お妃探し 1

 パリに帰ったナポレオンは、極めて個人的な、だが、重大な知らせを受け取った。

 彼の愛人マリア・ワレフスカが、妊娠したというのだ。




 マリア・ワレフスカは、有夫の婦人だった。夫であるポーランドの名門貴族、ワレフスキ伯爵とは、祖父と孫ほども年齢が離れていた。だが、彼女は貞淑な妻だった。

 ワルシャワを訪れたナポレオンは、マリアを見初め、強引に関係を迫った。マリアは、ナポレオン好みの、手足の小さな美女だった。


 もちろん彼女は、激しくこれを拒んだ。たとえ夫が老いていても、妻が他の男に身を任せる謂れはない。馬鹿にしないでほしかった。



 だが、ポーランドにとってナポレオンは、祖国回生の恩人だった。彼は、プロイセン領の旧ポーランドにワルシャワ大公国を設立した。これにより、ポーランドは、息を吹き返した。実態はどうであれ、18世紀末、列強に国土を分割されて以来、初めて、独立を認められた。

 ロシアとオーストリアに奪われた領土は、まだ返されていない。その意味でも、ナポレオンの存在は、大きかった。

 愛国の志士たちにとって、マリア・ワレフスカの我儘は、許されるものではなかった。


 ……ポーランドを救える者は、フランスの皇帝を於いて、他にない。


 繰り返される憂国の士たちの懇願、さらには、夫自身の説得により、マリアは、ナポレオンの寝所に上がった。




 計算すると、懐妊は、1809年、二度目のウィーン滞在の時だった。オーストリアと戦火を交えながら、略奪者は、彼女を、ポーランドから呼び寄せていた。

 ウィーンの森、南端にあるヴィラに滞在させ、毎晩のように、馬車を仕立てて迎えにやった。



 ……間違いない。あの時の子だ。

 ……そうすると、俺にはタネがあるのだな。

 ナポレオンは確信した。



 正妻ジョゼフィーヌとの間に、子どもはできなかった。彼より6つ年上のジョゼフィーヌには、亡夫との間に、二人の連れ子があった。彼女は、うまずめではない。

 そうすると……。

 欧州に冠たる英雄としては、考えるのも恐ろしいことだった。


 この疑惑は、一度、ナポレオンの妹、カロリーヌにより、検証実験されたことがある。カロリーヌは、自分の侍女で、18歳のエレオノーラを、兄ナポレオンの寝所に送り込んだ。

 エレオノーラはめでたく妊娠し、男の子を出産した。

 だが、カロリーヌが怒り呆れたことに、エレオノーレは、子どもの父親が誰か、自分自身にも確信が持てないと言う。ナポレオンかミュラ元帥かの、どちらかだというのだ。

 ちなみにミュラ元帥というのは、カロリーヌの夫である。

 ナポレオンは、自分の部下であり妹の夫でもある男と、同じ女を分け合っていたことになる。

 エレオノーレがただ一つ断言したのは、子どもの父親は、彼女の夫ではない、ということだった。懐妊当時、夫は、投獄されていたからである。



 マリア・ワレフスカの妊娠で、ナポレオンには子ダネがあることが、ようやく立証された。しかし、彼女は、ポーランド人だった。栄光ある皇帝の子が、属国ポーランドの、愛人の子であるわけにはいかない。

 由緒ある王家出身の妻が必要だった。子どもには、伝統ある青い血が流れている必要があった。

 それも、早急に。


 コルシカ島出身の下級貴族であったボナパルト家の、劣等感もあったろう。だが、今や彼らは、ナポレオンが平らげたヨーロッパ各国の、王や王妃である。

 彼らを束ねるナポレオンの子は、ナポレオン帝国の正当なる継承者となる。


 そもそも、愛人の子では、ダメなのだ。皇族の跡取りは、「神に認められた」正式な結婚から得られた男子でなければならない。それは、ヨーロッパ各国の王家の決まりだった。


 未だ世襲が大半のヨーロッパ諸国に、フランス帝国の正統性を認めさせる為に、「正当な跡継ぎ」は、是非、必要だった。


 ちなみに、フランス革命はキリスト教を否定したが、ナポレオンは、とっくに、神と和解していた。民衆を治めるには、その方が都合が良かったからだ。ただし、ローマ法王との確執は、この後も続く。



