side story アルプスに咲いた花
高山植物
ハプスブルク家の離宮、シェーンブルン宮殿は、広大な庭園を擁している。幾つもある噴水や、テーマごとの観賞用の庭、馬場や、王子達の軍事訓練用の運動場などもある。
とにかく、広い。
ウィーン会議から少し経った、ある日。
アルプスの山から降りてきたヨーハン大公は、噴水のそばで、石を蹴っている男の子を見つけた。
金色の巻き毛、なめらかな肌、やや上向きの小鼻。
強情そうな青い瞳をしている。
姪が、フランスから連れてきた子だと、ヨーハンは、すぐにわかった。
「そんなところで何をしているんだい?」
子どもは答えなかった。つまらなそうに、足元を見ている。
ヨーハンは辺りを見回した。
母親……姪は、パルマにいる。フランスからついてきた養育女官長はじめ、フランス人従者たちは、ほぼ全員解雇されたと聞く。
この子には今、男性の家庭教師がつけられていているはずだ。
しかし、それらしい人影は見えなかった。
……さては、迷子にでもなったか。
……それとも、脱走してきた、とか?
兄のカール大公の話を思い出し、ヨーハンの口元に微笑みが浮かんだ。
子どもは、植え込みの陰にひょいと隠れて、侍従をまいた、というのだ。
……お守り役が、あの
気難しそうな家庭教師の顔を思い出し、ヨーハンは、子どもが気の毒になった。
こんなに小さい子どもには、厳しい中年男ではなく、女官の一人もつけてやればいいものを。
「君、暇かい?」
尋ねると、幼い少年は、わずかに頷いた。
「なら、付いて来るがいい」
少し歩いて、ガラス張りの温室に入った。
葉の厚い植物や、奇妙な形の樹木に、子どもは、目を見張った。外壁と屋根をなす硝子を通して、太陽の光が暖かく差し込んでくる。
オランジェリー……フランツ1世(女帝マリア・テレジアの夫)によって造られた、温室だ。
「悪いね。ここじゃないんだ。温室の中を通った方が近道だから」
真ん中の通りを歩いて、反対側に抜ける。
砂色の岩石が転がる、岩場に出た。
「ほら、足元、気をつけて」
ヨーハンが言うと、子どもは、驚いて後退った。
ヨーハンは笑った。
「悪い悪い。でも、ほら。きれいだろ?」
子どもの横に転がった岩の下に、小さな赤紫の花が、固まって咲いていた。
「アンドロサケ・アルピナだ」
「アンドロ……」
「覚えなくてもいいよ。ほら、こっち」
隣の岩の上を指す。
青い釣鐘型の花が、涼しげに咲き誇っていた。
「エーデルワイス……りんどうだよ」
「……」
子どもは、青い袋の先に、自分の鼻を寄せた。
「匂いはしないだろ?」
金色の後頭部に向けて、尋ねる。
振り返って、子どもは鼻に皺を寄せてみせた。
その顔がおもしろくて、ヨーハンは、声を出して笑った。
少し先に進むと、草原に出た。先を歩いていたヨーハンは、腰をかがめ、手招きした。
「ご覧。ここに、ほら、ナルキッソスが」
「水に映った自分の影を好きになっちゃった男の人の名前だね!」
少年が叫んだ。
完璧なドイツ語だった。
……おやおや。ドイツ語をしゃべってるぞ。
子どもは、フランス語しかしゃべらないことで、有名だったのだ。
……さては、このおじさんは、フランス語がわからないだろう、と、思ったな。
大真面目で、ヨーハンは肯定した。
「そうだ。水仙だよ」
エーデルワイスと同じように、少年は、白く俯く花に、顔を近づけた。
「フランスの水仙より、匂いがしない……」
「高山植物は、控えめなんだ」
「高山植物?」
「山の高いところに生える植物のことさ」
ヨーハンは腕を前に突き出し、水平に動かした。
「おじさんはここに、アルプスの山から採ってきた植物を、集めているんだ」
「アルプス!」
少年は目を輝かせた。
