結婚のプロトコル 1
戦火を避け、中欧を彷徨っていたマリー・ルイーゼが、ウィーンに呼び戻された。
父と娘の再会は、感動的だった。
感涙さめやらぬ長女を別室に呼び、フランツ帝は、義務と犠牲について語り始めた。
悪鬼ナポレオンがお妃探しをしていることは、マリー・ルイーゼも知っていた。だが、非難先で、彼女は、情報を遮断されていた。お妃選びの最前線に、まさか自分の名が上がっているとは、予想をだにしていなかった。
……選ばれた方は、おかわいそう。
そんなふうに、気の置けない友人に、書き送ってさえいた。
部屋の前で待機していた従者は、ようやく出てきた父娘の顔が、疲れ切っていることに気がついた。
マリー・ルイーゼに、選択権はなかった。彼女は、「悪鬼ナポレオン」との結婚を、受け容れるしかなかった。
それは、メッテルニヒの危惧に対し、皇帝がすでに予見していたことだった。
しつけの行き届いた宗教心の篤い
命じられたらどこにでも嫁に行き、産めるだけ子を産む。
それが、ハプスブルクの皇女に課せられた使命なのだ。彼女らは、幼い頃から、この教えを叩き込まれる。
逆らうことは許されない。
*
大公女の承諾は取れた。あとは、フランス皇帝を焦らし、オーストリアに有利な条件を引き出すだけだ。その為にも、外相は、フランスにいないほうがよかった。
メッテルニヒは、フランツ皇帝の元へ、帰国した。
彼は、妻のエレオノーレのをパリに残した。女帝マリア・テレジアの宰相、カウニッツの孫娘だる彼女には、政治的センスがあった。メッテルニヒは、妻に、パリでの情報収集を任せたのだ。
ある晩、フランス高官の家で、仮面舞踏会が催された。何度も断ったにも関わらず、
舞踏会会場で、仮面をつけた男が、近づいてきた。彼は、エレオノーレの腕を取り、奥の部屋へ連れて行った。
しばらくの雑談の後、さり気なく、彼は尋ねた。
「貴女の国の皇女様は、フランス皇帝が結婚を申し込んだら、お受けになるだろうか」
「さあ」
……この男は。
聞き覚えのある声だった。エレオノーレの直観が閃いた。
仮面の下で、男の表情は読めない。
「それなら、オーストリア皇帝は、賛成して下さるだろうか」
「そのような質問には、お答えするわけにはまいりません」
……間違いないわ。
……この男は、ナポレオン自身……。
エレオノーレは身構えた。
相変わらず愛想のよい声で、男は続ける。
「もし、貴女がオーストリア皇女だったら? 貴女は、ナポレオンの求婚をお受けになるだろうか」
「もちろん、お断りします」
きっぱりと、エレオノーレは告げた。
既婚者の矜持だった。
「意地悪なお方だ」
相手は、笑った。
この頃には、相手の男も、
「ご主人がどう思われるか、聞いてみて頂けないだろうか?」
「いいえ。そういうお話は、大使になさって下さい。シュワルツェンベルク大使が、オーストリア宮廷に取り次いで下さるはずです」
まるで、茶番のような光景だった。
間もなく、オーストリアの某所から、フランスへ情報が届けられた。こっそりと、極秘裏に。
手紙の宛名を間違える、などという古典的な手法が用いられた。
伝えられた情報によると、オーストリア皇帝は皇女の結婚に反対しない、とあった。
待ち構えていたナポレオンの反応は素早かった。
ある日、メッテルニヒの後任の大使、シュヴァルツェンベルクが狩りから帰宅すると、自宅に、正装したイタリア副王が待っていた。
ナポレオンの継子、ウジェーヌである。
気の毒な彼は、継父が母ジョセフィーヌを裏切る、要所要所で呼び出され、いいように使われている。だが彼は、終生、ナポレオンを裏切らなかった。
この時も、なかなか帰らぬオーストリア大使を、落ち着かない気持ちで待っていた。
