カリカチュア
外交文書と一緒に届けられたそれを、メッテルニヒは、じっくり眺めた。
奇妙な衣装を着た人物の姿が描かれていた。膝まである長い、袖のない外套。皮のブーツ。白いシャツ、その襟に飾られたスカーフ、そして、派手な真鍮のボタン……。
ポーランドの民族衣装だ。
鳥の羽でけばけばしく飾り立てた、黒いフェルト帽の下の、その顔は……。
ライヒシュタット公フランツの顔だった。
豊かな巻き毛、広い額、大きな瞳、筋の通った鼻……。戯画化された特徴が、描き出されている。
一番上に、ポーランド語で、
「ナポレオン2世、万歳! ポーランド王!」 と、書かれている。
「今年になって、ポーランドで、大量にばらまかれたものです」
外交担当の官吏はそう言った。
「ポーランドは、ナポレオンのおかげで、まがりなりにも、ワルシャワ公国という独立を勝ち取ることができた歴史を持っています。彼らのナポレオンへの信頼は、未だに、非常に強いものがあります」
「ポーランドは、平原が多い。山や川が少ないから、ただでさえ、自然の国境が引きにくい。分割は、自明の理であろう」
メッテルニヒは言った。
ウィーン会議後、ポーランドは再び分割され、その国土の大半を、ロシアとプロイセンの支配下に置かれている。
「今、ポーランドは再び、統一の機運が高まっております。ナポレオン2世は、いわば、その象徴」
「許さぬ」
きっぱりと、メッテルニヒは言い放った。
「……」
官吏は息を飲んだ。
すぐに、何事もなかったかのように、報告を続ける。
「ライヒシュタット公が、
「ありえないな」
落ち着き払って、メッテルニヒは応えた。
「彼の身の回りに配した間諜たちからは、そのような報告は、受けていない」
ゆったりと椅子の背もたれに寄りかかる。
「この夏、皇帝は公を、チロル連隊付き騎兵大尉に任命した。公にとっては、初めての昇進だ。今、彼の心は、オーストリアへの忠誠心でいっぱいのはずだ……そうでなくては、困る」
「御意。情報によると、ポーランドの若い僧侶が、暴走しただけのようです。それに、民衆と、入り込んでいた、フランス王朝への不満分子が迎合したらしいです。いずれにしろ、ポーランドの支配者層は、何の反応も示してはいません。むしろ彼らは、アスペルンの戦いの勝者である、カール大公を戴きたがっているようです」
「それはそれで、問題だ」
メッテルニヒは足を組んだ。
「だが、大公に、そのご意思はなかろう」
「もちろんです」
ワグラムでの敗戦の後、カール大公は軍務だけではなく、全ての役職から退いた。今では、軍事論を著述する毎日を送っている。
丁重に頭を下げ、官吏は、下がろうとした。
「待て」
メッテルニヒは呼び止めた。
「あれは、どうしてる? ポーランドに帰ってきているのか」
「……?」
官吏は、一瞬、怪訝そうな顔をした。
すぐに、宰相の意図するところを察した。
「いえ。フランスに亡命しました」
「わかった」
おもむろに、メッテルニヒは頷いた。
*
官吏が下がると、メッテルニヒは、葉巻に火をつけた。
ライヒシュタット公を、ポーランド王に?
よりによって?
ポーランドが、親ナポレオンであることは、知っている。さっき官吏が言った通りの理由だ。
前世紀末、ポーランドの国力が弱まったのを見て、ロシア・プロイセン・オーストリアの3強国は、1772年、93年、95年の3回に分けて、ポーランドを分割し、各々、併合した。これにより、ポーランド王国は消滅した。
ナポレオンの
ポーランドは、統一の悲願を成し遂げたのだ。
だがワルシャワ公国は、フランスの傀儡国家に過ぎなかった。
それが、どうしてわからないのだろう。
よりによって、ナポレオンの手による独立なのだ。メッテルニヒとしては、どうしても、許せなかった。
だから、ウィーン会議で、4度目の分割をして、ロシアとプロイセンにくれてやった。
そのポーランドが、独立運動?
ナポレオン2世を王に?
