わしが決めた


 馬車に乗ろうとしていると、後ろの方で、ちょっとした騒ぎが持ち上がった。

 屈強な中年の男が、黒髪の若い男を抑え込んでいる。黒髪の青年は頭をもたげ、必死の形相で、メッテルニヒを睨んでいた。

 大きな方は、どこかで見たことがあるような気がした。だが、下を向いたその顔は見えない。


 「何だ?」

一緒にいた官吏に尋ねた。

 官吏は走って、様子を見に行った。


 間もなく戻ってきた官吏は、息を切らしていた。

「宰相閣下に直訴しようとしたらしいです」

「直訴? 何を」

軽い気持ちでメッテルニヒは尋ねた。どうせ、税を減らせとか、検閲を緩めろとか、そのたぐいだろうと思った。


 返ってきた答えは、意外なものだった。

「ライヒシュタット公の警護を強化してほしい、と口走っていたようです」

 メッテルニヒは絶句した。



 ライヒシュタット公暗殺の機が熟しつつあることは、カール大公に指摘されるまでもなく、宰相自身も、認識していた。

 もちろん、特に手を打つつもりはない。


 自らの死にゆく娘を使い、結核を感染させることには成功した。しかし、発病させるまでには至っていない。


 発病を促す効果を持つ黴の存在を知った。その黴を埋め込んだ薪を、ライヒシュタット公の寝室運び込んだ。

 二度運び込み、二度とも、効果が出る前に、除去されてしまった。秘密に近づいた二人の主治医と、家庭教師には、死んで貰った。


 フランスが、刺客を送り込んでくるのなら、むしろ、歓迎したい気分だった。もちろん、カール大公はじめ、人前では決して、そんなことは口にはしなかったが。



 ……ライヒシュタット公の、警護を強化?

 ……誰がそのようなことを!


「黒髪の若者の方か?」

 目を眇め、メッテルニヒは尋ねた。

 官吏は頷いた。

「名は?」

「アシュラ・シャイタン。連れの男が、そう呼ぶのを聞いた者がいます」


 ……アシュラ・シャイタン。

 聞いたことのある名だ。

 メッテルニヒは、記憶を探った。


 東洋風のこの名は、だが、自分は、スペルを知っている。多分、書いた事があるからだ。鵞ペンをインクに浸し、インク壺の縁で余分なインクを落とし、机の上に広げた、官公庁用の用紙に……。


「秘密警察官だ!」

メッテルニヒは思い出した。


 この夏、ライヒシュタット家の、資材流用の、捜査終了を命じた……。



 即座に振り返った。すでに、二人の姿はなかった。

「ガタイのでかい方が、なんとか、押し留め、連れ去りました。宰相にご迷惑のかかることを恐れたようです」

官吏が答えた。


 ……アシュラ・シャイタン。


 一度乗り込んだ馬車を、メッテルニヒは降りた。官吏を押しのけ、足早に、宮殿の中へ戻っていく。

 御者は不満そうに鞭を鳴らし、車庫へと、馬の轡を向けた。





 馬車を降りたメッテルニヒは、皇帝の部屋へ向かった。

 気になっている案件を、なるべく早く片づけた方がいいと思ったのだ。


 皇帝の居室の前で、ヨーハン大公とすれ違った。

 ヨーハン大公は、皇帝やカール大公の弟である。兄のカール大公に憧れて、軍人になった。

 カール大公ほどの実力はないが、民衆の人気は高い。


 皇帝の部屋から出てきた大公は、瞳を輝かせ、晴れ晴れとした顔つきをしていた。

 メッテルニヒが腰を折ると、殆ど上の空で、会釈を返してきた。一刻も早く、どこかへ行きたいような素振りだった。踊るような足取りで立ち去っていく。


 珍しいものを見たと、メッテルニヒは思った。


 宮廷政治が嫌いなヨーハン大公は、大抵の時間を、アルプスの山で暮らしていた。アルプス王というあだ名がついたくらいだ。宮殿に来る時はしぶしぶといった風情で、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしているというのに。




 メッテルニヒが入っていくと、皇帝は、俯いて、書類に何か、細かい書き込みをしていた。ちらりと覗き込み、それが、部下の報告書の手直しだと、メッテルニヒは見て取った。


「今、そこで、ヨーハン大公とお会いしました」

彼は言った。


 皇帝は、書類から目を上げた。なんだか、ひどく戸惑った顔をしていると、メッテルニヒは思った。


「貴公は、反対するだろう」

皇帝は言った。

「だが、もう、決めたことだから」


メッテルニヒは怪訝に思った。

「何のお話でしょう」

「結婚を、正式に許可した……アンナ・プロッフルとの」

「なんと!」



 ……アルプスの郵便局長の娘、アンナ・プロッフルと結婚したい。

 ヨーハン大公が、兄の皇帝に願い出たのは、もう、5年も前の話だ。


 皇帝に連なる大公と、田舎娘。

 理解しがたい話だった。殆どスキャンダルだった。ありえない。

 宮廷は、猛反対した。


 意外なことに、皇帝の反応は違った。彼は、妻及び、この結婚で生まれる子どもたちが皇族となることは認めなかった。また、正式な挙式は見合わせ、二人の関係は極秘にするように命じた。だが、結婚そのものには反対しなかったのだ。


 それから、ヨーハン大公がどうしたのかは、メッテルニヒは知らなかった。付き合いが続いているとすれば、妾として囲っているのだろうと、思っていた。


 ……皇帝が、結婚を許可した?

