今はまだ……


 ……くそ。

 メッテルニヒは、机を拳で、どん、と叩いた。


 ……あれほど、噂を、流させたというのに。

 ……マルファッティ医師に命じ、

 ……フランスに潜伏していた、カルボナリを使って。



 7月革命直前、アポニー大使からは、何度も、ライヒシュタット公皇帝の孫を貶める噂を否定してよいか、という問い合わせが届いていた。

 彼の知能や発達に関する、重大な侮辱が、巷間で囁かれている、というのだ。


 もちろん、メッテルニヒは、否定を禁じた。

 当たり前だ。その噂は、彼自身が流したものだったのだから。


 ライヒシュタット公が、「まともではない」という噂は、一定の効果を上げた。

 ナポレオンの部下達が、すぐさま決起しなかったのは、この噂による所が大きい。ナポレオンの息子を、ウィーンに囲い込み、一歩も外に出さなかったことも、うまく作用した。


 そしてまた、フランスの民衆は、誰を王にするかなどということは、眼中になかった。

 彼らは、ひたすら、ブルボン王朝打倒を謳っていた。

 ただただ、生活の苦しい現状を、脱したかっただけだ。


 シャルル10世が退位し、間に合わせのように、新王ルイ・フィリップが即位した。彼は、ブルボン家に連なる支流の出身だ。


 ちなみに、彼の父、エガリテ・フィリップは、フランス革命の折、国王、ルイ16世の処刑に、一票を投じたという。


 民衆の味方を喧伝するかのように、エガリテの息子、ルイ・フィリップは、「ブルジョワ政権」を打ち立てた。


 だが、革命の主体であった、より下層の人々は、新政権の恩恵から、弾かれてしまった。彼らの生活は、依然として、上向かない。


 過ぎ去りしフランスの栄光、ナポレオン。

 その息子、ナポレオン2世。


 労働者や手工業者、農村の人々など、ブルジョア以外の民衆の期待は、そこに集約されつつあった。



 ……また、同じことの繰り返しか。

 ……ブルボンが倒れても、経済が良くなるわけがないではないか。


 革命は、常に、経済不況……そして、食糧不足……から起きることを、メッテルニヒは知っていた。



 1789年、フランス大革命の折は、83年から続く、深刻な不作が、食糧事情を悪化させていた。民衆は、パンを求め、バスティーユ、そして、ヴェルサイユを襲撃した。


 今回の7月革命は、1825年にイギリスで起こった経済恐慌に端を発している。フランスでは、穀物が50%も高騰し、反面、労働賃金は35%低下し、失業が増大していた。


 下々の食卓から、パンが消えると、暴動が起きる。その暴動に、指導者がいるかいないかが、革命と暴動との違いだ。



 ……愚かな。

 メッテルニヒは、冷笑した。

 たかが、支配者をすげ替えたくらいで、経済が上向くわけがない。


 ……それにしても、ナポレオン2世の肖像画だと?

 ……ウィーンでは、あれほど厳しく取り締まっていたというのに。一体どこから、流出したんだ?


 ナポレオンの息子が、フランスに返り咲く。

 メッテルニヒには、許せないことだった。

 ヨーロッパの平和を守るために、どうしても、あってはならないことなのだ。


 薄々は、彼も感じ取ってはいた。

 新しい時代のうねりを。

 だが、「ヨーロッパの御者」として、認めるわけにはいかなかった。

 彼は、あくまで、自分の敷いたウィーン体制に固執した。

 それが、年をとるということなのかもしれなかった。



 ……何にしても、このようなことを、に知られるわけにはいかぬ。

 ……自分が、フランスに求められている、などと。

 ……あの、年若い、傲慢な青年に。

 ……仇敵の息子に。


 宰相メッテルニヒは、ライヒシュタット公を求める人々の声を、一切、ライヒシュタット公には、伝えなかった。







 ……今はまだ、フランスへやるべきではない。

 それは、メッテルニヒのあるじ、オーストリア皇帝も、同じ意見だった。


 皇帝は、祖父として、そして、第二の父として、フランツを、余計な危険に晒したくなかった。


 だが、皇帝の場合は、宰相メッテルニヒとは、少し、趣を異にしていた。

 皇帝は、起きる可能性のある変化が、いずれ、孫を、フランスの王座に導くかもしれない、と考えていたのだ。


 彼は、ルイ・フィリップのブルジョワ王朝は、単なるなかだちに過ぎないと認識していた。

 来るべき、次の王朝こそが……。


 ……が来ても、困らぬように、金の工面だけは、しっかりしておいてやらねばならぬ。


 実直極まる官僚肌の皇帝は、心づもりを始めた。


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