許せるわけがない。
それに、ポーランドには、あれがいるのだ。今はフランスに亡命していると官吏は言っていた。だが、ひとたび故郷、ポーランドが蜂起すれば、必ず、その渦中に身を投じるであろう。
あれ……ナポレオンの、もう一人の息子は。
アレクサンドル・ワレフスキは、ナポレオンが、ポーランド貴族の妻、アンナ・ワレフスカに生ませた息子である。ライヒシュタット公より1才、年上だ。
アレクサンドルは、ロシア軍への兵役を迫られた。ポーランドは、ロシアの支配下にあるからだ。
しかし彼は、ロシア軍従軍を拒否し、ロンドンへ亡命した。
わずか、14歳の時である。
父ナポレオンの血を引き、一筋縄ではいかない強さを備えているとわかる。
ましてや、ポーランド王に、同じ父を持つ「弟」が、即位などしたら……。
言うまでもなく、同じ父を持つ兄と弟を、再会させるわけには、断じて、いかない。
ライヒシュタット公は今、オーストリア軍に忠誠を誓っている。だが、兄の存在を知れば、どう突っ走るかわからない。
官吏の話では、アレキサンドルは今、フランスにいるという。
少なくとも彼は、今回のビラ撒き事件には、加担してはいない。弟をポーランド王として描いたビラを撒き散らすことに。
まずは一安心だ。
……一安心?
心の奥底に閉じ込めていた、灰色の感情が、じわりと湧き上がってくる。
……ブルボン王家は、いつまでその力を保っていられるだろう。
……ブルボン家が倒れた暁には、フランスの民衆は、誰を担ぎ出すというのか。
……ナポレオンの、唯一の正統な後継者、
……。
メッテルニヒは頭を振った。
あり得ない。ヨーロッパのどの国も、そんなことは、許しはすまい。
ライヒシュタット公が、このウィーンから出ることは、永久にないのだ。
自分が、出さない。
それなのに、いいようのない不安が、胸に広がってくる。
まるで、過去の亡霊が、墓の中から蘇ってきたような不気味さを感じる。
メッテルニヒは頭を振った。
立ち上がり、キャビネットから強い酒を取り出す。
グラスに注ぎ、一息に飲み干した。
そういえば、同じ酒を、カール大公にもふるまった。
大公が訪ねてきた時、つい、先日のことだ。
妙に深刻な顔をしていると思ったら、唐突に、ブルボン家による、「ライヒシュタット公毒殺の可能性」について語り始めた。
以前にも、カール大公を通じて、ライヒシュタット公の暗殺計画が密告されたことがあった。だが、それは、全くの虚報だった。
今回は、大公自身さえも、あやふやな印象を抱いているようだった。
話の筋道がつかめない。なにより、情報の出処が定かではない。
それなのに、彼は、仮定の話を止めようとはしなかった。
「ただ一つだけ、貴侯に言っておこう」
最後にカール大公は言った。
「この件に関して、
……それが言いたかったのか。
と、メッテルニヒは思った。
信じられないことだった。
ブルボン家から刺客が送られたのなら、それには、必ず、シャルル10世か、姪で皇太子妃のマリー・テレーズが一枚噛んでいるはずだ。
だが、このところ、フランスの今の王、シャルル10世は、民衆の動きを軽視する傾向にあった。ロシアとオーストリアの大使に、「もう革命は起きない」などと
そして、マリー・テレーズの夫である皇太子、アングレーム公は、王位というものを、忌み嫌っている。シャルル10世のもうひとりの息子、ベリー公は、とうの昔に死んでいる。
ブルボン家が、ナポレオン2世に刺客を送るとすると、それは、アングレーム公妃、マリー・テレーズしか、ありえない。
この夏、エステルハージ夫人
ファニーは、マドモアゼル・シャピュイと並んで、メッテルニヒが密かに教育したスパイだった。彼女らには、ウィーン会議で活躍してもらった。
美しいファニーは、外国の王や大使を家に招き、その奥方たちをもてなし、チェスやカードゲームに誘った。そして、メッテルニヒの欲しがっていた情報を、過たず、入手した。
彼女は、優秀な諜報員だった。
だが、フランスからファニーは、何の報告もよこさなかった。
友情が、義務に打ち勝ったということなのだろうか。
……全てが、ウィーン会議の頃とは違ってしまった。
ファニーの沈黙は、メッテルニヒの不安を掻き立てていた。
まだ長い葉巻を、灰皿に放置し、メッテルニヒは立ち上がった。
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