「僕も、アルプスへ行った! お母様と、ママ・キューと! 馬車が止まって、お母様が、降りてごらん、って。高い山がたくさんたくさん見えるよって言って……」
急に、声が小さくなった。
「フランスから
「チロルを通って来たのか……」
ヨーハンの胸が、ちくんと痛んだ。彼は、ある理由から、今は、チロルへは立入禁止の身である。
深い憂愁の波に、ヨーハンはさらわれそうになった。
子どもは、きょとんとしている。
「来たくなったら、いつでもおいで」
せいいっぱい明るい顔をして、ヨーハンは言った。
「いつだってここには、アルプスがある」
*
ヨーハンは、フランツ帝の5番目の弟だった。彼は、神聖ローマ皇帝として即位した長兄フランツより、3番めの兄、大公カールに憧れを抱いていた。
13歳になった時、ヨーハンは、憧れの兄、カールの後を追うように、軍に入った。位は、下から2番めの少将だった。すぐに、竜騎兵軍(勇敢な兵士たちの選抜部隊)を与えられ、指揮を取るようになった。
ナポレオンがウィーン目指して侵攻を始めた、1805年。
ヨーハンははじめ、チロルに派遣された。
彼は、チロルの民兵を組織化した。情熱的で、愛国心に燃える純朴なチロルの人々は、ヨーハンの心に、深い感銘を与えた。
民兵を率いていたのは、アンドレアス・ホーファーという、射撃伍長出身の、チロル州議員だった。
ジョセフ・フォン・ホルマイラー男爵のなかだちで、ヨーハンとホーファーは会った。
すぐに、意気投合した。
23歳のプリンスと、38歳のチロルの指揮官。国難という意識が、身分も年齢も違う二人を結びつけたのだ。
しかしヨーハンはすぐに、劣勢のイタリア方面へ、助太刀に、駆けつけねばならなかった。
抗戦の甲斐なく、ウィーンは陥落し、アウステルリッツで、オーストリアはじめ連合軍は、致命的な敗北を喫した。
兄のフランツ帝は、フランスと、ブレスブルクの和約を締結した。チロルは、バイエルンに割譲された。
ヨーハンはひそかに、アンドレアス・ホーファーと、反バイエルンの秘密協定を結んだ。
1809年。再び、ナポレオンが、侵攻を開始した。カール大公の檄の元、オーストリア軍は決起した。
これに呼応するように、チロルでは、アンドレアス・ホーファー率いる民兵が蜂起した。
血気盛んな彼らは、チロルにいたフランス軍を、撃退した。
一方、ヨーハンの方は、さんざんだった。兄カールの要請で、イタリア方面から急ぎ引き返す途中、ナポレオンの養子、ウジェーヌ軍に、さんざんに蹴散らされた。なんとか姪のマリー・ルイーゼを探し出し、安全な場所に移すことができたことだけが、救いだった。
最も大きな心残りは、ワグラムの戦いに、間に合わなかったことだ。
ヨーハンが1万2千の軍を率いて到着した時、すでに、オーストリア軍は破れ、トウモロコシ畑を血に染めていた。
幸い、兄カールは、かすり傷程度で済んだ。
だが、これを機に、カール大公は、軍だけではなく、全ての役職から退いてしまう。
一方、フランス軍を撃退したチロルでも、状況は悪化していた。フランス軍が反撃に転じ、ホーファーは、チロルを脱出した。しかしすぐに捉えられ、フランスに連行された。彼は、マントーヴァーで軍法会議にかけられ、翌年2月、銃殺された。
ホーファーの死から少しして、彼をヨーハンに紹介したホルマイラー男爵から、新たな決起の相談がもちかけられた。
南ドイツとイリュリア地方で、反フランス蜂起を計画しよう、というものだ。
これは、しかし、極秘裏に動かねばならなかった。
外相メッテルニヒが牛耳るオーストリアは、外交力を強化し、厳正な中立を保つことを第一義としていた。日の出の勢いのナポレオンに逆らうことは、メッテルニヒも、兄の皇帝も、望んでいなかった。
フランツ帝は、事務仕事の好きな、四角四面の、凡庸な皇帝だった。弟のカールやヨーハンの方が、よほど、才気がある。
