貴賤婚


 娘の父親は説得できた。

 問題は、ウィーンの、兄の皇帝だった。

 ヨーハンが暇さえあれば、シュタイアーマルク州へ出かけていることは、宮廷では、よく知られていた。

 すでに、大公の田舎娘への色恋沙汰が、醜聞スキャンダルになりかけていた。





 メッテルニヒは、一層の警戒心を募らせていた。

 田舎の町で、大公ヨーハンが、村人たちと楽しそうに談笑したり、農業指導をしたり、また、自分の領地に車両工場を造ったりしていることを、メッテルニヒは、探り出していた。


 ……チロルと同じことをするつもりか。


 メッテルニヒはまた、大公の村娘への執着も、ほぼ正確に把握していた。

 ただ、それが、結婚に繋がるとは、この高官は、予想もしていなかった。


 30歳を大幅に過ぎた大公にふさわしい姫を、そして、オーストリアにさらなる繁栄を齎してくれる子宮を、メッテルニヒは、ヨーロッパ各国の王族の中から、物色中だった。





 父親のヤーコプに約束した通り、ヨーハンは、アンナを日陰の身にする気はなかった。


 1823年2月、ヨーハンは、兄の皇帝と直接対面し、全てを打ち明けた。

 その上で、彼は兄帝に、結婚の許可を求めた。


 皇族には、貴賤婚という言葉がある。

 皇族は、必ず、自分の身分と釣り合った者と結婚しなければならない。

 相手がたとえ、高位の貴族であっても、貴賤婚は成立する。

 皇族の結婚相手は、領土領民を持つ、一国の主でないといけないのだ。


 ……幸いなるかな、オーストリア。汝は、まぐわうべし。

 そうやって、ハプスブルク家は、戦わずして、領土を拡げてきた。


 自分の恋愛の成就のみを考えて身を投ずる貴賤婚は、だから、国家への、重大な裏切りとなるのだ。


 ヨーハンは、大公の位を返上するくらいの覚悟だった。




 愛に関する弟の長弁舌が終わると、兄フランツは、目をぱちぱちさせた。

「そのような結婚が、どういう結果を齎すか、よく考えてみるといい」


「だから、彼女のいない人生は、私にとって、墓場同然なんです! 彼女は、私の女神、私にとって全てなんです!」

兄の言葉に、ヨーハンは食いついた。

「宮廷士族は、民を、同じ人間としてみていないんだ!」


ついに、激して、叫んだ。

「それは、誤った考え方だ。民も、貴族や皇族と、なんら変わることはない。否、純朴な分、高貴であるとさえいえる!」


「誰も、反対はしていない」

ぼそりとフランツが言った。


 はっと、ヨーハンは息を呑んだ。


 俯いたまま、兄は続けた。

「大事な人と共に過ごしたいという、お前の気持ちは、よくわかる。家庭の重要性は、私も理解しているつもりだ。家庭がしっかりしていなければ、王は……男は、よい仕事ができない」



 この皇帝は、極めて家庭的な男だった。戦争に出ている間も、毎日のように、ウィーンの皇妃に手紙を書いていた。戦地で、子どものの心配をしていたこともある。



「兄上、それでは……」

 ヨーハンの目が輝いた。

 すばやく彼は、用意してきた結婚承諾書を差し出した。

「この書状に、ご署名を」

「いや、その、まあ……」

 優柔不断に後退るその手に、強引に押し付ける。


 兄帝は、ため息を付いた。

「検討することを約束する」





 皇帝が、弟を呼び出したのは、それから2ヶ月経ってのことだった。

 彼は、ヨーハンに、結婚の許可を与える旨を、文書で通達した。


 ただしそれには、条件が付帯した。

 アンナ・プロッフルと、彼女が生む子どもたちには、王族としての地位も年金も与えられない、というのだ。



 実は、この2ヶ月の間、フランツ帝は、必死で、ハプスブルク家における貴賤婚の先例を調べ上げていた。


 彼が参考にしたのは、16世紀半ば、フェルディナント一世の次男、フェルディナント大公と、豪商ヴェルザー家の娘、フィリッピーネとの結婚だった。


 ……なんだ。ちゃんと先例があるじゃないか。

 記録を見つけた時、極めて官僚的なフランツ帝は、大いに安堵した。


 相手が豪商の娘であろうが、郵便局長の子であろうが、貴賤婚であることに変わりはない。

 弟の結婚についても、先例と同じように、ことを進めるだけだ。


 妻子を皇族として認めないというのは、このフェルディナント大公とフィリピーネの結婚に倣った条件だった。


 さらに、皇帝フランツは、宮廷の混乱と誹謗中傷を考慮した。

 当分の間は、正式な結婚式は見合わせ、結婚の事実は極秘にするよう、命じた。





 ヨーハンが村娘に結婚を申し込んだことは、いつの間にか、宮廷中に広がっていた。

 妾に囲ったのではない。

 結婚を申し込んだのだ。

 これは、大変なスキャンダルだった。

 憤激のあまり、この結婚をなんとか阻止しようとする策謀まで、渦巻いていた。


 それでも、アルプスの麓で、アンナと過ごす日々は、幸せだった。彼女の懐の深さに、彼は甘え、彼女は彼を、頼もしく慕った。


 ヨーハンは、ウィーンで雑務を片づけ、シュタイアーマルクへと飛んで帰る、という生活を続けた。


 宮廷の人々は、大公はそのうち、「村の情婦」に飽きて、その身分にふさわしい結婚をするだろうと、囁いていた。







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