ソースの問題

 水泳訓練の日(※)から、アシュラとモーリツは、密かに調べを進めていた。モーリツから呼び出しが来る。落ち合う場所は場末の劇場や酒場などいかがわしい場所ばかりなので、アシュラは閉口していた。


 なさねばならぬことがるということは、ありがたかった。シューベルトの死から悲しみ冷めやらぬアシュラには、行動する必要があった。


 その日も、誰もいない劇場の楽屋にアシュラを呼び出し、モーリツはソファーにふんぞり返った。いつもの打ち合わせだ。二人で一緒に聞き込みをすることもあるが、今回のように別々に行動することもある。そういう時はお互いの成果を報告し合っていた。


 モーリツが口を切った。

「まずは、今年夏のライヒシュタット公の不調と、去年の皇帝のご病気の類似性だ。もう一度、主治医のシュタウデンハイム先生に聞いてみたのだが、やはり両者の症状は、とてもよく似ているという」


 一年前のホーフブルク城での皇帝の不予と、今年の夏、グラーツ城でのライヒシュタット公の体調悪化。

 どちらも食事の最中、或いは、食後すぐに起きた変調だ。侍医のシュタウデンハイムによれば、皇帝と孫の症状はよく似ており、為に彼は、遺伝性の病を疑った。


「後者の……グラーツ城でのライヒシュタット公の発作は、ナポレオンが遺した丸薬が劇的な解毒効果を上げた。わざわざ父が、息子への遺品に忍ばせた丸薬だ」

「お前はそれを、解毒剤だと解釈した」

「解毒剤が作用したのなら、不調は毒物によるものだろう。言い換えるなら、ライヒシュタット公が一時的な不調で回復したのに、皇帝の不調が長引いたのは、効果的な解毒剤が用いられなかったからだ」


 すぐに健康を取り戻したライヒシュタット公に対し、皇帝は一時は死線を彷徨い、回復までに半月ほどを要した。


「ナポレオンは丸薬の入った箱を、テュイルリーのルイ一八世のテーブルから持ち帰った。百日天下の折、慌てふためいた王が忘れて行ったものだ。だから王太子妃はナポレオンのことを泥棒呼ばわりしんだと思う。これは、貴方が手紙に書き忘れたことだけどね、モーリツ」

「まだ言うか。執念深いやつだな」


アシュラは肩を竦めた。

「箱は全部で三つあった。恐らく丸薬は、もっとたくさんあったのだろう。それらを飲んだのはナポレオンだ。なぜなら彼は知っていたから。これは、ブルボンの解毒剤であると」

「ブルボンの王族が、敵から仕掛けられた毒に対抗する為の解毒剤だな」

「そう。そして、ブルボン家が開発した毒に対しても有効であることは否めない」


 セント・ヘレナでナポレオンは、誰かに毒物を仕掛けられた可能性がある……フランツはそれを憂えていた。


「ナポレオンの残した解毒剤が効いたのなら、ライヒシュタット公の不調は、毒であるということで決着がつく。そして、よく似た症状で病床に就かれた皇帝もまた、毒物を摂取されたと推測できる」

 モーリツが言い、アシュラは頷いた。


 「去年のホーフブルク城での晩餐では、食卓に着いていたのは、皇帝、皇妃、ライヒシュタット公の三人。当初、三人とも同じ料理が供される予定だった。ところが食事の途中で、ライヒシュタット公に食欲がないという情報が、厨房に齎された。それで料理人は、メインディッシュの彼のソースだけを、すぐりのソースに変更した」


「にもかかわらず、殿下は肉料理に手をつけなかった。それでご自分の分を平らげた皇帝が、プリンスの分も食べちゃったんだろ? 料理を残すことに、殿下は罪悪感を感じていたから」


「皇妃様には、何の異常もなかった。皇帝と皇妃の皿は全く同一で、どちらの皿がどちらに行くかは決まっていなかった。つまり、ターゲットが定まらないということだ。それが、ひとつだけ違うソースが掛けられていた皿、即ち、ライヒシュタット公の皿に毒が盛られていたと、僕が考える理由だ」


「毒は、皇帝とライヒシュタット公の皿の二つに盛られていた可能性は? あるいは、皇帝の皿にだけ盛られていたとか。皇妃様は、たまたま、毒が盛られていない皿に当たったのかも」

「なぜそのようなことを?」

「うん、ちょっと強引かも」


 一つだけ、毒を盛らない。その場合、その皿は、皇帝か皇妃か、どちらに当たるかわからない。

 あるいは、皇帝の皿にだけ毒を盛る。この場合も、毒の入った皿が、皇妃に行くか皇帝に行くか、わからない。


「もっとも、可能性は否定できないけど。ですが、それならなぜ、この晩が選ばれたのか。普段、三人は同じ物を召される。ライヒシュタット公の皿だけが見分けがつくというこの晩を、なぜ、犯人は選んだのか」

「やはり、皇帝が摂取された毒は、プリンスを狙ったものか……」


「ここでひとつ、確認しておこう。料理の運搬途中の毒の混入は不可能だ。相互監視の意味も兼ねて、運搬人は常に数人でチームを組んで行動していたから。給仕中も同じだ」


「残るは厨房の人間だな。それか、食品納入業者、或いは水、燃料の調達係……」

モーリツの声から力が抜けていく。

「運搬人と厨房の人間がグルだという可能性は?」


「それは後程説明する。今は、犯人は厨房で働く人間だと仮定しよう。当初、皇帝と皇妃、ライヒシュタット公に供される料理は、全く同じだった。厨房にいる容疑者、仮にXとするけど、そのXにとって問題は、どの皿がライヒシュタット公の前に置かれるかわからないということだ。あるいは、どうしたら料理運搬人に、毒を盛った皿をライヒシュタット公の前に置かせることができるか」


「ところがここで、ソースの変更があったわけだな」

 モーリツの顔に光が射した。

「仮定が真なりか。犯人は食事中に厨房にいた人間に限定されたな! 出入りの業者には、ソースの変更なんて知りようがないから」


 アシュラの瞳も輝く。

「ソースが信号になったんだ。おかげで、厨房のXは、料理運搬人たちに、毒の入った皿をプリンスの前に確実に置かせることができるようになった」


「酸っぱく食べやすいすぐりのソースは、食欲をそそるようにという、厨房側の配慮だと説明しただろうからな。当然、運搬人達はその皿を、ライヒシュタット公の前に置くだろう。なるほど、料理運搬人とグルである必要はない」


「いわば、Xにとって、犯行のゴーサインが出たようなものだ。ソースの変更により、厨房にいながら、Xは、料理運搬人たちを操って、プリンスの前に毒の入った皿を置かせることができるようになった」


「だが、ホーフブルクでのソースも含め、グラーツでも、毒見はしっかりと行われている。毒見役はどいつも、ぴんぴんしているぞ。それに、宮廷厨房の管理と監視の厳格さは、アシュラ、お前もその目で確かめたはずだ。そのXというやつは、いったいいつ、どうやって、ライヒシュタット公の皿に毒を混入させることができたんだ?」

 首を横に振り、モーリツは続けた。

「やはり毒の線はあり得ないのではないか? 皇帝もプリンスも、お身体の具合が悪かったのでは?」


 アシュラは答えなかった。その顔に、苦渋の色が過ったのを、モーリツは確かに見た。


「でもまあ、お前との『捜査』は楽しかったよ。自分が本当の警察官になったような気がしたしな。下々の者とも会話を交わす機会に恵まれた。あれは滅多にない経験だった」

 アシュラを慰めるつもりか、饒舌に語り続ける。そのモーリツを、突然、アシュラが遮った。

「皿だ。毒は、料理にではなく、皿に仕込まれていたのだ。緑色の皿に!」

「皿……?」

モーリツは唖然とした。

「だから、毒見にひっかかることがなかったのだ」


 シューベルトの死を、アシュラは語った。

 尊敬する音楽家。愛らしい小鳥。優しい友人。彼の命を奪ったのは、ヒ素だった。仲間だと信じていた男から渡されたカップに塗りこめられた、恐ろしい緑色。

 苦しい色を纏った長い話を、アシュラは終わらせた。


「シューベルトの時よりもずっと純度の高いヒ素を、用意した皿の表面に、塗りつけてあったのだと思う」


 モーリツが唸る。

「なるほど。予め食器に塗っておけば、宮中に持ち込むのは容易かもしれない。食材のように時期や時間を選ばないし、折を見て、元からあった食器とすり替えることもできる。厨房の人間なら、使う寸前まで、他のスタッフが触らない場所に隠しておくことも可能だろう」


「使われた直後ならいざしらず、時間が経ってからでは、ヒ素の検出は、今の技術では不可能だ。ライヒシュタット公が発病された今年の夏、グラーツ城では……」

 アシュラは言葉を切った。ゆっくりと続ける。

「皿は、不注意から割られてしまった」

「あ、」

「料理人のオッフェンバックの手によって。そして、他ならぬ彼自身によって、破片も持ち去られた」

「オッフェンバック……そいつは確かに、去年のホーフブルク城の晩餐でも、厨房に入っていた」

低い声で、だがしっかりとモーリツが請け合う。


 彼によると、30人ほどのスタッフが、ホーフブルク城からグラーツ城に応援に来ていたという。30人はいずれも、皇帝が体調を崩した晩に、勤務についていた。その30人の身元を洗い出すのが、モーリツの担当だった。


「証拠はない。けれど、破片を処分しようとしていたスタッフルカスからわざわざ奪い取ってまで自分が処理すると言い張ったこと自体が、オッフェンバックが犯人である、確たる証拠だと、僕は思う」


「……何をしているんだ」

モーリツの声は、威嚇するようだった。

「は?」

「行くぞ」

「行くって、どこへ?」

「その、オッフェンバックという料理人の家だ。証拠がないなら、本人に吐かせればいい。住所ならわかってる。エステルハージ家を甘く見るなよ」

「誰も甘くなんか見てはいないぜ?」


 人々が見下しているのは、放蕩者のドラ息子だけだ。でも、それだって……。

 帽子を取り、モーリツは駆けだした。慌ててアシュラも後を追った。



 辿り着いたオッフェンバックの家はもぬけの殻だった。

 「くそっ! 馬丁の時と同じだ!」

髪を掻き毟り、地団駄を踏み、アシュラは絶叫した。

「車軸が細工された時も、馬丁が解雇されただけで、それ以上は何もわからなかったっ!」


 調べてみると、夏のライヒシュタット公の不調の後、オッフェンバックは退職していた。故郷で店を出すと言っていたそうだが、宮廷事務所に届けられていた転居後の住所にも、彼はいなかった。それどころか、国中探しても、オッフェンバックは見つからなかった。


 彼は、忽然と消えてしまった。








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※ 5章「肌の露出が多すぎる」、参照下さい

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