ナポレオンの痕跡 2
人足たちが、長い柱を運んできた。ドーリア風に装飾された、美しい柱だ。
手前の土を掘り起こしている者もいた。どうやら、植樹をするらしい。
「ここは、つい、最近までは、瓦礫の山だったんだ」
立ち止まり、フランソワは言った。
「オーストリアは、お金がないからな。なかなか、修繕ができなかったんだよ」
「ここは?」
「ブルク・バスタイだ」
「ああ! 昔、堡塁だった……」
ようやく、アシュラにもここがどこかわかった。
市壁の一部に建造された、軍事施設だった場所だ。かつてここには、物見
もっとも、この、ブルク・
そういえば、ようやく修復工事に着工したと聞いていたっけ……。
「どんどん、修理が進んでいくんだ」
なぜか寂しそうに、フランソワは言った。
不意に、しゃがみこんだ。
「ほら! まだこの辺りは、まだ、直しきれていない!」
壁の修理はやりかけで、市壁の一部は、ひどく窪んでいた。
大きくえぐれたそこを、フランソワは、愛しそうに撫でた。ぽろぽろと、漆喰が崩れ落ちる。
深い溜め息を、フランソワはついた。
「ここを壊したのは、フランス軍だ。1809年、ウィーンを占拠したフランス軍は、立ち去るに当たって、この壁を打ち壊していった。……父上が、命じたのだよ」
「ナポレオンが!?」
アシュラは、息を呑んだ。
ナポレオン。
それは、全ての元凶だ。
フランソワは、まるで、独り言のように、話し始めた。
「アスペルンで、彼は、勇将、ランヌを失った。ランヌは、父上の、古くからの大切な友でもあったんだ」
「アスペルン……カール大公が勝利した時の戦いですね」
それを知らないウィーンっ子はいない。
ナポレオンの勝利神話に、初めてつけられた、汚点である。
オーストリアの若きプリンス、カール大公がつけた。
ふい、と、フランソワはそっぽをむいた。
「でも、オーストリアは、ヴァグラムで負けた!」
「……」
アシュラが生まれた村は、ヴァグラムのすぐ近くにある。この戦の後、アシュラの母は、村を出ていった。
フランス兵と一緒に。
生まれたばかりのアシュラをおいて。
「そもそも、その4年前、1805年の戦いで、ナポレオンは、『軍を移動させただけで』オーストリアを破ったんだ。ウルムでマック将軍が投降し、やがて首都ウィーンは陥落した。すぐにアウステルリッツで、オーストリアは、……オーストリアだけじゃない、ロシアもイギリスも……、フランスに、大敗した。父上の足元にひれ伏したんだ!」
フランソワは、ざらざらとした土の壁に、手のひらを押し当てた。まるでそこから、生きた鼓動を感じ取ろうとするかのように。
「それなのに、たった4年で、すっかり忘れて……」
アウフテルリッツの敗北後、必死で軍を立て直し、決起を宣言したのは、カール大公である。その傍らには、忠実な弟、ヨーハン大公の姿もあった。
「ドナウの流れは、レーテに注ぐのか!」
小さな声だった。だが、断固とした声だ。
(注 レーテは、ギリシア神話で、黄泉にあるとされる河。この河の水を飲んだ者は、全てを忘れるといわれている)
「パリに帰る時、父上はそう言って、フランス工兵隊に、
深い溜め息をついた。
「ここは、父上が壊したんだよ」
「……」
アシュラは、何も言えなかった。
ここは、フランソワにとって、父親の形見のような場所なのだ。父親が命じて、破壊させた堡塁だから。
だがそれは、オーストリア軍の、ウィーンの、防御施設だった……。
「帰るぞ」
唐突に、フランソワは立ち上がった。
服についた土くずを振り落とす。
振り返り、背後に立ったままだったアシュラに気がついた。彼は、口を尖らせた。
「なんだ、お前。僕を見下ろしていたな!」
「それは、殿下が、急にしゃがみこむからです」
「うるさい。言い訳をするな!」
馬の元へと戻っていく。
「宮殿に帰るぞ」
馬は騎手を乗せ、高々と前足を上げた。
堂々と手綱をさばくフランソワを、夕陽が斜めに照らし出す。
眩しさに、アシュラは目を細めた。
栗毛を落ち着かせ、フランソワは叫んだ。
「いくぞ!」
助走もなしに、呆れるほどのスピードで、走り始めた。
*
宮殿に戻ると、家庭教師のフォレスチが、待ち構えていた。
「いったい、どこへ行っていたんです?」
「乗馬です、フォレスチ先生」
礼儀正しく、フランソワが答えた。
「乗馬? どこまで?」
「ちょっとそこまで」
いささかめんどくさそうな調子が混じる。
