宰相が描く世界の小さな埃


 昨年(1827年)夏。

 バーデンの宮殿で、皇帝らと共に食事を摂っていたフランソワは、不意に、激しい目眩と吐き気などの、体調不良に陥った。


 新しく主治医になったばかりのシュタウデンハイム医師は、思春期によくある、一般的な不調であろうと診断した。

 ところが、アシュラが見舞うと、フランソワは、ひどく苦しみ、もがいていた。


 ちょうどその時、アシュラは、フランスから帰国したばかりだった。パリの大使館で、ナポレオンが息子フランソワに残した遺品の点検に、従事してきた。

 ナポレオンがルイ18世のテーブルから持ち帰ったという箱を、アシュラは調べた。そこには、丸薬が一粒だけ、入っていた。それを持ち帰り……。


 もがき苦しむフランソワに、アシュラはこの丸薬を飲ませた。

 ナポレオンが息子を守るために残した遺品だと、確信したからだ。


 丸薬を飲ませてほどなく、フランソワの激烈な症状は治まった。


 「思春期の一般的な病」などではない、と、アシュラは確信した。

 フランソワは、フランスのブルボン家によって、毒を盛られたに違いない。

 ナポレオンは、予めその危険を予測していた。だから、ルイ18世のテーブルから解毒剤を持ち帰り、息子に遺した……。



 ブルボン家の皇太子妃、マリー・テレーズの、ナポレオン、及び、その息子への嫌悪は、モーリツ・エステルハージから聞かされていた。モーリツは、母親と共に、マリー・テレーズに招かれ、フランスへ行っていた。


 自分の子どもを死産したマリー・テレーズにとって、フランソワは、愛する甥・アンリに対する脅威でしかなかった。


 ……もし、誰かが、アンリが王位に着くことを妨げようとしたら……。

 ……私はその者を、生かしてはおかない。

 マリー・テレーズは、親友の息子モーリツに、そう語ったという。



 「これは、しかし、最初の毒殺未遂ではなかった」



 その前の年の3月。

 ホーフブルク宮殿で、フランソワの祖父の皇帝が、重篤な症状に陥った。

 彼は、その直前に、孫のフランソワが手を付けなかった肉料理を食べていた。

 幸い、1ヶ月ほどで、皇帝は回復した。

 この時の皇帝の症状が、翌年夏の、フランソワの症状とよく似ていたと、フランソワの侍医、シュタウデンハイム医師は、アシュラに漏らした。



 ホーフブルクから、夏のバーデンへ、助っ人に来ていた厨房関係者は、二人。

 運搬係のルカスと、フランス料理の料理人、オッフェンバックだ。

 間もなく、オッフェンバックの姿が消えた。その行方は、誰も知らない。



 「オッフェンバックが毒を盛ったことは、ほぼ確実だ。だが、その方法が、わからなかった……」



 そして、シューベルトが死んだ。

 ヒ素の混じった釉薬をかけたカップを使って。

 美しい緑色の……。



 「プリンスが激しい苦しみに陥った日、オッフェンバックは、彼が使ったスープ皿を割っている。目のさめるような鮮やかな緑色の」


「なるほど。パリス・グリーンか」

ダッフィンガーが頷いた。

「パリス・グリーン?」

ゲンツが眉を寄せる。

「塗料の名です。きれいな緑色の発色をします。その原料は、ヒ素です」

「ヒ素!」


「ヒ素は、多くを摂取すれば、一度に人の命を奪うことも出来る。その反面、長期に渡って、少しずつ摂取し続ければ、次第に、人の健康を奪うんだ」


 アシュラは、シューベルトの死と、緑のカップの話をした。マイヤーホーファーの名は、出さなかった。アシュラに彼は、裁けない。


「シューベルトは、渡されたカップの染料が少しずつ溶け出し、死に至った。皇帝とプリンスの場合は……恐らく、かなりの量のヒ素が、一度に溶け出したのだろう。バーデンでの食事中に気分が悪くなった時は、不幸中の幸いだった。プリンスに食欲がなく、スープを数匙だけしか飲まなかったから」


