メッテルニヒの顧問


 宮殿の馬車回しには、馬を繋いだ馬車が横付けにされていた。御者台には、御者の姿も見える。


 宰相メッテルニヒ宰相の帰宅時間は、把握してあった。車寄せの近くに身を潜め、アシュラは、じっと待ち続けた。


 かつかつと足音が鳴り響く。細身の影が、早足で近づいてきた。



 「アシュラ!」

宰相の前へ踊りだそうとしたアシュラの腕を、何者かが、強く掴んだ。

「……ダッフィンガー!」


 意外な人物が、アシュラの腕を握っていた。

 絵描きの、モーリツ・ミカエル・ダッフィンガーだ。珍しく、フロックを着用している。


 アシュラの顔を見つめ、彼は、目をすがめた。

「どうするつもりだ」

「俺はこれから、宰相にかけあってくる! ライヒシュタット公の警備を、もっと固めるようにと!」

「そうか。お前は、ライヒシュタット公の為に働いているんだな」


 皇族を説得にいったモーリツは、見事に言いくるめられて戻ってきた。マリー・テレーズではない? だったら誰の仕業だというのだ。しかも、大公がメッテルニヒに命じると請け合ったにもかかわらず、フランソワの警備は一向に改善されていない。


 こうなったら、自分が直接、宰相メッテルニヒに訴えるしかないとアシュラは思い詰めていた。

 直訴に失敗しても、とにかく騒ぎを起こすことだ。ライヒシュタット公の名前を出し、彼がブルボン家(だけじゃないかもしれない!)から狙われていることを喚き散らす。そうすれば、ナンデンカンデンのような記者が聞きつけ、ウィーンの人々の知るところとなるだろう。


「宰相は、彼を、暗殺の危険の中に放置してるんだ。そんなことはすべきじゃないと、俺は……」


 ダッフィンガーは、にやりと笑った。

「そうと聞いたら、このままにしてはおけないなあ」

「なんだと? おい! この手を離せ、ダッフィンガー!」


「しっ、静かに」

大きな手が、アシュラの口を塞いだ。強いテレピン油の匂いがする。

「人に聞かれたらめんどうだ。こっちへ来い、アシュラ・シャイタン」

 ずるずると、アシュラの体を引きずっていった。




 ホーフブルクは、歴代の皇帝が、建て増し、建て増しを繰り返してできている。どうしたわけか、新しい皇帝は、前の皇帝の住んでいた部屋に入りたがらず、自分の場所を増築してしまうのだ。部屋数は千を超え、ゴシック式、バロック式、ルネサンス式など、建築様式も、さまざまな時代を反映されたものとなっている。

 この、とっ散らかり感が、ハプスブルク家の特徴なのだ。



 古ぼけたどこかの部屋に、アシュラは連れ込まれた。タペストリーはなく、壁がむきだしの、みるからに陰気な部屋だ。


 部屋には、立派な身なりの男がいた。

 逆立った蓬髪、ぎょろりとむき出した目、存在感のある大きな鼻、そして、薄い唇……。

 「少し約束に遅れたね、ダッフィンガー」

男は言った。


 絵描きは、肩を丸めた。横柄なこの男が恐縮している姿を、アシュラは、初めて見た。

「申し訳ありません、ゲンツ秘書官長」

「まあ、いい。私も今来たばかりだ。それで、彼は、誰だね?」

アシュラを指し示した。


「アシュラ・シャイタン」

ダッフィンガーの手を振りほどき、アシュラは名乗った。握られていた腕が、じんじん痛む。

「アシュラ……東洋系か? 私は、ゲンツ。フリードリヒ・フォン・ゲンツだ」


「メッテルニヒの腰巾着だな!」

アシュラは叫んだ。

「こらっ! アシュラ!」

ダッフィンガーが青ざめる。

「……腰巾着か」

ゲンツは、うっすらと笑った。


「こいつ、メッテルニヒ侯に、直談判に行くつもりだったんです」

ダッフィンガーが告げた。

「ライヒシュタット公のことで」

「ライヒシュタット公……ナポレオン2世のことで?」

ゲンツの目が、すうーっと細くなった。

「詳しい話を聞こうか」



 フリードリヒ・ゲンツは、プロイセンで生まれた。哲学者のカントの影響を受け、その後、フランス語と英語を学んで、外交の舞台へ躍り出る。


 フランス革命が起きた時、ゲンツは、大きな共感を持って、これを迎えた。しかしその後、ウィーンに移ってからは、メッテルニヒの顧問として、反ナポレオンの強力なアジテーションを張っている。


 ウィーン会議後も、メッテルニヒの懐刀として活躍した。ゲンツは、メッテルニヒ主導の「カールスバートの決議書」(1819年)の起草者の一人である。この決議書は、言論弾圧政策として悪名が高い。



 疑いのこもった目で、アシュラは、初老の男を見つめた。

 ゲンツなら、60歳近いはずだ。だが、目の前の男は、もっとずっと若く見える。精力的で、脂ぎっている。


「メッテルニヒ侯に用があるのなら、私を通すのがよかろう。直談判では、まず、話を聞いてもらえまい」

落ち着き払って、ゲンツは言った。

「……」


アシュラはダッフィンガーを睨んだ。こいつが引き止めなかったら、メッテルニヒに直接、話しかけることができたはずだったのだ。


「バカか、お前は」

アシュラの目線を躱し、ダッフィンガーがうそぶいた。

「宰相が、お前ごときに耳を貸すものか。良くて門前払い、悪けりゃ、牢獄にぶち込まれていたことだろうよ」


「殺されていたかもしれないな」

あっさりとゲンツがつぶやいた。

「ライヒシュタット公に関しては、宰相は、ことさらに神経質ナーヴァスになられる」


「殺したければ殺せ!」

アシュラは喚いた。

「メッテルニヒは、間違っている! 自分の政策にとって邪魔であっても、ライヒシュタット公は、この国のプリンスだ。ブルボン家なんかに手を出される筋合いは、ないはずだ!」


「ブルボン家?」

ゲンツが聞きとがめた。

「ブルボン家が、ライヒシュタット公に、何かしてきたのか」


 アシュラは逡巡した。

 しかし、今の彼には、何の手立てもなかった。こちらの守りは、ユゴーが探してくれた料理人のヴァーラインと、その部下だけだ。


 メッテルニヒには、ナポレオンの息子を、自らのウィーン体制の邪魔者とみなしている。彼が外国からの脅威に晒されても、その生命を積極的に守る気はない。

 だから、アシュラは、直談判に出かけたのだ。うまくいかなければその場で騒ぎ立て、ライヒシュタット公の身の安全を訴えるつもりだった。


 宮廷には、多くの人が集まっている。ナンデンカンデンのような、物書きもいるだろう。

 そうした者の耳目を引くことができれば、ウィーン市民の関心は、ライヒシュタット公に集まる筈だ。そして、メッテルニヒの冷淡さは糾弾されるだろう……。


 しかし、ダッフィンガーのいうことも一理あるかもしれない。

 なによりも、不審者扱いされて牢屋にぶちこまれたら、それで終わりだ。


 アシュラは腹を決めた。

 眼の前で身を乗り出しているゲンツに、自分の推理を話し始めた。

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