ナポレオン人気、再び



 在フランスのアポニー大使から、知らせが届いた。

 フランスの皇室警護のデシャンプ大佐なる人物が、ライヒシュタット公のフランス帰国を要請しに、ウィーンに向けて旅立ったというのだ。


「やつは、オーストリアに、イーグレット(鷲の子。ナポレオン2世。鷲は、ナポレオンを指す)の檻を開けさせてやる、と、豪語していたそうです」

 アポニー大使からの報告は、軽い調子だった。

 大使自身、さほど重大な事件だと考えてはいないようだった。


 だが、1週間後に届いた報告書は、より、深刻なものだった。

我らが皇帝オーストリア皇帝の代理人を名乗る人物が、大使館に現れました。その者は、畏れ多くも、皇帝のお言葉として、以下のように申し述べました。

『私はナポレオンの息子など知らない。マリー・ルイーゼの息子しか、知らない』」

 明らかに、オーストリアへの反感を高め、ライヒシュタット公を解放させようとする策略だと、アポニーは警告していた。



 7月革命が起きたのは、この少し後のことだ。




 革命が起きるとすぐ、謎の書簡が送られてきた。


ライヒシュタット公に、フランス国王就任を、正式に要請する


 書状には、そう、記されていた。

 パリからストラスブール(フランスの国境の町)までの、地区司令官の署名が、ずらりと並んでいる。


 メッテルニヒが警戒を強める中、アタナシウス・フーシェがウィーンを訪れた。


 ジョセフ・フーシェは、タレーランと並ぶ、フランスの政治家だった。革命期から、ナポレオン戦争の戦後交渉まで、共和制、帝政など体制は変われど、しぶとく生き延びてきた。

 ゆえに、風見鶏と言われ、恐れられている。

 革命政府の名のもとに、フーシェは、大勢の処刑に関与してきた。

 ロベスピエールかフーシェかと言われる中で、彼は逃げ続け、断頭台に登ったのは、ロベスピエールだった。

 ナポレオン政権下でも警察大臣として権勢を振るったが、やがて辞職、ブルボン王家へ寝返った。

 だが、フーシェは、かつて、ルイ16世の処刑に一票を投じている。

 「国王殺し」は、アングレーム大公妃、マリー・テレーズマリー・アントワネットの娘に、ひどく嫌われた。他にも、過去の残虐行為が取り沙汰され、ブルボン王朝復興直後、国外に追放されている。


 アタナシウスは、フーシェの息子だ。ナポレオン麾下の軍人で、スウェーデン王となったペルナドットの副官を務めていたはずだ。


 彼はしかし、正式な大使として来たのではなかった。

 ジョゼフ……アメリカに渡った、ナポレオンの兄の使者としてウィーンを訪れたのだ。

 

 ルイ=フィリップが即位したにもかかわらず、ナポレオンの親族は、今こそ、帝政復活の時と浮足立っていた。

 彼らは、ナポレオン2世即位の夢を再燃させていた。

 謎の手紙は、おそらくオルタンスナポレオンの養女が、将軍たちを唆したのだろうと推測されている。




 7月革命を制して樹立されたルイ・フィリップの、いわゆるブルジョワ王朝は、不安定な政権だった。


 革命でブルボン王朝を打倒しても、民衆の暮らしは少しも上向かなかった。


 この期に及んで人々が思い出したのは、皇帝、ナポレオンのことだった。

 革命後の恐怖政治を倒し、フランスを繁栄に導いた、あの、快進撃。

 人々は、記憶を揺り起こした。


 勝利の歓声。高揚。

 戦争特需で潤った経済。

 毎日の仕事、そして、休日の楽しみ。

 パンのある食卓。

 温かい食事、満腹感の記憶。


 パリの町では、ナポレオンの芝居がかかり、人々の人気を集めた。

 ナポレオンの肖像画が、再び、店先に並ぶようになった。


 ブルボン王政下では、その似姿を、煙草入れや鏡など、小さな物にこっそりと印刷して商っていた商人たちは、おおっぴらに、肖像画を店先に出して売り捌いた。それらの絵には、「過去、現在、そして未来」と印刷されていた。


 ナポレオン2世の肖像画も、父、ナポレオンの横に並んだ。


 バーセレミーが詩で謳ったような、憂いを帯びた貴公子の肖像画は、飛ぶように売れた。青いフランスの軍服姿の肖像画も、勇ましい父の肖像と並び、あっという間に売り切れていった。


 これらナポレオン父子の肖像画は、現在の王、ルイ・フィリップの、実に20倍もの数が出回っていた。



「もし、今、ライヒシュタット公がフランスへ姿を現すようなことがあったら、大変なことになります。そうなったらもう、我々、オーストリアの手には、負えません。

彼は、フランスの旗でくるまれ、民衆の熱狂の中、そのままパリまで運ばれていくことでしょう」


 直近の報告で、アポニー大使は、そう、結んでいた。

 フランスの新王にとって、ナポレオンの遺児は、今なお危険な存在だった。



 即位したばかりのルイ・フィリップは、昔からの友(※1)であるベリアル将軍を、わざわざウィーンに派遣した。

 自分の王朝を認めさせるためである。そうせざるを得ないほど、彼の王朝は、脆弱だった。


 ベリアルは、ナポレオンの息子に会わせろと迫ったが、メッテルニヒは取り合わなかった。さして粘りもせず、ベリアルはルイ=フィリップの元へ帰っていった。







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※1 ベリアル

国を裏切ったデュムーリエ(巻き込まれてベリアルも逮捕されました)や、病死したオッシュの下でベルギー方面で戦った後、1796年からナポレオンの麾下に入りました。イタリアで活躍後、エジプト遠征に従軍、ドゼの下で、マムルークと戦います。ボナパルトの後任のクレベールが亡くなった後は軍をまとめ(クレベールの後任はムヌーでしたが)、さらにカイロを明け渡してエジプト遠征の後始末をつけたのは、彼です。


ルイ=フィリップとは、デュムーリエの下にいた頃の仲間です。ルイ=フィリップはデュムーリエと共に亡命しましたが、ベリアルは革命軍に残りました。なお、彼は、貴族ではありません。ヴァンデ地方出身の検事の息子です。




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※商社城さんのご指摘で、ここの話は書き直しました(2023.1.20)


元の原稿は、フランスがルイ=フィリップよりナポレオン2世を望んでいることに焦点を当て、当時の噂をまとめて書いたのですが(その際、ベリアルをうさんくさい将軍として描きました)、このお話が完結してから数年後、ベリアルの回顧録を読みました。


一本気で、正義感の強い将軍です。だから、貴族でないにもかかわらず、そして、一度革命軍と亡命貴族に分かれてしまったにもかかわらず、ルイ=フィリップは再び彼を身近に呼び、重用したのでしょう。


商社さんのご指摘で、改めてここを読み返し、ここに出てきたのがあのベリアルだと気づきました。


ベリアルは正義漢です。


お読み下さった方と、それから、ベリアルに心から謝罪して、資料に忠実に書き直しました。







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