父親の罪を償うだけの人生
ヨーハン大公がシェーンブルンを訪れると、
「シェーンブルンに集めた、アルプスの植物の世話に来たんだ。暑くなってきたからね。庭に穴を掘って、そこに、入れてやるんだ……」
話しながら、ヨーハンは、フランツの様子を窺った。
久しぶりで会った兄の孫は、ぎょっとするほど、痩せていた。顔は土気色で、頬骨が浮いて見える。座っているから目立たないが、その体は、服の中で、泳いでいるようだ。
「俺に遠慮することはないぞ。苦しかったら、横になれ」
今すぐそれが必要なように、ヨーハンには思えた。
「大丈夫です。元気ですよ、僕は」
掠れた声で、フランツが答えた。
到底、元気そうには見えない。
ヨーハンは、さり気なく、フランツの右側に座した。左の耳は、聞こえづらくなっているからだ。部屋に通してくれた付き人のモルが、教えてくれた。
歩き回ることも苦痛で、夜は眠れず、苦痛に呻いているという。
……「それなのに、殿下は、我々付き人にさえ、一言も、苦しいと、お漏らしにならないのです」
モルは、嘆いていた……。
初夏の、暑い日だった。
フランツは、きっちりとフロックを着用していた。
……てっきり、寝間着姿だと思っていたのに。
話題を変えようと、ヨーハンは言った。
「まだ、炭酸水を飲み続けているんだってな」
「喉の為です。声が出ない将校では、話になりませんから。号令がかけられない司令官なんて」
絶望と、それに、ほんの少しだけ、誇りが滲んだ。
僅かな期間だったが、彼は、確かに、連隊を動かした。実際に号令し、先頭に立って、大隊の指揮をした。
「……」
あと数ヶ月の命と診断が下ったことは、ヨーハンも聞き及んでいた。
ひどいショックだった。
妻のアンナも、嘆き悲しんでいた。
……。
しかし、まだ希望はある。
ついでのように、ヨーハンは言った。
「ここは暑いな。アルプスは涼しいんだがな。空気もきれいだ。フランツ。俺の城へ来い」
「いやです」
「なぜ? アルプスはいいぞ。少なくとも、ここよりずっと涼しい」
「アルプスには行きません」
それが、自分への思いやりだということは、ヨーハンにもわかっていた。
皇帝よりも有能な弟、ヨーハン。彼は未だ、軍を退いていない。その上、アルプスの郵便局長の娘を妻に迎えたことにより、民衆の人気も、衰えることをしらない。
彼は、
滅多なことはできない。
ナポレオンの息子を、城に迎えれば、メッテルニヒの注意を誘うことは、必定だ。
「前にも言った。俺のことは心配いらない」
「いいえ、大公。僕は、ナポリへ行く予定ですから」
掠れた声が、応えた。
「ナポリ?」
確かに、療養地としては、一般に、アルプスかイタリアかと言われていた。
しかし、ナポリとは……。
「ナポリは暑いぞ。夏の間だけでも、アルプスへ来いよ。揺れの少ない、大きな馬車を仕立てて、休み休み来ればいい。
「……ヨーハン大公」
突然、フランツの声が裏返った。
「どうしてそんなに、僕に親切にして下さるのですか。あなたも、サレルノ公も、あの、F・カール大公(叔父。ゾフィーの夫)でさえ、ひっきりなしに、僕を見舞いにくる。 僕にはそんな価値など、全くないというのに!」
「価値がないなどということが、あるものか」
突然の感情の表出に、ヨーハンは戸惑った。
「お前はお前だ。大切な身内じゃないか」
「僕は……」
フランツは、顔を上げた。
「僕は、この国を、めちゃめちゃにしてしまうかもしれない。オーストリアから、神の庇護を奪い去ってしまうかもしれない!」
「何を言っているのかわからないが、」
……病気のせいだろうか。
ヨーハンは考えた。
だったら、興奮させていいことなど、ひとつもない。なんとか、落ち着かせなければならない。
「安心しろ、フランツ。オーストリアは強大だ。この国をめちゃめちゃにする? お前にそんな力はないよ」
「この事実を知ってもですか?」
大きく、フランソワは息を吸った。
少し、咳き込む。
「僕は、
「なんだって?」
さすがに、聞き捨てならないと、ヨーハンは思った。
幸い、人払いはしてある。
声を潜めて、彼は尋ねた。
「どういうことだ?」
「何年か前の、宮廷狩猟のことです。僕は、彼に向けて銃を発砲し……、」
「おいおい、フランツ」
ヨーハンは遮った。
その話なら、知っている。
「手の込んだ芝居だな。それは、単なる事故だったと、調べがついているじゃないか」
「事故じゃなかったら?」
「周りで……お前の周りでも、フェルディナンドの周りでも、多くの者が見ていた。第一、あそこは、フェルディナンドが気まぐれで、急にテントを張ったのだ。お前は、彼がどこにいるかさえ、全く知らなかった。ありえないことだよ、殺意なんて」
「そういうことじゃないんです!」
涙の混じった声で、フランツは言い募った。ひどく感情的になっている。
「ヨーハン大公、あなただっておわかりでしょう?