「大丈夫ですよ、先生。怪しい外国人は、一人も接触してきませんでしたから。な、アシュラ」
「アシュラ! お前が一緒だったのか」
「はい」
アシュラは頭を下げた。
「ね。ご覧の通り、随行したのは、スパイだ。完璧でしょ、フォレスチ先生」
澄まして、フランソワは、皮肉を口にする。
「殿下……」
フォレスチは、ため息をついた。
「ああ、疲れた。僕は、夕食まで一眠りすることにします」
フランソワは、教師の小言から、逃げ出す作戦に出たようだ。言い終わるなり、寝室へ向かった。
階段の途中で振り返った。まっすぐにアシュラを見下ろす。
「僕には、このフォレスチ先生がいる。ディートリヒシュタイン先生も、オベナウス先生も。お前は、いろいろ余計なことをして回っているようだが、僕のことは、心配するには及ばない。ね、先生。そうでしょ?」
「あ? まあ、私のことは、頼ってくれていいよ」
急にふられて、フォレスチは戸惑っているようだった。
フランソワは、教師に向けて、にっこり笑った。
すぐに笑みを引っ込め、厳しい目で、アシュラを射すくめた。
「だからお前は、やり残したことを、さっさとやり終えて来い」
それだけ言うと、くるりと後ろを向いた。
唖然としているアシュラをそのままに、今度こそ、本当に、階段を登っていってしまった。
「だいぶ、晴れやかな顔になったな、アシュラ。外の空気に触れたせいだな」
プリンスの姿が見えなくなると、フォレスチが言った。アシュラの顔を、透かすように見ている。
「ここのところ、ずっと、元気がなかったからな、お前は」
「そうですか?」
「そうだよ。あまりに覇気がないから、ディートリヒシュタイン先生が叱りつけようとしたくらいだ。プリンスが止めたけど」
「プリンスが?」
意外だった。宮殿からアシュラを連れ出したフランソワは、むしろ、苛立たしげだった。
……自分が放つ無気力な雰囲気に苛立っていたのは、フランソワの方ではなかったか?
フォレスチは頷いた。
「そうだよ。アシュラは、フランツ・ペーター・シューベルトが亡くなって、悲しくて仕方がないのだから、許してやってほしい、って。音楽とか芸術とか言われると、ディートリヒシュタイン先生は弱いからな。プリンスは、彼の扱い方を、とてもよく心得ているよ。子どもの頃からの家庭教師だから。だが、私にはその手は通じないさ」
「……」
「私にはむしろ、プリンスが、シューベルトの名前を知っていたことの方が、意外だったよ。あの音楽音痴のプリンスが」
「彼の音楽会に行かれたのですよ。ディートリヒシュタイン先生と一緒に」
フランソワとは、エステルハージ家の音楽会で会ったことがある。シューベルトが「魔王」を演奏した時だ。
「魔王」の調べに怯えて温室まで逃げてきたフランソワは、まるで、薔薇の妖精のようだった。
その彼の頭を、アシュラは、撫でてあげようとした。フランソワは激怒して彼を突き飛ばしたけど。でも、アシュラがそうしたのは、シューベルトがいつも、泣いている小さな妹や姪に、そうしていたからであって……。
「……あ」
初めて、アシュラは理解した。
今日、フランソワが自分を乗馬に連れ出した、本当の理由を。
だって自分は、宮殿を出てから帰ってくるまで、一度も、シューベルトのことを考えなかった。
その死を。悔しさを。悲しみを。
素晴らしい馬で走る爽快さに、全てを忘れた。必死でフランソワについていくことに、気持ちを奪われていた。
あの市壁の破壊跡は、フランソワにとって、どこよりも大切な場所なはずだ。
父親の痕跡を刻む、聖域。
そこに彼は、自分を連れて行ってくれた……。
……。
「まあ、プリンスも、まだ、ほんの子どもだ。不意に、外へ行きたくなる気持ちもわからないでもない」
ぶつぶつと、フォレスチがつぶやいている。
軍人上がりのこの教師は、ディートリヒシュタインほど、厳格ではない。独身であるせいか、フランソワの教育が、何よりの生きがいのようなところもある。
「先生。僕のやり残したことって、何でしょうね?」
フォレスチを遮り、アシュラは尋ねた。
「やり残したこと? ああ、殿下のおっしゃったことか。まあ、私に言わせれば、君は……殿下もそうだが……、やり残しだらけだ」
「そうですね」
アシュラは答えた。
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