの経過を話そう」

 権威ある医師が、冷たい目線を投げた。思わずライマンは、出かかった言葉を引っ込めた。


 自信を持って、マルファッティは述べ立てた。

「お二人も聞き及んでいるであろう。プリンスは、毎日のように、劇場やサロンへ外出される。乗馬もなさる。熱があるにもかかわらず、だ。このような患者の度を越した活発な活動が、この病の、根本原因ではないかと、私は、考えるのだ」


 なおもマルファッティは、医者の言うことをきかないプリンスの頑固な性格について、述べ立てた。


「だが、咳の発作は、昨年の秋から続いている発作の、再発にすぎない。従って、胸の病も、さほど心配する必要はあるまい」


 ……違う。

 新任の二人の医師は、顔を見合わせた。

 二人は、聴診器で、プリンスの胸の音を聞いた。ナポレオンの侍医の弟子が開発した、聴診器で。


 そして、確信した。

 ……これは、結核であると。

 それも、かなり進んだ……。



 こほんと、マルファッティが咳払いをした。自らの病をおして、今日の医療会議に出席した、名医だ。

「従って今、最も憂慮すべきは、下がらない高熱と、プリンスの過活動だ」


 「しかし、お胸の音が……」

おずおずと口を開いたライマンを、マルファッティが、じろりとにらんだ。

 マルファティの権威の前で、二人の医師は、肺は、ベストな状態ではない、と言及するのが、やっとだった。







 ライヒシュタット公の診断を終えると、マルファッティは、早々に帰っていった。

 痛風が辛かったのだ。


 残された二人の医師は、皇帝に召喚された。


 「それで、お二人は、どう、診断されたか」

皇帝直々の質問だった。


「肺は、満足できる状態にはありません」

 マルファッティを含めた公式見解を、二人を述べた。

 新任の二人には、権威あるマルファッティの見解を覆すことは、できなかった。


「それは、どういうことなのか? お二人の感じるままに述べられよ」


 だが、皇帝じきじきの、さらなる下問に、二人の医師は、真実を話さざるを得なかった。


「残念ながら、希望は、ありません。患者は、肺の断片を吐き出しています。あと、数ヶ月の命でしょう」


 皇帝は、息を呑んだ。

「孫は、助かる道はないのか」


「気候の穏やかな、暖かい場所で療養なさったら、……あるいは」

「イタリアでの療養をお勧めします」

二人の医師は、交互に答えた。




 皇帝はこれを、宰相メッテルニヒに伝えた。

 メッテルニヒは、パルマに手紙を書いた。


ご子息のご容態については、医師からお聞き及びのことでしょう。お気づきのように、我々もいくらかの不安を感じております。


医師たちはなお、肝臓の不調を探っているようです。しかし、プリンスくらいの年齢では、不調の場所は、ころころ変わるものです。我々は最善の状態を望んでおり、プリンスの為に、できる限りの力を尽くします。ですから、どうぞ、ご安心なさって下さい。



 新任医師二人の憂慮について、ましてや、余命数ヶ月と診断されたことについては、明かされなかった。

 肺の病と言う言葉さえ、一言もなかった。(※5)








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※1 バイロンの「マンフレッド」と、石を投げれば当たる「フランツ」

10章「マンフレッドの苦悩」、ご参照下さい。



※2 バーセレミーの詩集

"Le Fils de l’Homme" のことです。直訳すれば、「その男の息子」になります。通常、「男」とは、「神」を指しますが、この場合は、ナポレオンを暗喩しています。

6章「キリストの犠牲 1、2」「パリの爆弾」、参照下さい。



※3 階段を駆け上がっていくプリンスを、後ろから見つめるモル

8章「大事に家に飾られた、小さなかわいい奥さん」、ご参照下さい。



※4 イシュルの鉱泉浴

10章「マルファッティの診断」、ご参照ください。「塩の王子」のお話です。



※5 メッテルニヒの手紙 

二人の医師が皇帝に上奏した内容を、メッテルニヒが把握していたことは事実です。夫から聞いた話として、4月20日付で、メッテルニヒの妻が書き残しています。

つまり、メッテルニヒは、プリンスが結核で、余命僅かということを知っていました。手紙は、その上で、彼が、パルマのマリー・ルイーゼに書いたものです。






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