言葉を途切らせた。
フェルディナンドには、体質的に、政務は不可能だ。彼が皇帝に即位した場合、どうしても、摂政が要る。
恐らく……間違いなく、メッテルニヒが、摂政になるだろう。
それは、ヨーハンのみならず、ウィーン宮廷全てが、危惧していることだった。
旧態依然とした、ウィーン体制が維持される。目まぐるしく変化する世界から、オーストリアは、取り残されてしまう……。
ヨーハンの顔色を読んだのだろうか。
フランツが、激情をぴたりと鎮めた。
相変わらず掠れ、乾いた声で、彼は問いかけた。
「ですが、もし、フェルディナンド大公がいなくなったら?」
「フランツ!」
遮ろうとするヨーハンを、フランソワは斥けた。
「僕は、ありうべき未来を述べているだけです。フェルディナンド大公亡き後は、時期皇帝には、フランツ・ヨーゼフが即位する。彼は、F・カール大公とゾフィー大公妃の間の皇子です」
「ああ……」
F・カールとゾフィー。
フランツの叔父夫妻は、二人揃って、
彼らの息子であるフランツ・ヨーゼフが即位したなら……。
「フランツ・ヨーゼフの治世下なら、僕は、この国で、自由に振る舞える。初めて、オーストリアの鎖から、解き放たれるのです」
それだけではない。メッテルニヒに代わり、フランツは、この国で、大きな権力を手に入れることができるかもしれない。
ナポレオンの息子が。
「はっきりと意識したわけじゃない。だが、無意識のうちに、僕は、それを知っていた。だから僕は、心の奥底で、いつも、
「いい加減にしないか!」
烈しい声で、ヨーハンは遮った。
「あれは事故だ。お前は今、病で心が弱っている。だから、全くなかったことの妄想で苦しんでいるのだ。まずは、休め。そして、元気になれ」
心が痛み、最後の方は、祈るような口調になっていた。
「暑いのも、良くない。この部屋は、全く、炉の中のようじゃないか。暑さは、弱った体を消耗させる。アルプスへ来い。
「アルプスへは行きません」
「強情を張るな!
軍の付き人は、信用ならないと、ヨーハンは思った。あの東洋系の若者は、軍人ではなかった。ウィーンの街の、庶民のように見えた。庶民を、ヨーハンは信用している。
ふっと、フランツの顔から、表情が消えた。
「アシュラなら、死にました」
「死んだ?」
「あいつが死んで、僕は一人ぽっちになりました。僕は、ナポリへ行きます」
「ナポリ……」
フランツの顔が、くしゃりと歪んだ。駄々っ子だった子どもの頃そのままの、手のつけられなさだ。
「奥さんが大事だったら、ヨーハン大公。僕にもう、優しくしてはいけません。僕に関わったら、貴方方も、無事では済まされない」
「そこまで言うのは、」
ためらいがちに、ヨーハンはその名を口にした。
「未だに、ナポレオンの影から抜け出せていないからか? 偉大なる父親を、忘れられないからか」
「父が流した多くの血の為に。父が果たし得なかった理想の為に。いいえ、おじさん。父の影ではありません。僕は、父を超えようと思います」
「ナポレオンを、超える……?」
「良い意味ではないのです。神との関係において。そして……」
一瞬、言葉を途切らせた。
すぐに、決然として続けた。
「悪魔との関わりにおいて」
「フランツ……」
何と言って良いのか、わからなかった。
というより、ヨーハンには、なにひとつ、理解できなかった。
慈しみ、可愛がってきた親戚の子どもが、急に、別人になってしまったような戦慄を、ヨーハンは覚えた。
「前々から聞きたいと思っていました」
細く掠れた声がゆらいだ。
「ヨーハン大公。優秀で、人望もありながら、あなたはなぜ、
ヨーハンの顔色が変わった。
「俺は……俺も、
「あなたほどの人が、くだらないしきたりを反故にすべきだと、考えなかったんですか? 優秀な人間こそが、国を動かすべきです」
「優秀? 優秀ってなんだ? 俺は、
「わからない。だって、カインは、アベルを殺したではないですか」
聖書の話だ。
カインとアベルは、アダムとエバの息子だ。
兄のカインは、両親から可愛がられていた弟アベルに嫉妬し、殺してしまった……。
「皇帝は、カインではない。俺も、アベルほど善良ではない。いいか、フランツ。長男即位は、長く続いた、ハプスブルクの秩序だ。秩序を乱せば、争いが生じる。我々の場合、それは、戦争だ」
「……」
フランツは、絶句した。
なおも、ヨーハンは続けた。
「戦争になれば、人がたくさん死ぬ。兵士も、民も」
「……皇帝は、軍の先頭に立って、」
「皇族が死ぬようじゃ、戦は、負けだ。それより前に、戦線の兵士が、そして、銃後では、民が、弱いものから死んでいく。老人や子どもが、身寄りのない貧しい者が、真っ先に、死ぬんだよ」
「……」
フランツの顔色は、蒼白だった。
ヨーハンは、調子を和らげた。
己に正直に、より、個人的な感情を伝える。
「すまん。偉そうなことを言った。俺は、生きたい。生きて、命を繋げたいだけだ」
「死と労働。禁断の木の実を食べ、楽園を追い出された
……父親の罪を償うだけの人生。
それは、フランツの人生そのものであるように、ヨーハンには思えた。
今、その命までもが、潰えようとしている。
だったら、彼にとって、死は救いなのかもしれないと、はからずもこの時、ヨーハンは思った。
「俺の息子になれ、フランツ」
衝動的に、ヨーハンは言った。
「俺とアンナの息子になるんだ、フランツ」
冗談だと取ったのだろう。
痛々しいほど痩せた顔に、ふっと笑みが浮かんだ。子どもの頃の笑顔を、遠く思い起こさせるような、清い、汚れのない笑顔だった。
ヨーハンは、隠しに手を入れた。
ここに来た、本来の目的を思い出したのだ。
フィレンツェのザウラウ大使……彼の古くから幕僚……から送られてきた手紙を、ヨーハンは取り出した。
ナポレオンの弟、ルイ・ボナパルトからの手紙だ。
無言でそれを、フランツに手渡した。
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