この、バカ息子!
「モーリツ! モーリツ!」
外出から帰ってきたエステルハージ伯爵は、大声で息子の名を呼んだ。
「モーリツ!」
「あら、あなた」
息子より先に、妻のファニーが出てきた。
「遅かったわね。何よ、大きな声を出して。使用人たちがびっくりするじゃない」
「それどころじゃない。モーリツはいるか。モーーーリーツッ」
どたどたと、耳障りな足音が聞こえた。
だらしなくガウンを引っ掛け、脱げかけた靴を引きずって、彼の息子が、階段を下りてきた。
「おかえりなさい、父上」
「いたか、モーリツ。お前、お前……」
エステルハージ伯爵は、息を詰まらせた。みるみる顔が赤く染まっていく。
「お前、いったい、何をした!」
「あなた。何をそんなに、興奮なさっているの?」
母のファニーが尋ねる。
「辞令が下りた。モーリツ。お前にだ」
「まあ! ようやく、モーリツにもお仕事が与えられるのね!」
嬉しそうに、ファニーが、胸の前で手を打ち鳴らす。
「ようやくうちの子も、人並みに朝起きて、官庁に出勤……」
「何を呑気なことを! モーリツ! この馬鹿息子!」
「いやねえ。こんなにおめでたいときに……」
呑気に言い募る妻を、伯爵は押しのけた。
危険なくらい赤らんだ顔で、息子を睨み、怒鳴りつけた。
「いったい、何をしでかしたんだ!?」
「特に何も、していませんが」
モーリツはきょとんとしている。
「ナポリだ、ナポリ!」
エステルハージ伯爵は喚き立てた。
「お前の赴任地は、両シチリア王国だ! イタリア半島の先っぽだ。ハプスブルクの領土でさえないんだぞ!」
胸の前で手を組んだまま、母は絶句した。
「名門、エステルハージ家の息子が! なんたるざまだ!」
父は、ぶるぶる震えだした。
モーリツは、固まってしまった母の腕を取り、静かにソファーに座らせた。
*
「モーリツ。あなたに感謝するわ」
激高したまま、父がワイン庫へ消えると、母は囁いた。
「だって、お前には、もっと極端なことだって出来たはずですからね。そうしたら、ナポリどころじゃ、すまなかった筈」
「極端なことって?」
母の隣に腰を下ろし、モーリツが尋ねる。
「あなたは、ライヒシュタット公についていたいんでしょ? あの方と一緒に、地の果てまでも行ってしまいたいと熱望している」
ちらりとモーリツを見た。
すぐに目をそらす。
「でも、その焼け付くような思いを
「僕の彼への忠誠は、とても奇妙で風変わりなものです。でも、忠誠であることに、代わりはありません」
「わかっているわ」
ウィーン会議の頃、モーリツの母は、メッテルニヒのスパイを務めていたことがある。
外国の要人を自宅に招き、パーティーを催し、その本音を探った。
だが、友を得て、メッテルニヒから離れていった。
マリー・テレーズ。
ルイ16世とマリー・アントワネットの娘、前のフランス王太子妃だ。
タンプル塔を出てウィーン宮廷に引き取られてきた彼女は、ファニー(モーリツの母)に心を許した。
当時、オーストリア皇帝は、フランスの王女であった彼女と、弟カール大公との結婚を計画していた。同時に、
父方、母方の両方の従兄から、彼女は、妃にと、目されていたのだ。
マリー・テレーズの真意を、オーストリア政府は知りたがった。
ファニーは、マリー・テレーズから、恋の相談を受けていた。
どの乙女にも等しく訪れる、純粋な恋の、悩み。親しい友達との語らいの一時。
それが、二人の間にはあった。
だが、ファニーは、メッテルニヒに、何も報告しなかった。静かに、足音を忍ばせるようにして、メッテルニヒから離れていった。
ファニーは、マリー・テレーズの友情を選んだのだ。彼女は、スパイから、身を引いた。
やがてマリー・テレーズは、ミタウに旅立ち、
1827年、ファニーは、もうすぐ20歳になる息子、モーリツとともに、フランスに招待された。二人は、
ヴィルヌーヴ・レタン(パリ近郊にある、マリー・テレーズの領地)の小さな家には、彼女の宝物ばかりが集められていた。その中には、「ファニー」の肖像画も、大事そうに飾られていた。
テーブルに立てられた若い頃の母の肖像画を、息子のモーリツが、驚いたように、見つめていた。(※5章「ファニーの手柄 1,2」、ご参照下さい」
……。
「ライヒシュタット公は、
「ライヒシュタット公は、彼女のことを、敵だなんて、思っていませんよ」
少し高い位置から、モーリツの声が降ってきた。
「そうね。でも、彼女は違う……」
深い溜め息を、ファニーはついた。
「友情のために、全てを犠牲にできなかったあなたに、心からの謝罪を。でも、感謝するわ、モーリツ」
「母上……」
彼女を呼ぶ声が、裏返った。掠れた声で、息子は続けた。
「あなたも、グラザルコヴィッチおばさまと一緒に、彼の為に、力を尽くして下さいました……(※この章の「憂愁」、ご参照下さい)」
「うまくいかなかったけれどね。ロシア軍がポーランドに入ったわ。それに、メッテルニヒの新しい奥様は、ライヒシュタット公がお嫌いのようよ……」
「宰相ご自身は、僕のことも嫌いのようですね」
「ライヒシュタット公と親しくする者は、みんな嫌いなのよ、あの宰相は。プロケシュ少佐も左遷されてしまったし。あ、栄転だったかしら?」
「残念ながら、僕は、栄転じゃありませんがね」
ファニーは思わず、吹き出した。
横にいる息子の顔を覗き込むと、ほっと安堵の表情を浮かべている。母が笑ったので、安心したのだ。
この息子が、ナポリへ行ってしまう……。
ファニーの胸は、いっぱいになった。
「ナポリには、オーストリア軍の力は及びません。大部分がイタリア半島の外へ亡命したとはいえ、未だ、潜伏しているカルボナリも多いと聞きます。気をつけてね、モーリツ」
「はい」
「あなた、言葉は大丈夫? ドイツ語じゃないのよ?」
「僕だって貴族の端くれですよ? 大丈夫に決まってます」
「市井の人には、イタリア語も通じないわよ?」
「えっ!」
(※南イタリアは、標準的なイタリア語が通じない場合があります)
ファニーはため息をついた。
彼女の心配は尽きない。
「ヴェスヴィオ噴火は、大丈夫かしら。もし、溶けた熱い岩石が、麓の町を襲ったら……」
「ナポリまでは来ませんって。それに、前の噴火は、もう、9年も前のことですよ? 大丈夫、僕の赴任中は、噴火なんかしません」
「そうね。あなたは、運の強い子ですものね……」
泣き笑いの表情で、母は微笑んだ。
*
5月。
プロケシュ少佐がボローニャへ赴任して、2ヶ月後。
官命を受け、モーリツ・エステルハージが、ナポリに旅立っていった。
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