教会のステンドグラスから見下ろす幼子
「なんだ、アシュラ。こんなところに呼び出して」
薄暗い教会に、遅れて入ってきた人物が言った。
硬い座席にじっと座っていたアシュラは、振り向かずに言った。
「まあ、ここへ来て座って下さい、マイヤーホーファーさん」
礼拝堂には、二人の他は、誰もいなかった。遅い午後の日差しが、穏やかに降り注いでいる。明るい光の筋の中で、細かい埃が舞っているのが見えた。
静かに、マイヤーホーファーは、アシュラの隣に腰を下ろした。
しばらく、二人、無言だった。
アシュラは前を向いたままだった。マイヤーホーファーは、何かを覚悟しているように見える。
最初に口を切ったのは、アシュラだった。
淡々と、語りだした。
「最初僕は、シューベルトは、伝染性の病だったのかと思った。最初……、思いもよらない彼の死を、伝えられた時」
ぐっとこみ上げてくるものかある。
……負けるな。
アシュラは腹に力を入れた。
「致死性の伝染病……コレラとか。現に、感染を恐れ、見舞いに行かなかった友もいる。でもね。兄のフェルディナントは、自分の妻の他にも、12歳の娘、それに13歳の異母妹にまで、シューベルトの世話をさせている。違う。伝染病なんかじゃない」
「……」
マイヤーホーファーは、押し黙ったままだ。隣の席から、重苦しい沈黙が伝わってくる。
「シューベルトの具合が、一気に悪くなったのは、兄たちと「赤十字亭」で食事をしてからだ」
沈黙を押し破るように、アシュラは続けた。
「僕は、食中毒を疑った。秋頃から体調を崩していたシューベルトのことだ。食中毒からチフスを併発して、亡くなったのだと」
兄の家で静養中だったシューベルトは、それでも、3日の徒歩旅行に出かけるなど、そこまで重篤ではなかった。
だが、「赤十字亭」で具合が悪くなって以降は、坂を転げ落ちるように、容態は悪化していった。
「それで、『赤十字亭』に、偵察に行った。同じことを考えたやつは、大勢いたようだった。『赤十字亭』の椅子やテーブルは、シューベルトファンを自称する連中に壊され、店の中は、ひどい状態だった」
しかし「赤十字亭」の店主は、神経質なまでに料理に火を通していた。アシュラが注文した料理も、焦げていたくらいだった。
また、店主のこだわりは、食材の鮮度だという。
「食中毒は、考えられない。一緒に行った兄に異変はなかったし、第一、
「じゃ、なんだっていうんだ?」
マイヤーホーファーが尋ねた。
相変わらず前を向いたまま、アシュラは続けた。
「そこで僕は、興味深い話を聞いた」
口を鎖した。
重苦しい沈黙が流れる。
今回も、最初に口を開いたのは、アシュラだった。
「シュヴィントは、ミュンヘンへ去った。ライバルは、いなくなった。そうでしょう?」
「はっ! シュヴィントだって?」
マイヤーホーファーは嘲った。
「それに、ライヴァル? あり得ない。あり得ないことだよ、アシュラ」
「それなら、なぜ……」
アシュラは最後まで言うことができなかった。声を詰まらせ、息を飲んだ。
マイヤーホーファーは、無言だった。石になったように、身じろぎひとつ、しない。
「8月は、シューベルトは、元気だった」
少しして、アシュラは言った。
「だから、あなたがそれを渡したのは、8月の末頃だ。間もなくシューベルトは、具合が悪くなり……」
9月の1日に、シューベルトは、かかりつけ医の助言に従って、郊外の、兄の家に引っ越した。
「兄の家でも、彼はそれを使い続け、10月の末には、健康状態は、かなり悪化した。たまたまその頃、食事に行った『赤十字亭』で、発作をおこした」
ため息をついた。
「『南十字亭』の一件から、シューベルトは、食欲がなくなり、ひどい衰弱状態に陥った。これ時以降、亡くなるまで、食事らしい食事も摂れなくなった。けれど、その中にありながら、彼は、教会へ、兄の作曲した曲を聴きに行ったり、フーガの技法についてレッスンを受けたり、体調の持ち直した日もあった。それはつまり……」
言葉を切った。
ためらい、続けた。
「飲み物さえ、ろくに喉を通らなかったからだ。現に、それは、『南十字亭』に置き去りにされていた」
隣の席で、息を呑む気配が伝わってきた。
「安心して下さい。それは、回収しました」
「返してくれ」
しゃがれた声が聞こえた。
「ダメです。僕が処分します」
遥かに高い窓から、幼子を象ったステンドグラスが二人を見下ろしていた。ふっくらとした頬の子どもは、悲しげな表情を浮かべて見えた。
「俺は、負けた。芸術に、音楽に、俺自身に!」
やがて、マイヤーホーファーはつぶやいた。
「シュヴィントは、自身の芸術を極めるために、美術学校の門を叩いた。だが俺には、そんなことはできない。生きていくために、俺は、仕事を辞めるわけにはいかない。世俗の汚辱に塗れた、官吏の仕事を!」
「……マイヤーホーファーさん!」
「そして俺は、いつの日か、あの人に捨てられる。あの人の麗しい調べから。優しい音の重なりから。詩を書けなくなった俺を、あの人は、見限るだろう」
「そんなことはない!」
「だから言ったろう、アシュラ。俺は、自分に負けたと」
前を向き、祭壇の中央に目を据えたまま、マイヤーホーファーは吐露し続けたた。
「あの人の
「……」
「俺は、あの人を独占したかったんだ。あの人の音楽を。魂の楽曲を!」
「勝手だ!」
思わずアシュラは叫んだ。
