ランシュトラーセの陰謀
プロケシュ=オースティン。
モーリツ・エステルハージ。
プリンスの「親友」には、ボローニャとナポリへ、それぞれ去ってもらった。
モーリツ・ディートリヒシュタイン。
何かとうるさいこの家庭教師にも、手は打ってある。
だが、恨まれる筋合いはない。
プリンスには、素晴らしい付き人をつけてやったのだから。ヨーハン・カール・モルは、きっと、プリンスの気にいるだろう。
つい先ごろも、モルは、縁談を断ったという。相手は、名門ロンバードティンティ家の、まだ20歳前の令嬢だ。
宮廷の、某伯爵夫人の仲介だった。モル自身の出世のためにも、またとない良い話であろう。なのに、モルは、その場で断ったという。
それはつまり……、
軍での噂を思い出し、メッテルニヒは、にやりと笑った。
メッテルニヒは、鈴を鳴らした。
現れた秘書官に、ワインのボトルを差し出した。
「これを、トスカーナの、ザウラウ侯へ。長年の彼の貢献に対する、宮廷からの謝礼だ」
侍従は、目を細めた。
「侯爵様も、さぞ、お喜びになることでしょう」
メッテルニヒは、大きく頷いた。
「宮廷の地下のワインセラーに、同じものが、幾つか用意されている。定期的に、送って差し上げるとよい。おお、そうだ。ゲンツもこの酒を好んでいる。彼にも届けてやってくれ」
「かしこまりました」
静かに、秘書官は、退出していった。
メッテルニヒは立ち上がった。音もなく、執務室を出る。
馬車に乘り、郊外の館へ向かった。
メッテルニヒの館は、旧カウニッツ邸である。亡くなった妻、エレオノーレを通して、相続した。
ここは、ウィーン市内ではない。
メッテルニヒは、一人になりたくなると、ランシュトラーセにある、このこの邸宅に来る。
……イタリアに暴動が起きた。
……モデナやパルマは大荒れだ。
これら2つの公国は、いずれも、ハプスブルクの血を引く君主を戴いている。オーストリアの、間接支配国だ。
暴動は、教皇領にまで飛び火している。
イタリア統一の為の蜂起は、反オーストリア、反教皇の動きと、同一なのだ。
パルマのマリー・ルイーゼは、賢明にも、オーストリア駐留軍の元へと逃げ込んだ。未だパルマ官邸には帰れないが、彼女と彼女の子どもたちは、安全だ。
だが、モデナ大公フランチェスコ4世は、ウィーンに亡命を余儀なくされた。
まあ、彼は、オーストリアに対して、少しばかり、独立心が旺盛過ぎたのだが。反オーストリア運動の指導者たらんとした彼は、カルボナリを引き入れ、味方につけようとした。
……そして、飼い犬に手を噛まれた。
カルボナリによる、イタリア独立運動が手に負えなくなり、他ならぬオーストリアへ助けを求めた。
モデナ公は、今、空位である。
誰が言い出したのか。
……ライヒシュタット公を、モデナ公に!
ウィーン宮廷の、あちこちで囁かれている、声……。
性懲りもなく!
ギリシア王、ベルギー王、ポーランド王、(コルシカ王、などというのもあったか?)……、
今度は、モデナ公とは!
つくづく、うんざりだった。
ナポレオンの息子は、ヨーロッパの王位からは永遠に締め出してやったというのに!
ウィーンに亡命してきたフランチェスコも、今では、反省していることだろう。それに、なんといっても彼は、
オーストリア軍の介入により、蜂起の鎮圧は、目前だ。モデナ大公には、フランチェスコが復位すればよい。
ナポレオンの息子の出番など、ないのだ!
……ライヒシュタット公を、モデナ公に!
