9 軍務と恋のゆくえ

またしてもウィーン


 1831年6月。

 フランソワは、ハンガリー第60連隊大隊長に任命された。

 彼は、配下に連隊を持つことを許された。念願の、司令官になったのだ。


 しかし、この連隊の司令本部は、ウィーンにあった。アルザー通りは、ホーフブルク宮殿から通える距離だった。

 上官は、イグナティウス・グレリ、すぐに、以前からの上官、グスタフ・ヴァーサ公に代わった。







 家庭教師のディートリヒシュタインは、深く深く、失望していた。

 密かに期待していたのに、彼の教え子は、大佐の辞令を受けることができなかった。

 それに、赴任地は、ウィーン。


 確かに、ディートリヒシュタインは、彼は、ウィーンに残るべきだと主張した。

 でもそれは、社交・外交の分野においてであって、軍人としてではない。


 皇帝の危惧は、よくわかる。プラハやブルノのような辺鄙な地方へ赴任させ、外国のスパイや暗殺者が接触してくるのを、恐れたのだ。

 つい先ごろの、イタリア動乱も、皇帝の心配に拍車をかけた形だ。


 外国人の接触は、ディートリヒシュタインが、昔から警告していたことだった。家庭教師として彼は、無責任な群衆の、プリンスへの熱狂……その美しさ、優雅さ、そして勇敢さと魅力的な人柄への……の危惧を、皇帝に具申した。


 だが、今や、プリンスは一人前の軍人である。判断力だって、しっかりしている。

 一体、何を恐れることがあろうか。


 確かにプリンスは、フランスとは戦えない。ナポレオンが、そう、遺言したからだ。

 これだって、先のことなど、わかりはしない。ウィーンにいても、フランス軍が侵攻してくる可能性が、ないわけではないのだ。


 何より、彼は、プラハかブルノでの勤務を、望んでいたではないか! あんなに、ウィーンの外に出たがっていたではないか!




 ディートリヒシュタインの失望とはうらはらに、肝心のプリンスは、大喜びだった。


 これでやっと、自分の連隊が持てる!

 配下に、兵士を抱えることができる!

 共に戦う同志たちと、軍務に励むことができる!


 彼にとって、何よりも大事なことだった。







 正式な就任は、14日だった。

 その日こそが、フランソワの、解放の日だった。

 もはや彼は、子どもではない。ライヒシュタット公として独立し、一家を構えることになる。

 何事も、自分の思い通りにできるのだ。




 そわそわと、プリンスは、その日を待ち焦がれていた。

 希望に満ちた教え子を、ディートリヒシュタインは、ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、追い回していた。


「強情を張るでない!」

「また、根拠のない言い訳を……」

「何をボケッとしているのです!」


 子どもの頃から繰り返してきた叱責を、ディートリヒシュタインは、さらに積み重ねる。

 それは、彼の寂しさと、不安の表れなのかもしれなかった。



 ディートリヒシュタインは、亡くなった親友の息子、グスタフ・ナイペルクを呼び出した。

「すぐに軍にはいれ。ハンガリー第60連隊だ。騎兵くらいなら、なれるだろう?」


 騎兵になるには、馬を所有しなければならない。父のナイペルクアダム(※1)は、パルマの要職に就いていたのだから、経済的には、可能だろう。



「ええっ!」

亡き親友の軟弱な息子は、心細い声を上げた。

「僕は、厳しい訓練には、耐えられません……」


「お前の耐えられないのは、メッテルニヒの監視だって、前に言ったじゃないか! 大丈夫だ。地方勤務じゃないから、監視も、そこまできつくない」



 ……プリンスと一緒にいると、自分まで行動を監視されるから、いやだ。

 前にそう言って、グスタフは、入隊を拒絶したことがある。(※2 6章「温泉の勧め」参照下さい)


「でも……」

「お前、プリンスと同じ年だろ? そろそろ独立の年齢だ。他にこれといって特技もないし。法律や外交、芸術にも、全く向いてない。もう、軍人しかないじゃないか」

「はあ」


「兄二人も軍に入っているだろうが。弟だって、いずれ、入隊するだろう。なんといっても、あの、アダム・ナイペルクの息子だ。お前だけが、軍に入らずに済まそうなんて、考えるなよ」


 ディートリヒシュタインは、几帳面な字で書き込まれた書類を、手渡した。

「ほれ、願書。代わりに書いておいてやったから」


「わかりました! 父の名を出されちゃ、僕だって!」

書類を受け取り、グスタフは胸を張った。

「それに僕は、プリンスに献身を誓ったのです。今こそ、この真心と友情を、彼に捧げます!」


「うむ。お前なら、プリンスから引き離されることはあるまい。プロケシュ少佐やモーリツ・エステルハージは、遠くイアリアへ追いやられてしまったが、グスタフ、お前なら、大丈夫だ」

「……それ、どういう意味です?」

「頼りないけど、いないよりまし、ってことだよ! プリンスの為、以後、励め!」

 親友の息子の背中を、ディートリヒシュタインは、どんと叩いた。








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※1 父のアダム・ナイペルク

言わずと知れた片目の将軍、マリー・ルイーゼの亡くなった2番めの夫です。彼は、パルマの執政官として善政を施し、その功績を全て、妻のマリー・ルイーゼのものとしました。


この、アダム・ナイペルクは、若かりし頃、魅惑的なブルネット、ラモンディーニ伯爵夫人テレサと恋仲で、夫の伯爵が亡くなると、彼女を妻にしました。二人の間には、4人の男の子が生まれました。その3番めが、グスタフです。


1814年7月、ナイペルクは、エクスの温泉へマリー・ルイーゼをに行きますが(失礼、皇帝に護衛を命じられたんでした)、その前に、テレサと離婚しています。彼女は、その年のうちに、亡くなっています。


つまり、ライヒシュタット公とグスタフ・ナイペルクは、(義理の)兄弟、ということになります。くどいようですが、血は、一滴も繋がっていません。


なお、ディートリヒシュタイン伯爵とアダム・ナイペルクは、友人同士でした。彼を、ライヒシュタット公の家庭教師に推薦したのは、ナイペルクです。












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