お妃探し 2
お后候補には、ロシア皇帝の妹と、オーストリア皇帝フランツの長女、マリー・ルイーゼの名が上がっていた。
北の大国ロシアは、不気味な存在だった。落ち目の、そして今は単にヨーロッパの外れの一国となってしまったオーストリアより、ロシアと姻戚関係を結ぶ方が、望ましい。
ナポレオンは、ロシア皇帝アレクサンドル1世に、彼の妹、エカチェリーナに結婚を申し込むつもりであることを、公式に伝えた。
適齢期であった大公女は、彼女一人だったのだ。
エルフルトでの仏露皇帝の会談の際、返答を迫られた
エカチェリーナは、アレクサンドルの、お気に入りの妹だった。「食人鬼」の異名をとるナポレオンの妻にするくらいなら、力のない貴族にくれてやって、自分の身近に置いておく方を選んだのだ。
しかし、ナポレオンにはこれは、単なる行き違いとしか認識されなかった。
自分は、冠たるフランス帝国の、皇帝なのだから。向こうから膝を折ってお願いしてもいいくらいのものだ。
ナポレオンは、諦めなかった。そこで彼は、
だが、遠方であるのをいいことに、ロシア皇帝からは、なかなか返事が来ない。
その頃、フランスの外交官から、
……この上、ロシア皇帝から正式の断りが来たら、われらが皇帝のメンツは丸潰れではないか。
フランスの廷臣たちは、鳩首して考えた。
いずれにしろ、すぐに子を産めないような妻には用はない。
一方、オーストリア皇帝の娘マリー・ルイーゼは19歳、マリア・アンナより3歳年上である。彼女なら、すぐに孕むことも可能であろう。しかも、ハプスブルク家は、多産の家柄である。マリー・ルイーゼには、6人の弟妹がいる。幼くして亡くなった子を含め、先の皇后は、12人の子を産んだ。その多産ぶりは、有名な女帝、マリア・テレジアも同じだ。
……マリー・ルイーゼ内親王で良いのではないか。
廷臣たちは頷きあった。
問題は、ハプスブルク家の反応だった。
敗戦したとはいえ、、千年近くに亘って、神聖ローマ帝国の君主を輩出してきた家柄だ。
……余人は戦をすべし。幸いなるかなオーストリア、汝はまぐわうべし。
これは、ハプスブルク家について語る時、必ず出てくる言葉である。
ハプスブルク家は、ヨーロッパの諸国や領邦と姻戚関係を結ぶことにより、その国の領土を手に入れてきた。戦いによる一滴の血も流さずに、帝国を拡大してきたのだ。
フランスに輿入れてきた妃もいる。だがそれは、あまりに不吉だった。ルイ16世妃、マリー・アントワネットだったからだ。彼女がコンコルド広場でギロチン刑に処されてから、まだ19年しか経っていない。
この、大叔母の処刑もまた、フランス側にとっての懸念材料だった。
ともあれ、ハプスブルク家が欧州に根を張る名門中の名門であることは、間違いない。
……そのハプスブルクが、軍人上がりの皇帝ナポレオンに、娘を差し出すだろうか。
しかも、ナポレオンは、ハプスブルクを完膚なきまでに叩きのめし、間接的にではあるが、神聖ローマ帝国というタイトルを取り上げている。
「大丈夫だ」
恐れを知らぬこの皇帝は尊大に宣言した。
「オーストリアの皇帝とは、直接に言葉を交わしたことがある。いわば、昵懇の間柄だ。私のことは、彼もよくわかっている。皇帝は喜んで、娘を差し出すよ」
例の、アウステルリッツでの敗北後の、焼けた風車の下での恫喝のことを言っているのだ。(※「オーストリア戦役 1」参照下さい)
集まった廷臣たちは、不安を覚えた。
*
だがここで、意外な援軍が現れた。
オーストリアの外相、メッテルニヒである。
彼は、かつて、在フランス大使だった。
ライン河畔の貴族の息子として生まれたクレメンス・メッテルニヒは、若き日に、ストラスブールで、フランス革命を目撃している。
民衆による民衆のための革命は、彼の目には、ただの暴動としか映らなかった。彼は、暴徒と化した民が商店を襲い、略奪するのを目の当たりにした。
22歳の時、彼は、エレオノーレと結婚する。彼女は、女帝マリア・テレジアの宰相だったカウニッツ公爵の、孫娘だった。この結婚により、メッテルニヒは、高級官僚への道へと歩み出す事となった。
当時、フランツ帝は、伯父・父の時代の旧弊な廷臣達を切り捨てたがっていた。新しい臣下が必要だった。皇帝は、自分と同年代のメッテルニヒを重用した。
メッテルニヒは、ナポレオンに対面したことがある。彼は、ナポレオンを、歴史上最も魅力ある人物だと評している。