ウジェーヌは、ナポレオンの署名入り結婚契約書を携えていた。
ここで、返事を引き伸ばす。
それが、外相メッテルニヒの作戦だったはずである。
だが、新しい大使シュヴァルツェンベルクは、軍人だった。「申し入れられた提案を、一切、拒んではならない」と命令されている。実直な軍人は、それに従い、署名した。
即座に、フランス側の使者が結婚契約の細目を携えて出立した。また、腕木式通信機を用いて、フランス皇帝とオーストリア皇女の婚約の成立が、ウィーンに伝えられた。
腕木式通信とは、支柱の横に伸ばした先にそれぞれ文字をあてがい、遠方にまで信号を送る通信法である。見晴らしの良い場所に立てられ、目的地まで順に情報を送る。当時の最新技術だ。
メッテルニヒは、ナポレオンの決意など、とうの昔に知っていた。そもそも、彼にオーストリア側の情報を漏らしていたのは、メッテルニヒ自身なのだから。
返答を引き伸ばし、オーストリアにとって有利な条件を導き出す。その筈だったのに……。後任大使シュヴァルツェンベルクの融通の効かなさに、メッテルニヒは、苛立っていた。
不機嫌なのは、皇帝も同じだった。大事な娘の縁談について、腕木式信号などで伝えてくるとは、なんたる無作法であろう。
オーストリア皇帝の怒りは深甚で、フランスの新興皇帝は、以後、記録を漁り、正確な
この結婚に猛反対したのは、マリー・ルイーゼの義母、マリア・ルドヴィカだった。
二度目のウィーン陥落の際、マリー・ルイーゼら継子とともに、中欧を逃げ回り、苦楽を共にした皇妃である。年齢は、ルイーゼより4つ上。二人の間は、義理の母子というより、姉妹に近かった
マリア・ルドヴィカの実家、エステ家は、ナポレオンのせいで、イタリアの領土モデナを失い、没落している。その恨みは、彼女の骨髄にまで徹していた。
中欧を逃亡中、彼女はマリー・ルイーゼに、自分の兄との結婚をほのめかしたことがある。
自分の兄をマリー・ルイーゼに勧めたのは、ナポレオンのお妃候補に、仲の良い継子の名が上がらないようにとの、マリア・ルドヴィカの牽制だった。
実れば、マリー・ルイーゼにとって、義母と夫が兄妹という複雑怪奇な関係になるわけだが、少なくとも年齢的には、ナポレオンより、遥かに好ましかった。
兄と継子は、一緒に音楽を楽しんだりした。マリー・ルイーゼは楽し気で、次第に、彼に惹かれていくようだった。
だがこれは、淡い思いに過ぎなかった。深窓の乙女には、恋を恋と認め、推進する力はなかった。
何より彼女には、ハプスブルク家の大公女としての責任があった。
その責任を押し付ける教育が、幼いころから、施されてきた。
始まりかけた恋は、その場限りで終わった。
*
1810年、3月。
ウィーンのアウグスティナー教会で、オーストリア皇女マリー・ルイーゼとフランス皇帝ナポレオンの、代理結婚式が行われた。代理結婚とは、新郎が参加せずに、花嫁の故国で行われる儀式である。
花婿の代理は、叔父のカール大公が勤めた。これは、ナポレオンからの依頼だった。
アスペルンで、ナポレオンの不敗神話に初めて汚点をつけた軍人。仇敵カールに、ナポレオンは、自分の代理を頼んだのだ。
鐘の音を合図に一斉に礼法が鳴り響く中、マリー・ルイーゼは、叔父にエスコートされ、祭壇に登った。
*
フランスからの特命大使ベルティエは、オーストリア若き皇妃、マリア・ルドヴィカの態度を測りかねていた。
ナポレオンとオーストリア皇女マリー・ルイーゼの代理結婚が、無事執り行われたばかりの祝宴である。
フランス使節団に対して皇女は、ナポレオン美術館について尋ねたり、ハープやカドリール(ダンス)を習いたいと申し出たり、新生活を楽しみにしている様子が窺えた。