 言いながら、アシュラの背中に寒気が走った。

 その前の年、肉料理を全部平らげた皇帝は、生死の境をさ迷ったのだ。


「そして、食事が終わるやいなや、料理人のオッフェンバックは、プリンスが使ったスープ皿を割った」


 残念ながら、アシュラが全てを見通した時、緑色の陶器の破片は、既に処分されていた。

 去年、ホーフブルク宮殿で肉料理に使われた皿も、いつの間にか、消えていた。誰の仕業かはわからない。点検簿には、ただ、経年劣化、とのみ記されている。


「物証はなくても、十分だ。ナポレオンの……ルイ18世の……解毒剤が効いたのが、何よりの証拠だ。ブルボンの王族は、敵からヒ素を盛られた時の為に、常に解毒剤を身近に置いていた。ヒ素は、暗殺に最もよく使われる毒物だ。今回、フランス王室がヒ素を使ったのは、それだけ、ヒ素が身近だったからだ」


「ナポレオンは、息子にヒ素が使われることを……フランス王室がヒ素を仕掛けてくることを、予測していたのだな。……で、その解毒剤は残っているのか?」

ダッフィンガーが目を輝かせた。


 アシュラは首を横に降った。

「残念ながら、最初から、一粒しか残っていなかった。残りは、ナポレオン自身が飲んだのではないかと、プリンスは言っていた。……セントヘレナで。毒を盛られて」

「……」

「ナポレオンの予測は、正しかった。プリンスは、命を狙われている。オーストリア政府は、少なくとも、フランス政府に、抗議をすべきだ。そして、プリンスの身の回りの警固を、厳重にしなければならない」

一際大きな声で、アシュラは断じた。




 腕を組み、目を閉じ、ゲンツはじっと聞いていた。アシュラの話が終わると、大きなぎょろりとした目を開いた。

「ライヒシュタット公暗殺計画については、フランスのサボイ将軍から、アポニー大使のところに、報告が届いている」



 サボイ将軍は、ナポレオン時代の将軍で、外交官でもある。アポニーは、在フランスのオーストリア大使だ。ナポレオンの遺品を調べに行った際、アシュラも会っている。



「サボイ将軍の元に、レザイニーという人物が尋ねてきて、ライヒシュタット公暗殺計画があると、密告したそうだ。この暗殺計画書には、具体的に4名の高位の人物が、同意を示したと、明記されている」


 事態を重く見たサボイ将軍は、それを、オーストリア大使のアポニーに告げた。


 憤激してアシュラは叫んだ。

「それなのに、何もしないでいたというのか!」

「メッテルニヒ公も、ライヒシュタット公暗殺の機が熟しつつあることは認めている」

ゲンツが応じる。

「それなら、なぜ!」


 アシュラの体の奥底から、激しい怒りがこみ上げてきた。

 だが、ゲンツは答えなかった。


「アポニー大使の元へ持ち込まれたライヒシュタット公暗殺計画書では、もし革命ということになれば、自由党はオルレアン公を、貴族と僧侶は、ライヒシュタット公を推すだろうと、予測している」