敗戦国として、オーストリアは、莫大な賠償金を求められていた。過酷な領土割譲も飲まざるを得なかった。
新帝フランツの外相となったメッテルニヒは、ひたすら、フランス側の譲歩を引き出そうと努めていた。
そんな折の、皇女への結婚申し込みである。
これは、交渉を有利に導くための絶好の切り札であると、メッテルニヒは判断した。
とにかく、返事を長引かせるのだ。
そして、オーストリアにとって有利な条件を導き出す。
彼は、渋る皇帝をかき口説いた。
*
オーストリアのフランツ帝には、懸念があった。
ナポレオンは41歳。父である彼よりも、1歳年下であるにすぎない。マリー・ルイーゼとは、22歳も年の差がある。
それに、宗教上の問題もあった。
ナポレオンとジョセフィーヌとの離婚が、教会から認められないのではないかという恐れだ。
離婚は、カトリックの教義に反する。もし、二人の離婚が認められないのなら、皇帝の娘は、重婚の罪を犯すことになってしまう。
昨年(1809年)、12月14日。
ナポレオンの「離婚」は、宗教的に認められていないのではないか。
これが、オーストリア皇帝の危惧だった。
キリスト教に於いて、「重婚」は罪である。何も知らなくして妻になっても、その重罪からは免れることはできない。
長女、マリー・ルイーゼは、神の怒りに触れることになる。
堅物で信仰心の厚いフランツ帝は、愛する娘に、宗教的な誤り犯させるわけにはいかなかった。
*
基本的に、カトリックでは、離婚は認められていない。もちろん、抜け道はある。王族が離婚する、一番簡単な方法は、ローマ教皇の許可を取り付けることである。昔から、教皇の権威を借用し、王族の離婚は成り立ってきた。教皇庁も政治判断に長けていたので、たいていは、離婚許可状を発行してきた。
ところが、今回に限って、この方法は、うまくいきそうになかった。
ナポレオンが、教皇ピウス7世を、拉致監禁していたからである。
ナポレオンの戴冠式を執り行ったピウス7世だが、彼は、この独裁者に危惧を抱いていた。
それは、ナポレオンの方でも同じだった。
ナポレオンは、大陸封鎖に協力しなかったとして、教皇領を取り上げた。そして、ピウス7世を「狂人」として、サヴォイ(イタリア)に幽閉してしまった。
当初、ロシア皇帝の妹をもらうつもりだったナポレオンは、宗教問題を気にしていなかった。ロシア正教会の儀典に従えば、何の問題もないと、たかをくくっていたのだ。
しかし、
ターゲットを
オーストリアは、厳格なカトリック国家だ。その上、オーストリア皇帝……彼の1歳年上の舅候補……は、この上もない石頭だったから。
フランス側は、策を練る必要があった。教皇不在でも、皇帝の離婚を、カトリック宗教界に認めさせねばならない。
フランス帝国の名目上の大法官、カンバセレスが、フランス宗教裁判所に対し、ジョゼフィーヌとの結婚解消を申し出た。
しかし、宗教裁判所は、なかなか、これを了承しなかった。
これに対し、ナポレオンの叔父、フェシュ枢機卿が、声明を送った。
1804年の宗教上の婚姻は、証明書に立会人のサインがないから無効だ、というのである。
フェシュ枢機卿は、この結婚を執り行っている。
さらに、立会人となったタレイランも、結婚式が、教会法上不備であったと、力説した。
そもそもジョゼフィーヌとの間には、(神の御前において)婚姻が成り立っていなかったのだから、改めて離婚の必要などない。ナポレオンは、ずっと、独身だったのだ、と。
3週間ほどねばり、ついに、宗教裁判所は折れた。
宗教裁判所は、ナポレオンとジョセフィーヌとの婚姻は、無効であると宣言した。
戴冠式前夜に、駆け込みで得た筈の宗教上の結婚……ジョセフィーヌの策略……は、灰燼に帰したのだ。
こうして、教皇不在のまま、ナポレオンは、新しく妻を娶る手段を手に入れていた。
*
この報告に、フランツ帝は頷いた。
他国の宗教問題など、どうでもよかった。ただ、カトリックの教義に反しないことだけが、重要なのだ。重婚罪が適用されないのなら、それで十分だ。
そもそも、婚姻による版図拡大は、オーストリアの国是だった。フランス皇帝との間に子どもが生まれれば、次の皇帝は、ハプスブルクの血を引くことになる。
皇帝は、メッテルニヒの考えを容れる決意をした。
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