これが、誰の扇動かは、おおよその察しがついていた。
イタリア絡みは、すべてこの人物の仕業だ。
ザウラウ。
皇帝の信任の厚い、重臣。
メッテルニヒさえ、若造呼ばわりする、引き際を知らぬ、年寄り。
まだウィーンにいた頃、ザウラウは、ライヒシュタット公のアルプス療養を打診してきた。
郵便局長の娘を妻を娶り、民衆の人気の高いヨーハンが。
……ザウラウがいなければ、ヨーハン大公にも、打つ手がなくなるだろう。
そう考えて、彼を、イタリアへ送った。
メッテルニヒは、イタリアの騒乱を予見していた。医師のマルファッティが、密告してきたからだ。彼は、カルボナリと、連絡を取り合っている。
メッテルニヒは、イタリア騒乱に紛れて、ザウラウが消えさることを願った。
必要なら、ちょっと、手を貸してやってもよかった。
……だが、ザウラウのいるトスカーナは、平穏だ。
目論見が外れたと、メッテルニヒは思った。
モデナやパルマと同じく、オーストリアの支配地域でありながら、トスカーナだけが、平和で、穏やかなままなのは、想定外だった。
トスカーナは、経済や内政はイタリア人、軍事・外交は、オーストリアが担当している。
中部イタリアの中では、最初に、騒乱が起こりそうな公国だと思われたのに。
今のトスカーナ大公は、オーストリア皇帝の甥に当たる。真面目一方の、面白みのない人物だ。生活も質素で、妻を熱愛しているという。それゆえ、民衆に、慕われているのかもしれなかった。
だが、メッテルニヒの目には、つまらない男だと映った。トスカーナ大公の生活ぶりは、彼の伯父……そして、メッテルニヒの
……父親も、気に食わない男ではあった。
大公の父、フェルディナンドは、皇帝の弟だ。ハプスブルク家として、ナポレオンと、最初に接触した大公である。
フェルディナンドは、イタリアに侵攻したナポレオンを居城に迎え、もてなした。
あの、無頼者の集団を!
結局、フェルディナンドは、ナポレオンにより、イタリアの領土を奪われた。だが、代わりに、ザルツブルク選帝侯領が与えられた。
それゆえであろうか。
彼は、ナポレオンに対して、悪意は抱いていないようだった。それどころか、
……まあ、確かに、ナポレオンの妹たちは、美人ぞろいではあった。
……特にあの、ナポリ王ミュラの妻、カロリーヌは。
昔、思い出せないくらい遠い昔、メッテルニヒは、フェルディナンドと、
はずだ。
……本当に、思い出せない。
メッテルニヒのカロリーヌへの思いは、ウィーン会議の辺りで、断ち切れている。フランスから逃げてきた彼女に、フロスドルフ城を与え、トリエステに亡命させた時点で、ふっつりと途絶えてしまった。
落ちぶれた帝王の妹には、もう、魅力は見いだせないから。
第一、往年の美女も、今では、相当な年齢のはずだ。すでに、女ではなくなっているだろう。
その上、メッテルニヒは、31歳年下の
昔のことなど、思い出す必要はない。
今回の中部イタリアの蜂起が、トスカーナに及ばなかったのは、本当に、残念だった。
だから、在トスカーナのオーストリア大使、ザウラウも、生真面目な
ザウラウには、本当に、苛立たせられる。
おまけに、まだまだ、長生きしそうだ。
……悩みのない人間は、いつまで経っても、つやつやと、元気なものだ。
下手をすると、「若造」メッテルニヒより、長生きしかねない。
彼が老い衰えるのを、ゆっくりと待ってはいられない。
これらはいずれ、ザウラウの胃に納まるはずだ。
そして、
……ゲンツの胃にも。
言論弾圧の礎、「カールスバートの議定書」の草稿を書き、メッテルニヒの右腕だったゲンツは、しかし、いつの間にか、メッテルニヒを批判するようになっていた。
彼は、都市の産業発展の裏に、みじめな労働者の生活があることに気がついていた。
メッテルニヒが、決して、目を向けようとしなかった領域だ。
ゲンツは、次第に、メッテルニヒから離れていった。この頃は、硬直したウィーン体制に対し、批判的な意見を口にするようになっいる。
彼は、次の革命を予期していた。プロケシュはじめ、有能な若者を集めて、勉強会を開いている。
メッテルニヒにとってゲンツは、危険な存在となりつつあった。
……少しずつ、効果が現れること。あたかも、慢性の病であるかのように。
……1年くらいかな?
ウィーンとトスカーナ。
ゲンツは70歳間近、ザウラウに至っては、70歳過ぎだ。
離れた場所で、2人の年寄りが死んでも、それは、老衰で片付けられるはずだ。
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