 オルレアン公というのは、ブルボン家の分家である。

「ライヒシュタット公を……推す。……革命!?」

アシュラは繰り返す。言葉が、頭に入ってこない。


「そうだ」

ゲンツは頷いた。

「ブルボン家が倒れるのは、時間の問題だ。かの国は、次を見ている。次のフランスの指導者は、誰になるか」


「プリンスを巻き込むな!」

思わずアシュラは叫んだ。

「はっ。そんなことが言える立場か。ライヒシュタット公は、ナポレオンの息子なんだぞ」

横柄な態度で、ダッフィンガーが応じる。


「なんで、彼が、ナポレオンなんかの為に!」

アシュラは、ただひたすら、腹立たしかった。

「父親だからだよ」

静かな声で、ゲンツが答えた。

「それは、どうしようもなく、ナポレオンが、彼の父親だからだ」

「くそくらえ!」

悲鳴のような声だった。それしか、アシュラの喉からは出てこなかった。


「アシュラ……」

言いにくそうに、ゲンツがアシュラの名を発音した。

「時代は大きく変わろうとしている。メッテルニヒのウィーン体制は、そう遠くないうちに崩れる。このオーストリアも、民衆の『革命』と無縁ではいられまい。……だが私は、民衆というものを、いまひとつ、信頼できない。彼らが信奉する、『ナポレオン』という存在も」


「フランソワは、関係ない!」


「フランソワ? ……まあ、いい。だが、私は、宰相メッテルニヒよりも、時代を見る目は持っているつもりだ。私は、民衆の味方ではないが、彼らの苦しみはよく知っている。その行き着く先も」


 唐突に、ゲンツは、立ち上がった。

「ナポレオン2世の警備強化の件、この私が承諾した。秘密裏に、警護の人間を増やそう。私に連絡を取りたければ、ダッフィンガーを通すといい。こやつは、有力な貴族の肖像画を、多く手がけている。情報通なのだよ、この男は」

ゆったりと立ち上がり、部屋を出ていった。




 「おい、なぜ俺を止めた?」

 あの時、こいつが止めさえしなければ、メッテルニヒに直談判できたのに。

 アシュラはまだ不満だった。確かにゲンツは、メッテルニヒの信頼が厚い。だが、彼の意見が確実に実行されるかというと、それは、いまいち、不安だった。


「心外だな。俺はお前を助けてやったんだぞ」

ダッフィンガーが、むっとしたように答える。

「俺は直接、この国の宰相メッテルニヒに訴えたかったんだ。ライヒシュタット公をしっかり警固するように、と」

「宰相が耳を貸すものか」

「宰相が無視しても、彼の周りには常に、物書き連中が潜んでいる。そいつらが聞きつけて……」


「やっぱりこいつは、馬鹿だ」

大きな声で、ダッフィンガーがひとり言を言った。

 アシュラはむっとした。

「なんだと?」

「お前はバカだって言ったんだよ、アシュラ。ナポレオン二世なんかに、入れ込みやがって」


 無言で、アシュラは拳を固め、飛びかかった。

 ダッフィンガーは、軽くそれを躱した。

「おい、やめろ。筆を持つ手を傷つけたくない」


 再び殴りかかったが、まるで取り合おうとしない。

 じりじりと後じさりしながら、言い放った。


「さっき、ゲンツ秘書官長も言ってたろう? 物書き共の注意を引く前に、お前、殺されるよ」

「殺される?」

「あの人は、そういう人だ。この国の陰の最高権力者メッテルニヒは、な。自分の主張することが守られる為なら、どんなひどいことでもする」

「わかってる」


 ……だから、フランソワは、ウィーンという籠に囚われたままだ……。


「お前の命に価値はない」

きっぱりとダッフィンガーは言い切った。

「お前なんて、宰相の描く世界の、小さな埃だ。埃が重なって、美しい絵の汚れになる前に、吹き払うのは当然のことだ」


「吹き払われる前に、やるべきことはやる!」


「お前なあ」

ダッフィンガーはため息を付いた。

「俺は、お前の命を救ってやったんだぞ、アシュラ。感謝してほしいくらいのものだ」

「信じられるか!」

「いや、信じてほしいね」

「お前が俺のためにそんなこと、するわけない!」


「お前のためじゃない」

落ち着き払って、ダッフィンガーは答えた。

「俺は、シャラメのおやじの為にやったんだ。いつもメシを喰わしてもらっているからな。やつの、未来の娘婿を、無駄に死なせたくなかった」

「……え?」


 虚を衝かれたアシュラを一人残し、ダッフィンガーは、悠然と去っていった。

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