出会い
ワーテルローでナポレオンは破れた。メッテルニヒが辣腕を振るい、ヨーロッパに、再び、平和が訪れた。
時間を巻き戻した、古い体制による平和だ。
だが、ヨーハンは、鬱々として楽しまなかった。
ナポレオン戦争の頃、敗戦が続く極限状況の中では、将校も兵卒もなかった。軍隊で彼は、身分の低い兵たちと一緒になって、重い大砲や武器を運んだ。
みんないっしょに、泥まみれになった。
彼は、兵士たちが過酷に扱われ、ひどい刑罰を受けている現場を、何度も目撃した。
次第に、民衆への共感が、彼の心に芽生えてきていた。
ヨーハンはまた、宮廷というものに、嫌悪を感じた。
目上の者の機嫌を取り、根回しをする。
王や王子の結婚が、国の文化を左右する。堅苦しい儀式。虚礼。
ゴシップに飢えた連中が、常に、宮殿の廊下で聞き耳を立てている……。
チロルの件は、ヨーハンの「前科」となって残った。軍務だけでなく全ての役職を退いた兄のカールと違い、ヨーハンは、未だ、軍籍にある。
メッテルニヒの猜疑深い眼差しは、決して、ヨーハンからそらされることはなかった。
息苦しかった。
宮廷に、彼の居場所はなかった。
ヨーハンに、山の澄んだ空気と、遥かな景観を教え、山歩きの楽しさに導いたのは、ヨハネス・フォン・ミュラーだった。
ミュラーはスイスの歴史家で、彼の著作にインスピレーションを得て、シラーは戯曲、『ウィリアム・テル』を書いている。
ヨーハンは、アルプスの山を愛した。
そして、山に住む、純朴な人々を。
アルプスの人々の飾り気のない好意は、宮廷政治で傷ついたヨーハンの心を、優しく癒やしてくれた。
彼は、アルプスの麓、シュタイアーマルク州の産業の振興に尽力するようになった。
ウィーン会議が終結してすぐの頃、この地方を、飢饉が襲った。
ヨーハンは彼らに、じゃがいもの苗を渡し、その作付を奨励した。
また、農作物の収穫方法の合理化や、家畜の育成についても、尽力した。
鉱工業では、叔父から相続した私財を投じ、炭鉱を買い取った。それを基盤に、鉱石採掘の近代化を断行した。
また、イギリスでジェームズ・ワットに会った経験から、早くから、鉄道の重要性を見抜いていた。
今日、グラーツ(シュタイアーマルク州の州都)を通る鉄道の青写真を初めて描いたのは、ヨーハン大公であるといわれている。
こうした産業育成の一方で、ヨーハンは、アルプスの人々の啓蒙に務め、また、その生活や風俗習慣を、記録に留めさせたりもした。
*
出会いは、1819年のことだった。
山の奥まったところにある、トプリッツ湖畔で、ヨーハンは、笑いさざめいている、一群の少女たちを見かけた。
白いブラウスに、金の縁飾りの付いた緑色の胴衣は、若くはつらつとした彼女たちに、とてもよく似合っていた。
中のひとりが、ヨーハンの目を引いた。
つややかな髪、切れ長の瞳、きれいに通った鼻筋。
アンナ・プロッフル。
地元の郵便局長の娘だった。
何を話したのか、よく覚えていない。
ただ、ヨーハンは、夢中だった。話しかけると、彼女の目が、ヨーハンの目を捉えた。
大きな瞳が、柔らかくへこんで、ヨーハンの目線を受け止める。
話している間中、彼女は、決して、ヨーハンから目をそらさなかった。
印象的な瞳で、優しくヨーハンを見つめながら、いちいち、丁寧に頷いている。
受け容れられている、と、ヨーハンは感じた。
この娘に、自分は、受け容れてもらっている。
心が、丸く癒やされていくのを感じた。
今までの自分の人生は、無駄ではなかったと悟った。全ては、この娘と出会うための、必要な布石だったのだ。
ヨーハンは37歳、アンナは15歳だった。
ヨーハンは、自分の山荘に、娘たちを招いた。
本当は、アンナと二人っきりになりたかった。だが、いくらなんでも、性急過ぎた。
娘たちと食事をしたり、冗談を言い合ったり、時には、楽器を奏で、歌い踊ることもあった。
アンナは、機智に富んでいた。それでいて、ヨーハンを言い負かすことは、決してない。控えめで、優しい性格だった。
ヨーハンは、アンナのことばかり考えるようになった。
こんな風に誰かのことを思うことは、今まで、決してなかったことだ。
ヨーハンは、自分が優しい人になったように感じた。
アンナが、自分を造り変えてくれたのだ。
もはや、アンナと別れて暮らすことは、ヨーハンには、耐え難かった。
彼は、アンナの父の郵便局長に、娘との結婚を申し込んだ。
*
郵便局長、ヤーコプは、困惑しきっていた。
彼は早くに妻を亡くしていた。長女のアンナが、母に代わり、弟や妹の世話をしてきた。
苦労をかけた自覚がある。
その分、彼女には、幸せを掴んでほしかった。
ハプスブルクの大公が、自分の娘を、しきりと気にかけていることは、ヤーコプも気がついていた。
年齢は、22歳も離れている。もはや、親子である。
これが、他の男であったのなら、町の荒くれ共の力を借りてでも、追っ払うところだった。
だが、相手は、大公である。オーストリアのプリンスだ。その上、郷土の産業の育成に、尽力してくれている。
滅多なことはできなかった。
手をこまねいているうちに、相手は、なんと、結婚を申し込んできた。
「それは、妾として差し出せということですか?」
ヤーコプの声が震えた。
大事な娘を、慰みものにするつもりではなかろうかと、危惧した。
アンナは、大公に比べたら、ただの田舎娘だ。
それでも、彼の大事な娘であることに、代わりはなかった。
ヤーコプの反応に、大公は、驚いたようだった。
「いや、私は、生涯の伴侶として、彼女を妻に娶りたいのだ」
それから大公は、いかに自分が、アンナを愛しているかを、縷縷として述べ始めた。それは、父親としては、聞いていて辛いものがあった。しかも相手の男は、自分と同じ年代なのだ。
途中から、ヤーコプは、息が、苦しくなってきた。
やっと愛についての講義が終わったと思ったら、今度は、誠意について語り始めた。熱を帯びたような目をしている。
これは本物だと、ヤーコプは思った。
この人を信頼してもよいのではないかと、悟った。
……この大公様は、変人なのかもしれぬ。
……他に、いくらでも、きれいなお姫様を、妻に出来るだろうに。
……しかし、変人だからこそ、生涯に亘って、一人の田舎娘だけを、愛し続けるのやもしれぬ。
そう考え、納得した。
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