 ……郵便局長の娘との?



「貴賤婚は、罪なのでは?」

 驚きが収まると、メッテルニヒは言った。


 皇帝は、うっすらと微笑んだ。そうくると思った、という顔つきだ。

「その考え方は、古いと思うのだよ」

「しかし……」

「フェルディナント一世も、最後には、次男の貴賤婚を許可した」



 16世紀半ば、「アウグスブルクの和議」で、プロテスタントとカトリックの融和を図ったフェルディナント一世の次男は、豪商の娘と結婚した。



 メッテルニヒは渋面を作った。

「それとこれとは、話が違いましょう」


 少なくとも、フェルディナント一世の次男が妻にしたのは、豪商の娘だった。対して、ヨーハンの選んだ娘は、ろくに財産もない、田舎娘だ。

 メッテルニヒの感覚では、ほとんど、人でない。



 「何にしても、儂はもう、決めたのだ」

この皇帝にしては、珍しく、フランツ帝は、言い張った。



 宰相の意のままに、娘二人を売り渡した皇帝。

 ウィーン会議開催中は、宰相の陰になり、ひたすら、諸外国からの賓客の、巨額の饗応費を払い続けた皇帝。

 宰相の言う通り、孫を、その母である娘と引き離し、今もウィーンに、籠の鳥状態で幽閉している……。



「儂が、決めた」

 今まさに、メッテルニヒを封じ込めようとでもするように、皇帝は、強い目を上げた。


「陛下……」

 メッテルニヒの声が、掠れて消えた。


 ……皇帝もまた、変わろうとしておられるのか。

 ファニー・エステルハージに感じたのと同じ不安が、再び、じくじくと湧き上がってくる。



 「それで、こんなに遅くにやってきて、貴殿の用向きは何だ?」

 この話には、一切、口を挟ませぬとばかり、皇帝は、話題を変えた。


 メッテルニヒは、ため息をついた。

「ギリシアが、トルコの支配を脱したのは、ご存知ですね?」

 皇帝は頷いた。



 昨年(1827年)、フランス、イギリス、ロシアの力を借りて、ギリシアは、ナヴァリノの海戦で、オスマン・トルコを破った。



 最新の情報を、メッテルニヒは伝えた。

「そのギリシア王に、ライヒシュタット公を、という声が、あがっています」


「それは、いかん」

即座に皇帝は答えた。

「異教の国の王に、孫を即位させるなど、とんでもない話だ!」



 ギリシアは、ギリシア正教の国だ。この国の王となる者は、ギリシア正教に改宗しなければならない。

 厳格なカトリックを信奉するオーストリア皇帝からみると、孫の異教への改宗など、絶対に許せない、というのだ。



 だいたい、予想はしていた。だが、メッテルニヒは、ほっと、安堵の吐息を漏らした。

 これで、ポーランド王についで、ライヒシュタット公の、ギリシア王即位の可能性も消えた。

 帰宅を遅らせてまで、皇帝の居室を訪ねたかいがあったと思った。


 緊張が解けて、口が緩んだのだろうか。つい、口走ってしまった。

「ギリシア王には、スペイン王室のドン・ペドロの名も挙がっていたそうです」

「やつの名前は口にするな!」

激しい怒りの声が飛んだ。


 メッテルニヒははっと息を飲んだ。

 すっかり忘れていた。

 ドン・ペドロは、皇帝の娘で「もうひとりの売られた花嫁」、故レオポルディーネの夫だった。暴力により、妻を、死に至らしめたという……。


 「失言でした。お詫び致します」

 畏まり、メッテルニヒは、頭を垂れた。


 いずれにしろ、ドン・ペドロは、この話を丁重に辞退したという。





 明けて、1829年1月。

 メッテルニヒの二度目の妻、アントワネットが、産褥で亡くなった。23歳、1年と少しの結婚生活だった。生まれた息子、リヒャルトは、ナポレオン3世時代の、フランス大使を務めている。






お読み頂き、ありがとうございます。お読み頂けている手応えのお陰で、5章まで書き切ることができました。今までにない、幸せな経験をさせて頂いております。


謎解きを伏流とした、「5章 ブルボン家の白い百合」は、ここまでです。なお、1826年3月の皇帝の危篤と、翌年夏の、バーデン城でのライヒシュタット公の不調は、どちらも実話です。前者は病、後者は、「思春期特有の不調」と診断されています。








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