ナポレオンの痕跡 1


 シューベルトが死んだ。

 秘密警察のスパイ、しかも、自分のことを探っていると知りながら、アシュラを、仲間シューベルティアーデに入れてくれたシューベルト。

 かつかつの生活をしていた頃、貴族の演奏会に連れて行ってくれて、お腹いっぱい、ご馳走を食べさせてくれた……。

 優しい、妹弟思いの兄。その愛は、全くの他人のアシュラさえ、優しく包み込んでくれた。


 シューベルトは、死の間際まで、ベートーヴェンを敬慕していた。彼の音楽は、ベートーヴェンとは違う。もっとプライベートで、人の心に寄り添うものだ。


 だが。

 湧き出る泉のように作曲し、囀る小鳥のように楽しげに演奏していた音楽家は、もう、いない。

 これほどの悲しみがあろうか。

 これほどの喪失感を、どうやって乗り越えればいいのか。

 ……。





 控えの前の壁に張り付いているスパイを、フランソワが、じろりと見た。

「外へ行くぞ」

唐突に彼は言った。

「供をしろ」

言い捨てて、ヘラクレスの12の冒険を象った入り口から、出ていってしまった。


 彼は、機嫌が悪いようだった。ものも言わず、歩いていく。

 その後に、アシュラは続いた。


 向かったのは、厩舎だった。

 馬と干し草の入り混じった、柔らかい匂いがする。

 フランソワは、鋭い目で、馬を見つめた。傍らで、馬丁が緊張するのがわかった。


 やがて、彼は、満足げに頷いた。

「僕は、コラーに乗る」

 コラーは、まだ若い栗毛だ。近づいてくる主を見て、嬉しそうに、柵に鼻面を押し付けてきた。

 その首筋を、フランソワは撫でた。振り返らずに言った。

「アシュラ、お前も好きなのを選べ」

「好きなの……?」


 ここにいるのは、皇族専用の馬ばかりである。中には、皇帝の馬もいる。

 その中から選べって……。


「できません」

「ちぇっ」

見るからに不快そうに、フランソワは舌打ちした。

「なら、いい。僕が選ぶ」


 ちらりと、アシュラを見た。

 値踏みされたような気がした。

「自分で選べないんだから、何でもいいよな。……この白いのにしろ」

大きな白い馬を指さした。


 馬が、流し目にアシュラを見る。

 すかさず馬丁が、二頭の馬に、馬具をつけ始めた。


 アシュラは、途方に暮れた。

「殿下。馬なら、私のが、向こうの厩舎に……」

「お前の駄馬が、コラーについてこれるものか。ぐずぐずするな。行くぞ」

 さっと馬に飛び乗った。惚れ惚れするような軽やかさだ。


 鞭を当てるまでもなく、コラーは、素晴らしいスピードで、厩舎を走り出ていく。

 慌ててアシュラも後を追った。





 16世紀と17世紀。二度に渡り、半月刀を持ったトルコ軍が、ウィーンに襲来してきた。苛烈な戦いが繰り広げられた。

 辛くも勝ち得た勝利が、このハプスブルク家の城下町ウィーンに、ヨーロッパの帝都としての栄光を齎した。


 2度の戦いの経験と教訓から、ウィーンの町は、周囲にぐるりと、市壁を巡らせた。

 市壁の内側は、狭い通りや広場、王宮を含む建物が、ぎっしりと建ち並ぶ。いわゆる、旧市街地だ。


 市壁には、12の門が設けられている。市壁を出るとすぐ、空堀だ。市外へ出掛けるには、空堀にかけられた橋を渡らねばならない。


 橋の向こうには、「グラシ」と呼ばれる、広々とした緑地が広がっている。

 押し寄せてくるトルコ軍に対し、ウィーンは、市壁の外の町を焼き払う焦土作戦に出た。この時できた空き地が、グラシである。グラシには、建物の建築が禁じられている。

 今上帝の伯父、ヨーゼフ二世の治世下、グラシに、樹木や芝生が植えられた。

 グラシは、今では、すっかり、市民の憩いの場になっている。




 フランソワの馬は、市門を走り出ていった。

 グラシで乗馬をするのかとアシュラは思った。だが、栗毛はそのまま、緑地帯を横切ってしまった。脇目も振らずに西へ直進していく。

 グラシの外側には、職人や商人などの、一般の市民が住んでいる。メッテルニヒやエステルハージ家など、大貴族の邸もあった。市外だが、ここはまだ、ウィーンだ。




 フランソワの栗毛の後を、アシュラの馬が追っていく。

 王族の馬だけあって、この白い馬は、確かに素晴らしかった。

 アシュラの馬は、こんな風に長時間、全力疾走させることはできない。機嫌を損ねてしまう。今頃は、乗り手アシュラを振り落とし、どこかへ遁走していたに違いない。

 この白い馬は、素直だった。乗り手の思う通りに走ってくれる。


 だが、フランソワには叶わないと、アシュラは思った。あんな速度で角を曲がったら、危ない。街角では、どうしても、速力を緩めずにはいられなかった。

 それに、彼のあの、腰を浮かせて前傾し、馬に張り付くような姿勢……、人馬一体とは、このことだ。

 乗り手の格の違いというものを、まざまざと見せつけられる思いだった。

 もう今では、コラーという名の馬の後をついていくだけで、やっとだった。


 通りを駆け抜ける栗毛を、市民達が、立ち止まって見ていた。口を開け、目を丸くしている。金髪の騎手の見事な手綱さばきに、口笛を吹き、拍手を贈る者さえいた。


「おおい、まだ、どいててくれ。道の真中に出てくるな! 頼む!」

その後を、アシュラの白い馬が追いかけていく。

 白馬の騎士というには、程遠い疾走だった。




 すぐに、リーニエの土壁が見えてきた。

 リーニエは、市民たちの居住区を囲う、土塁である。

 ウィーンの町は、空堀・グラシを付随した市壁と、リーニエという土塁によって、二重に囲まれているのだ。


 リーニエの外は、もう、ウィーンではない。そう、言われている。


 ……どこまで行くつもりだ?

 後を追いかけ、アシュラは不安に思った。


 土塁の手前で、フランソワは、馬を止めた。

「ふん。ついてこれたか」

馬鹿にしたような口調でつぶやく。そのくせ、ひどく嬉しそうだった。

「戻るぞ」

そういうなり、右の手綱を強く引き、方向転換をした。

 あっという間に、再び走り出す。

 慌てて、アシュラも馬の向きを変えた。脚で腹を締め、後を追う。




 再び市民の居住区を横切り、グラシまで帰ってきた。軽やかに芝を横切り、市門を潜る。市壁の内側の街灯が設えられたゆるやかな街路を、壁に沿って、並足で走っていく。


 市壁が、大きく外側に突き出ている場所まで来た。その部分の壁は、新しかった。どうやら、補修されたばかりのようだ。


 滑り降りるように、フランソワは、鞍から降りた。

 すたすたと歩きだす。


「殿下、馬! こんなところに置いといたら、盗まれますよ!」

 工事用の荷馬車が、ひっきりなしに行き来している。

「大丈夫だ。すぐに戻ってくる」


 馬は、おとなしく、周囲の草を食み始めた。ここは、工事関係者以外は、出入り禁止のようだ。少しためらい、アシュラも、フランソワに続いた。






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