冬の旅


 「赤十字亭」は、閑散としていた。

 昼時だというのに、客は一人だけ。黒髪の若い男が、もくもくと、魚料理を食べている。


 店主は、舌打ちをした。

「畜生! 商売あがったりだぜ」


「この魚、おいしいよ」

客は言った。

「なぜ、客が来ないのかな」

「そりゃ、あんなことがあったからに決まってる。あんな……」

店主は言葉を濁らせた。


「あんなこと?」

「いや、なんでもない」


 つい先日のことを、店主は思い出した。若者の一群がやってきて、さんざん悪態をついて暴れまわった挙げ句、テーブルをひとつ、椅子を3つ、そして窓を壊していった……。



 「そういえば、シューベルトさんが亡くなったね」

客は言った。

 心の中を見透かされたようで、店主は、ぎょっとした。

「うちは、関係ねえぜ」

「僕、ヨーゼフ教会まで、葬列についていったんだ。沢山の人が、彼の音楽を奏でていて、まるでちょっとしたお祭りみたいだった」


 店主は、警戒した。猜疑深い目で、客をじろじろ眺めた。

「あんたも、音楽家か?」

「いいや」

「じゃ、なんで、葬列なんかに、ついていったんだ?」

「だって、威張れるだろ? 将来、子どもや孫に、さ。あの有名なシューベルトの葬列に、俺は、ずっとついていったんだぜ、って」

「……」


 音楽家の、フランツ・ペーター・シューベルトが人気があることは、店主自身、身を以て理解していた。音楽家の死後、彼のファン達に壊された椅子やテーブルの残骸は、まだ、店の裏手に積み上げてある。


「あ。そういえば、シューベルトさんちは、このすぐ近くだった。お兄さんの、フェルディナントさんの家が」

 今、思い出したというふうに、客が言った。

「知らねえよ」

素早く、店主は答えた。客は小首を傾げた。

「だって、僕、行ったもん。玄関から、柩が運び出されるところも見てた」


「もの好きだね」

店主が言うと、客は、感慨深げに、店内を見回した。

「亡くなったシューベルトさんも、この店で食事をしたことがあるのかなあ」


「あんた」

凄みのある目で、店主は、客を睨んだ。

「あんたも、仲間か?」

「仲間? 何の?」

客は、きょとんとしている。


 黒い目はぼんやり濁っていて、見るからに愚鈍そうだ。どうやら、野蛮で未開な、東洋の血が混じっているようだ。この分では、音楽会になど、足を向けたこともなかろう。


 客は、店主の警戒など、全く気づかないらしい。

 「うまいうまい」

そう言いながら、魚にかぶりついている。


 店主は頭を振った。

 とにもかくにも、この若者は、客だ。しかも、この店の料理がうまいと言ってくれている。口コミで、他の客を呼んでくれるかもしれない。


 「すごくよく、火が通っているね」

客が言った。

「背びれなんか、黒焦げだよ……」


「そうだ!」

我が意を得たりとばかり、店主は叫んだ。

「うちの魚は……魚だけじゃなくどの料理も、よくよく火を通しているからな。それもこれも、客の健康を考えればこそだ!」


「ぼそぼそしていて食べづらいな。ソースはないの?」


「ソース? ダメだ、あんなもん」

奮然と、店主は鼻を鳴らした。

「あれは、ろくに加熱しないだろ? 分離しちまうからな。それじゃ、腹に悪い。うちは、婆さんが、腹が弱いんだ。だから、煙が出るほど火を通したものじゃないと、絶対に、店には出さない。固かろうが、炭臭かろうが、腹を壊すよりマシだろ?」


「う……うん」


「そりゃ、盛り付けは大事さ。でも、兄さんは、ウィーン子だ。コジャレた正体不明のどろどろをかけたメシなんか、食いたかないだろう? そんなんより、素材の味と鮮度で勝負した料理の方が、ずっといい!」


「……まあね」


「俺は、大衆に迎合しようとは思わない。シンプルな料理の良さを理解できる客だけがついてくれれば、それで、いいんだ。そう思って、今までやってきた……」


 不意に、深い悲しみが、店主を襲った。店主は、ガラ空きの店内を見回した。

「なぜなんだろうな。真面目にやってきたのに、なぜ、こんな……」


 その時、外から、ヴァイオリンの音が流れ込んできた。暗く陰鬱な調べだ。


「まただ!」

店主は、頭を抱えた。

「この頃毎日、昼時になると、ああして、店の外で、ヴァイオリンを鳴らすやつがいる……」


「『冬の旅』だね」

客の青年が言った。

「寂しい曲だ」


「こらあ!」

不意に割れた窓から身を乗り出し、店主は叫んだ。

「シューベルトが死んだのは、うちの料理のせいじゃないぞ!」


「シューベルトは、ここのメシを食ってから、具合が悪くなった!」

外からヴァイオリン弾きの声が聞こえた。


 店主は激高した。

「うちのせいじゃない! シューベルトの死因は、神経熱だって、新聞に書いてあった!」


「神経熱は、死因がはっきりしない時に医者が使う方便だ!」

嘲るような声が返ってきた。

「末期に診察した医者は、腸チフスだって言ってるぞ!」


「うちの料理のせいじゃない!」

負けずに店主は叫び返した。


 陰々滅々とした調べが再開される。


 店主は、振り返って客を見た。

「兄さん、あんたも、なんとか、言ってやってくれ」


 客は首を横に振った。おっとりと言う。

「『冬の旅』だな。僕は、『菩提樹』が好きだ」


 咽び泣くような調べが、窓から流れ込んでいる。

 がっくりと、店主は、壊れかけた椅子に腰を下ろした。


「俺だって、あの人シューベルトさんが、大好きだった。あの人は、興が乗ると、この店で歌ってくれて……俺は、金が溜まったら、ピアノを買おうと思っていた……あの人に、演奏して貰おうと!」

両手で顔を覆った。


 ヴァイオリンの音が止んだ。今日のところは気が済んだのか、ヴァイオリン弾きが立ち去ろうとしている。


 客がつぶやいた。

「残念。『氷結』で終わりか。親父さん、お勘定!」


 夢から覚めた人のように、店主は立ち上がった。

 機械的に金を受け取る。


「ああ、そうだ……」

釣り銭を渡しながら、店主は言った。

「あんた、フェルディナントさんの家を知ってるって言ったな。フェルディナント・シューベルトさんの……」

店の奥に引っ込み、カップを持ってきた。


 はっとするほど美しい、緑色のカップだった。

「これは……」

呑気そうだった客の顔が、にわかに緊張の色を孕んだ。


 不思議そうにその顔を見つめ、店主は言った。

「シューベルトさんが……亡くなった弟さんの……、忘れていったものだ。大切な親友に貰ったからといって、食事時には、毎回、このカップを使っていたんだそうだ。外食の時も、持ち歩いていて……」


ため息を付いた。


「あの日、食事の途中で気分が悪くなられて、そのまま、忘れていかれた。大事なカップなんだろ? あんた、フェルディナントお兄さんに、届けてやってくれないか? 今では、弟さんの形見になってしまったわけだけど、……」

 店主の分厚い唇から、嗚咽が漏れた。

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