更に彼女は、皇帝陛下の要望に添いたい、とまで言い切った。
素直な女性なのだと、フランス側の使者達は感激した。
皇女はいい。
だが、わからないのは、皇女の義母、マリア・ルドヴィカの態度だ。
今、皇妃は、代理結婚式の祝宴の席上で、フランス皇帝の個人的な生活習慣を、次から次へと話題にしている。そのさまは、まるで、ナポレオンのアラを探すが如くであった。
同じテーブルに、ベルティエもついていた。この結婚の特例大使を担うベルティエは、古くからのナポレオンの腹心で、彼の影ともいわれる存在である。
しゃべりまくる皇妃の傍らには、カール大公がいた。元軍人で、オーストリア軍司令官だったカール大公は、必死になって、軍事問題に話題をそらそうとしていた。
……カール大公は味方だ。
ベルティエは考えた。
……わが陛下は、彼を信頼している。
ヴァグラムの戦いで、彼は怪我を負ったという。だが、こうして食事会に出席しているのだから、その怪我は、軽いものだったのだろう。
敗戦後、即座に彼は軍を辞し、全ての役職からも退いた。
……プライドを傷つけられたか。しょせんは、
やや侮蔑の色をもって、ベルティエは考えた。
ベルティエの心中など知らず、あいかわらずカールは、軍人時代の話ばかりしている。それも、息継ぐ暇なく、次から次へと。隣で皇妃が、所在なげにパンをつまんでいる。
……まるで、皇妃に喋らせまいとしてるようだ。
ベルティエは思った。
それにしても、皇妃の態度は不可解だった。
なぜそんなにも、皇帝の私生活を知りたいのか。
……ひょっとして。
ベルティエは考えた。
……皇妃は、義理の娘に、嫉妬しているのでは……。
マリア・ルドヴィカは、義理の娘マリー・ルイーゼより、4つ上だ。彼女の夫は、ナポレオンより1歳上。
どちらも、20歳近い年の差婚である。
……フランツ帝は、随分老けて見えるからなあ。
ベルティエは慨嘆した。皇帝フランツが老けて見えるのは、その大半は、ナポレオンのせいなのだが、彼はそこまで気が回らない。
だが、彼の主とて、若い頃のまま、というわけにはいかない。最近腹が出てきたと指摘され、ダンスのレッスンを始めたのだが、すぐに音を上げたという。
……だがまあ、フランツ帝よりマシだ。我らが皇帝は、戦争を勝利に導く傍ら、ポーランドの婦人を孕ませたのだから。
反面、皇妃とフランツ帝の間には、子どもはいない。
……気の毒に、皇妃は満たされておられないのだな。
ベルティエはひとり、頷いた。
……だから、義理の娘の素晴らしい結婚に、嫉妬しておられるのだ。
それが誤解だったとベルティエが悟ったのは、皇女のフランスへの出立の時だった。
皇妃が、号泣したのだ。
「永遠の時の流れから比べれば、人生は短いものよ。だからちょっと我慢していれば、すぐに終わるから」
涙を拭き、マリア・ルドヴィカは言った。
初夜のことを指したものであろうか。
言葉の真意はわからないながらも、マリー・ルイーゼも、泣きながら頷いていた。
その日は朝から雨が振り、風の強い日だった。
マリー・ルイーゼはカール大公に手を引かれ、馬車に乗った。
出発のラッパが響き渡る。
長い馬車の列を、多くの市民が見守っていた。
「Gott! erhalte Franz den Kaiser,
(神よ、皇帝フランツを守り給え、)」
市民の中から歌声が沸き起こった。重々しい調べである。制定されてから13年の、オーストリアの国歌だった。
「人食い鬼への人身御供だ」
「ミノタウロスの餌食になりに行くんだ」
人々はささやきあった。
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