「シューベルトが、あなたのことを何と言っていたか、知っていますか? 大切な親友。彼は、そう言っていたんですよ?」
「大切な親友?」
マイヤーホーファーの顔が歪んだ。
力いっぱい、アシュラは頷いた。
「ええ、そうです。
声が震えた。
「いつもいつも、あなたのことを思い出していた。……親友を。生涯の友と信じていたあなたを! それにより……貴方への友情と信頼により、彼は……」
悔し涙がこみ上げた。
「……死期を早めたんだっ!」
アシュラの言葉の途中から、マイヤーホーファーは、俯いてしまっていた。蚊の鳴くような声で、彼はつぶやいた。
「俺だって、大切だった。シューベルトは、俺にとって、誰より大事な人だった」
「それなら、なぜっ!」
怒りに、目の前が震える。
依然としてマイヤーホーファーは、顔を上げようとしない。
「シューベルトの人気は、徐々に高まっている。
「行ったっていいだろう! 友として、あなたは、彼の成功を喜ぶべきだった」
「だが、彼は俺のものではなくなる! シュヴィントよりもっと才能豊かで若い連中に囲まれて、シューベルトは、俺のものではなくなってしまうんだ!」
「おかしい! その考え方は、絶対に、おかしい!」
「そうさ。俺はおかしいんだ。自分でもわかってる。だが、いたって、シンプルだ。俺は、彼を独占したかった。彼の曲は、俺の詩の為だけに、存在して欲しかった。……それだけだ」
「勝手だ!」
シューベルトの楽曲を。楽しげに、そして情感あふれる、その調べの数々を……。
「彼の曲は、万人のものであるはずだ!」
マイヤーホーファーは顔を上げた。燃えるような激しい瞳を、アシュラを睨みつけた。
「だから、言ったろう? 俺は、お前とは違うんだ。仕事を始め、お前は、演奏を止めた。ただの、観客になり、音楽を楽しむことを覚えた。だが、俺は違う。俺は、創作を、諦めることができなかった! 生活に押しつぶされて、劣化し続ける、己の詩を!」
言い終わるなり、くたくたと、マイヤーホーファーの体が前へ傾いていく。膝に押し付けた頭を、彼は、両手で抱え込んだ。
「お前は、知っているんだろう?」
くぐもった声で、彼は尋ねた。
彼には見えないと知りつつ、アシュラは頷いた。一音一音、正確に発音した。
「あなたは、ヒ素を使ったのだ」
マイヤーホーファーがシューベルトに渡したカップは、鮮やかな緑色に彩色されていた。
それは、以前、シャラメの書店で見た、稀覯本と、同じ色だった。持ち主が次々と謎の死を遂げるという、「不幸の本」の、カヴァーの色と。
目のさめるような美しい緑色。
画家のダッフィンガーはそれを、「パリス・グリーン」と呼んだ。
ヒ素を原料とした顔料の名前だ。
郊外の兄の家に療養に向かうシューベルトに、マイヤーホーファーは、餞別を渡した。
ヒ素をたっぷりと塗り込めた、緑色のカップを。
「……
俯いたまま、掠れた声で、マイヤーホーファーが囁いた。
「俺は、モーツァルトの命を奪った毒薬に興味を持った。調べていくうちに、緑色の顔料に行き着いた。ヒ素は揮発する。だからあのカップは、普通の陶器のように焼いてない。粘土を乾かし、上からニスを塗ってあるだけだ。カップとしてはお粗末な出来さ。とても仕えたもんじゃない。けれどそんな出来損ないを、シューベルトはとても喜んでくれた」
「……」
アシュラは喘いだ。
淡々と、毒物の名を口にする
「なあ、アシュラ。これで俺は、あの人を、独り占めできただろうか……」
教会の、高い丸天井を、アシュラは仰いだ。顔を前に向け、祭壇の、キリストの磔刑像を見た。
すぐに目を離した。
「僕には、あなたを裁く資格はない。マイヤーホーファーさん。あなたは、一人で苦しむがいい。悩んでもがいて、考えるがいい。残りの人生を……」
口を鎖した。
何を言っても、誰を糾弾しても、死んだ小鳥は、もう二度と、歌うことはない。
喜びに満ちた歌は、過去のものとなってしまった……。
ぎっちり閉じた唇の間から、嗚咽が漏れた。溢れる悲しみを飲み込み、アシュラは立ち上がった。
狭い座席の間を横に歩き、通路に出た。
*
陶器の割れる音。
鮮やかな緑色の破片。
文句を言いながら、箒で掃き集めるルカス。
……知りたいんなら、教えてやるよ。このスープ皿を割ったのは、料理人のオッフェンバックだ。
*
アシュラは立ち止まった。
「マイヤーホーファーさん」
背中を向けたまま、彼は言った。
「あなたのおかげで、僕は、
はっと、マイヤーホーファーが顔を上げた。
「主……ライヒシュタット公か?」
アシュラは答えなかった。
「暗殺事件だって? そんなものを立証して、お前は、どうするつもりだ。セドルニツキにでも、訴えるつもりか」
ナンデンカンデンごときの策略に乗せられて、肝心の台本の検閲を疎かにしてしまった、無能な上司……。
「あの人は、ただの事務屋だ。彼は、使えない」
アシュラは答えた。
「俺は、どうしても、ライヒシュタット公を守りたい。それが、シューベルトの遺訓でもあるんだ」
再び歩き出す。
「おい、アシュラ! どこへ行く? 誰のところへ……。ダメだ! お前のしようとしていることは、危険だ……」
アシュラの耳に、マイヤーホーファーの声は、聞こえていなかった。
※
シューベルトの年長の友、ヨーハン・マイヤーホーファーが自殺したのは、シューベルトの死から、8年後のことでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます