マリー・テレーズではない


 「君の話は、穏やかじゃないな」

 モーリツ・エステルハージを見つめ、カール大公は言った。


 カール大公は、皇帝の弟だ。フランス革命戦争からナポレオン戦争初期にかけて、軍を率いてオーストリアを守った。今では軍務だけでなく政務も退き、領地のテシェンで軍事論叙述の日々を送っている。


 彼は、ライヒシュタット公が幼い頃から何かと目を掛けていた。ウィーンの宮廷を訪れると彼を呼び出し、自身の子どもたちと遊ばせたりしている。

 それで、モーリツはこの大叔父君を選んだ。



 若輩者の来訪に、カール大公は気楽に応えた。どこから話すべきか戸惑うモーリツを、散策に誘った。


 二人は、アウガルテンの公園を歩いていた。昼下がりの公園には、大勢の市民が憩っている。時折、大公に向けて親しげに挨拶してくる者もいる。そうした市民に対しても全く対等の立場で返事を返していた。


 ひと気の少ない並木道へ歩を進めた。親子ほども年齢の違う二人が、並んで歩いて行く。

 辺りに聞き耳を立てている者がいないのを確認し、モーリツは語り始めた。


 皇帝とライヒシュタット公の不調。

 毒を盛られた可能性。

 最初の毒は誤って皇帝が摂取してしまい、皇帝は重篤な病に陥られた。そして今年の夏、再び盛られた毒が、ライヒシュタット公の「思春期特有の病」の正体だったこと。

 二回のライヒシュタット公毒殺計画に失敗し、実行犯のオッフェンバックは姿を消してしまったこと。


 さすがに大公は驚いているようだった。だが彼は、最後まで話を聞いてくれた。


「俄かには信じられないな。だが、君の話は、それなりに筋が通っている」

 ゆっくりと言った。大公は、アシュラの推論を否定しなかった。

「実は、ライヒシュタット公を狙った事件は、毒殺未遂以前にもあったのです」


 ライヒシュタット公の馬丁と歪んだ車軸の話を、モーリツは語った。シューベルトが異音を聞き分け、事なきを得た件だ。


「フランツの馬車か。覚えているよ。確か、経年劣化で片付けられたはずだ」

「当時ライヒシュタット家の馬丁だった男は、急に羽振りが良くなりました。その彼は、百合の花の紋章入りの葉巻入れを持っていたそうです」


驚いたように、大公の目が大きくなった。

「百合の花の紋章」


深く、モーリツは息を吸った。

「ブルボン家の紋章です。彼らは、ナポレオンの息子の命を狙っているのです」


 カール大公が足を止めた。無言の数秒間が流れた。


「腹が減ったろう?」

 不意に彼は言った。モーリツを促して、テント張りの店に入る。


 テントの中には、細長いテーブルが設えてあった。銀の食器が入った箱がたくさん並び、その向こうには、いろいろな菓子や果物が所狭しと載せられている。

「好きなものを取って食べていいのだよ」

大公は、モーリツに言った。


 テントの中は、混み合っていた。だが、二人が入っていくと、人々は、静かに道を開けた。尊敬の眼差しが感じられる。国の英雄、カール大公に向けられた敬意だ。


 大公のフランス軍への勝利は、一七九六年、南ドイツでの戦いから始まる。同盟国が次々と離脱する中で、血気にはやる革命軍を、ライン河の向こうへ追い戻した。

 やがてナポレオンがフランス皇帝となり、一八〇九年、再びウィーンは陥落した。しかしこの時、カール大公の軍は、アスペルンで勝利した。部分的な勝利だったが、彼は、ナポレオン神話に決定的な傷をつけた。


 テントの外で、音楽の演奏が始まった。シュトラウスだ。


 モーリツが選んだのは、ナッツをふんだんに盛った焼き菓子だった。甘く焦がした砂糖が絡められている。カール大公は、スミレのシャーベットに手を伸ばした。


 「少なくともそれは、マリー・テレーズではないな」

向かい合って座ると、カール大公が言った。

「え?」


 焼き菓子に気を取られていたモーリツはきょとんとした。大公は、モーリツを見つめ、続けた。


「ブルボン家が刺客を差し向けたと、君は言った。だが、毒を盛るように命じたのは、彼女ではない」


 マリー・テレーズ。ルイ一六世とアントワネットの娘、アングレーム大公妃だ。白色テロを首謀したと噂され、「恨みランキュヌ夫人」と呼ばれていた彼女は、今やフランスの王太子妃だ。


 幼い子どもを除いたブルボン家のメンバーは、彼女の他に、国王シャルル十世、それに、彼女の夫である王太子アングレーム公がいる。

 カール大公がピンポイントでマリー・テレーズの名を出して弁護したことに、モーリツははっとした。自分とアシュラが、まさに疑いを掛けている、王太子妃の名を出し、大公は庇った。


「しかし彼女は、ナポレオンを憎んでいます。そしてその息子が、彼女の甥であるボルドー公を追い落とし、フランスに返り咲くことを憎悪しておられます」


 マリー・テレーズは、モーリツの母の古い友人だった。母との友情を忘れず、息子のモーリツと共に、フランス王室に招いた。


 ……「でも、もし、誰かが、アンリが王位に着くことを妨げようとしたら、私はその者を、生かしてはおかない」

 ……「母親に愛されているのなら、まだ、私にも我慢ができた。けれど、彼は、そうではない。彼は、ナポレオンの息子でしかない」


 マリー・テレーズの言葉が、モーリツの脳裏から離れない。

 長い流浪の果てにフランスに戻ってきた彼女の目に飛び込んできたのは、子どもの玩具だった。ナポレオンの息子の残していった玩具だ。そして彼女自身は流産していた……。


 「昔、彼女がタンプル塔を出てウィーンに来た時」

カール大公が遠い目をして雑踏の向こうを見つめる。

「従妹は、ドイツ語が話せなかった。ごく小さな子どもの頃、パリで教育を受けたきりだったからね。ウィーンの宮廷で言葉もわからず、彼女は一人ぼっちだった」


 ライヒシュタット公と同じだと、モーリツは思った。三歳になってすぐ、ウィーンにやってきた彼も、当初は全く、ドイツ語を解さなかったと、父から聞かされていた。


「でも、テレーズは、毅然として運命に立ち向かっていった。ブルボン家の復興を目指し、決して自分を見失わなかった。それには犠牲が必要だったが、彼女は敢えて受け容れた」


 それがどのような犠牲なのか、カール大公は語らなかった。溶けたシャーベットを、彼は、まるで苦いもののように飲み下した。


「フランツもそうなるだろう。母の祖国オーストリアから、どのような教育を授けられようと、彼は、彼の信じる道を行くに違いない。マリー・テレーズと同じように、フランツにもその力がある。私は……私はただ、彼が我々と敵対することのないよう、祈るばかりだ」

「ライヒシュタット公が、オーストリアと敵対する? ですって?」


 思わずモーリツは、手にした焼き菓子を、皿の上に落とした。

 カール大公は微笑んだ。


「どうだろうな。この国にはすでに、彼に心を砕く人間が大勢いる。君もその一人だろう? モーリツ・エステルハージ」


「僕は……」

きっ、と、モーリツは、大公を見た。

「僕は、彼の才能を惜しみます。彼の優しさと強さ、そして、まじめな努力を、この国は、押し潰そうとしている」


「ほう」

この国の宰相メッテルニヒは、なぜ、彼をウィーンから出そうとしないのか。母親の領土(パルマ)を継がせることを許さないのか。彼の努力を無視して、なぜ、いつまでも最下層の軍位しか与えないのか」


 急に、その勢いがしぼんだ。


「偉そうなことを言いました。お許し下さい。エステルハージ家の末の末にいる僕に、何ができるとも思えない……」

「そうでもなかろう。君は、強い思いを抱いて、フランツに近付こうとしている。君が彼をウィーンの街中へ連れ出すのは、つまり、そういうことだろう?」

「え?」


 どきりとした。

 籠の鳥に外の世界を見せたいと願うのは、著名な音楽家たちだけではない。囚われているのが、才能ある鳥であるのなら、なおさら。


 だがそれは、この国の皇帝と宰相の意志に反することだ。うっかりすると、友情がまだ芽であるうちに潰されてしまうだろう。

 全てを、放蕩の名の元に隠す必要があった。自分は、ピエロでいる必要があったのだ。

 これが、モーリツの友情だった。


 友情は双方向である必要はないとモーリツは思っている。もし誰かが、そんなものは友情ではないと喝破したなら、彼はそれを、献身と呼ぶだろう。


 顔中の筋肉を総動員して、モーリツは笑ってみせた。

「なにしろ僕の評判は悪いですからね。プリンスの家庭教師からは毛嫌いされています。一説にはカール大公。あなたも僕を信用していらっしゃらないそうですね?」

「誰がそんなことを?」

「他ならぬ、そのアングレーム公妃です」

「……」


 暫くの間、カール大公はじっと、モーリツの顔を見つめていた。手にしたスプーンから、溶けたシャーベットの雫が垂れた。

 ふっと、目をそらせた。


「フランスへ行っていたそうだな。君は、マリー・テレーズのことを、どう思ったか? 素直な感想を聞かせてくれたまえ」

「国を出る前は、悪い評判ばかり聞いていました。堅苦しく、そっけないと」


 カール大公の顔を窺った。大公は、面白そうな笑みを浮かべている。安心して続けた。


「でも、実際に会った彼女は、とても感情豊かで、温かく、快活な方でした。長く不幸な環境にあられたにも関わらず、ユーモアを解するセンスも抜群で、僕はとても驚きました」


 モーリツは、アングレーム公妃から、プチ・トリアノンを案内してもらったことを話した。

「母と僕をもてなしたいという気持ちに、感銘を受けました。強いだけではない、優しい女性なのだと思います」


「君は、なかなか、洞察力があるな」

カール大公が微笑んだ。

「ぜひ、フランツのそばにいてやってくれ。私はあの子に、私が経験から得た、軍事知識を授け始めたところだ。これから私が、私の息子たちに授けるのと、全く同じ講義だ」


 モーリツは言葉を失った。もし、ライヒシュタット公がオーストリアと敵対したら? しかも彼は、ナポレオンの息子だ。

 軍事知識は、諸刃のやいばだ。大公が彼に自らの経験を伝えるということは、彼を信頼しているということに他ならない。

 そのことを、モーリツは理解した。


 くすりと大公は笑った。

「昔、私は、ナポレオンに会ったことがある。向こうから呼び出されたのだ。一度目のウィーン陥落の折(一八〇五年)、フランス軍は、シェーンブルン宮殿に滞在していた。随分長い時間、我々は語り合ったものだよ」

「そんなことがあったんですか」


「それに私は、ナポレオンと姪(ルイーゼ)の代理結婚で、新郎役も務めた。これは、ナポレオンからの要請だった」

「大公が! ナポレオンの!」


 思わずモーリツは叫んだ。当時、オーストリアはフランスに負けたばかりだったはずだ。

 何かを思い出そうとする目を、大公はモーリツに向けた。


「なあ、モーリツ。ナポレオンは、決して、ルイ一六世や王妃アントワネット叔母上の処刑に賛成票を入れたわけではない。それができる立場にもいなかった。そんなこともわからない、テレーズではないはずだ。彼女は、フランツを恨んでなどいないよ。邪魔に思ってもいないはずだ。タンプル塔を出てオーストリアへ身を寄せてきた頃、彼女はフランツの母マリー・ルイーゼを、とてもかわいがっていた。ルイーゼはまだ、四つか五つだったけどね。今、彼女から甥のボルドー公へ注がれている愛情は、時と場合によってはフランツが受けるべきものだったのだ。彼女は、そういう女性だ。庇護すべき者に、持てる限りの愛情を注ぐ」


 大公のマリー・テレーズへの、この思いは何なのだろう、モーリツは思った。従妹へ思いやり? 同じ血の流れる者への信頼?

 パリで会ったマリー・テレーズ王太子妃もまた、カール大公のことをとても気にかけていた。彼の兄であるオーストリア皇帝よりも、ずっと。


 昔彼女が、カール大公の花嫁候補であったことを、モーリツは知らなかった。父方の従兄である彼を捨て、彼女が母方の従兄アングレーム公を選んだことも。オーストリア母の国フランス父の国、両方の間で揺れた彼女は、ためらいうことなく、フランスを選んだ。

 そして若き日の大公にとって、それは、失恋だった。(※)


 「君の話は理解した。一層の警戒をフランツの回りに敷くことを、皇帝に進言しておこう。もっとも、メッテルニヒはよくやっていると思うよ。フランツがナポレオンの息子であると考えるとね」

 最後の方は、幾分苦々し気に聞こえた。


 大公は立ち上がった。そのままテントを出ていこうとする。慌ててモーリツも後を追った。


「大公! カール大公!」

後ろから、テントの主人が、大声で呼びかけている。

「また、忘れてる! お代を下さいよ!」


 はっとしたように大公は立ち止まった。

「すまん。今回も、手ぶらで来てしまった。普段、金を使う習慣がないもので……」


 ポケットをあちこち探っている。

 飲食代は、モーリツが支払った。









 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

※マリー・テレーズとカール大公の間柄につきましては、2章と3章の間のサイドストーリー「カール大公の恋」をご参照下さい。


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