だが、メッテルニヒには、凡庸な皇帝の方が、都合がよかった。それに、長男の即位が、ハプスブルク家の鉄則だ。
メッテルニヒは、常に、カールとヨーハンの動向に神経を尖らせていた。
廷臣たちに
カール大公が公務を全て退いたのは、ナポレオンに敗北したことだけが理由ではない。常に兄帝の造反を疑われ、監視される息苦しさから、解放されたかったのだ。
しかし、ヨーハンは、軍を退かなかった。カールより11歳若い彼は、まだ、20代の若者だった。彼は、愛国心に燃えていた。
ほどなくしてメッテルニヒは、ヨーハンとホルマイヤー男爵の密談を突き止めた。
……ヨーハン大公に、蜂起煽動の動きあり。
メッテルニヒの報告を受け、フランツ帝は、即座に、
「傭兵では、もはや、戦えません!」
兄の皇帝に、ヨーハンは、必死になって、国防の必要性を説いた。
「彼らは、金のために戦っているに過ぎない。だから、危険が迫れば、武器を投げ捨てて逃げ出してしまう。彼らは、国の為に戦う国民兵には、絶対に、敵わないのです! だが、国民兵は、自分の身が危険に晒されようと、必死になって戦います。祖国を……愛する家族や生活を……守ろうとするんです! 傭兵が、勝てるわけがない! どうか
「お前は何を言っているのだ?」
しかし、兄帝には、伝わらなかった。
「国民が忠誠を誓うのは、
頭の固い兄は、偉大なる先祖から受け継いだ規律を、蔑ろにするわけにはいかなかった。
自宅監禁は、血気にはやる弟を、ハプスブルクというシステムから守るための措置でもあった。
ヨーハン大公は、この時から、1833年までの20年間、兄の皇帝により、チロル立ち入りを禁じられている。
ホルマイヤー男爵の方は、メッテルニヒにより、逮捕された。
頓挫した蜂起の計画。屈辱的な自宅軟禁。そして、チロルとの悲しい別れ。
シェーンブルンの庭園で出会った男の子……姪の息子……と話していて、ヨーハンの胸を襲った憂愁とは、まさにこのことだった。
ウィーン会議後も、戦争はあった。
上アルザスのフューニンゲンでは、フランス軍が要塞に立てこもった。
ナポレオンが、エルバ島から脱出したからだ。
……再び、戦争の時代が蘇るのか。
ヨーハンの胸に、苛立ちが芽生えた。
フューニンゲンは、フランスの、ドイツへの玄関口だ。
ヨーハンは、要塞を包囲し、爆撃攻撃を仕掛けた。
都市の外にある要塞への砲撃は、実に、11日間に及んだ。
敵の防戦は見事だった。負けたフランス軍は、誇り高く、勇敢で、高潔だった。
そのフランス兵を殲滅させ、要塞を血に染めて、オーストリア軍の砲撃は終わった。
ヨーハンは、つくづく、戦争への嫌悪を感じた。
彼は、シェーンブルンで声をかけた子どもを、この時の戦いと結びつけて考えることはしなかった。
子どもは、ナポレオンのただ一人の「正当な」息子であったのだけれども。
※
本編では、なるべく名前を出さずにきましたが、フランソワの祖父の皇帝は、名を、「フランツ」といいます。「フランツ」のフランス読みが、「フランソワ」です。祖父と孫は、同じ名前です。
マリー・ルイーゼとの間に生まれた息子に、ナポレオンは、母方父方双方の祖父の名をとって、名付けました。ライヒシュタット公の全名は、
「ナポレオン(父の名)・フランソワ(母方の祖父の名)・シャルル(父方の祖父の名)・ジョセフ」
です。
ついでながら、母方の祖父である皇帝は、
・神聖ローマ帝国、最後の皇帝としては「フランツ2世」、
・オーストリア帝国、初代皇帝としては、「フランツ1世」
です。単純に、フランツ帝、あるいは皇帝フランツ、と書いてある本が多いです。
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