 こうして、皇妃探しが本格化した。

 ナポレオンは、子宮と結婚するのだ。





 ところで、ナポレオンには、既に妻がいた。

 皇后、ジョゼフィーヌである。


 ナポレオンとの結婚は、ジョゼフィーヌにとっては、二度目の結婚だった。


 ジョゼフィーヌは、マルティニャック島で生まれた。西インド諸島の、フランスの植民地である。彼女の最初の夫は、幼馴染(すぐに本国へ帰ってしまったが)の、アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵だった。ウジェーヌとオルタンスは、彼との間の子どもだ。

 この結婚は4年で破綻した。離婚が成立して間もなく、ボアルネ子爵は、フランス革命でギロチンに処さた。ジョゼフィーヌは、彼の助命嘆願をして、ついでに彼女自身、収監までされているので(カルムの監獄での再会は、さぞや感慨深いものであったろう)、離婚はしても、それなりの愛情はあったと思われる。


 やがて、生活のために、彼女は、総裁政府のリーダーであったバラス子爵の愛人となった。その生活は華やかで、「陽気な未亡人」との異名をとった。


 ナポレオンとの結婚は、1796年のことだ。6つ年下の若き青年士官の方が、彼女に熱を上げ、一歩的に迫りまくったのである。

 結婚当時、ナポレオンは27歳、ジョゼフィーヌは33歳であった。


 1796年のこの結婚は、役所に届けを出すという、いわゆる、世俗の結婚であった。パリ第二区役所で挙式された結婚式には、6人が列席したという。この時点で、ナポレオンとジョゼフィーヌの結婚は、法的に担保されたことになる。


 だが、二人の結婚は、聖別されなかった。ナポレオンは、妹たちには、宗教上の結婚式を挙げさせたが、自分たちの結婚は、それをしなかった。

 妹たちの結婚は、ナポレオンのイタリア遠征中に挙式された。革命戦争まっただ中である。神を否定する「合理精神」を標榜する将軍の妹二人の結婚が聖別されたことの方が、むしろ異例だったといえる。


 これを機に、ジョゼフィーヌは、宗教上の結婚式を望むべきだった。だが、若き日の彼女は、怖いものなしだった。夫は(イタリアからの略奪で徐々に裕福になってはいたが)、依然として格下の将校に過ぎなかったし、何より、彼女にぞっこんだったのだから。


 まさか、第一執政、さらに、その身分が終身になり、さらに、皇帝にまでなろうとは!



 ナポレオンとの結婚後も、ジョゼフィーヌの浮気グセは治らなかった。イタリア遠征では、妻を信じ切っていたナポレオンだが、海を渡って、魔法が解けた。エジプトで、信頼する者から、妻の浮気の事実を聞かされたナポレオンは、兄のジョゼフに、妻との離婚の決意を知らせてきた。ここの手紙は、イギリス艦隊の手に渡って公開され、人々に、娯楽ネタを提供した。もっとも、浮気は、ナポレオンの方も、お互い様だったのだったが。


 夫婦の間には、子がなかった。妻の年齢を考えれば、もはやこの先、子が生まれることはないと、ナポレオンにもわかっていただろう。親戚や臣下の提言もあったと思われる。浮気で派手好みの彼女は、ナポレオンの親族の評判が悪かった。

 これらを鑑み、フランス皇后に立つ直前、ジョゼフィーヌは、ナポレオンとの結婚を、盤石にする必要に迫られた。



 ナポレオンの戴冠に備え、ローマ教皇のピウス7世が、パリに来ていた。ジョゼフィーヌは彼の元を訪れ、自分たちの結婚は、「正式なものではない」と、涙ながらに告白したという。

 法的な、つまり、世俗の結婚は、している。だが、宗教上の結婚式は行われなかった、というのだ。


 ピウス7世は驚き、すぐに結婚を聖別せよと、ナポレオンに迫った。

 もちろん、ナポレオンにも、妻の策略はわかっていたろう。だが、戴冠式の前日である。ことを荒立てたくなかった。下手に断って、教皇の機嫌を損ねても困る。


 1804年、戴冠式のまさに前夜、テュルリー宮殿の礼拝堂で、二人は、宗教上の結婚式を挙行した。

 式を取り仕切ったのは、ナポレオンの叔父のフェシュ枢機卿、立会人は、外相タレイランと陸軍参謀総長のベルティエ元帥だった。


 こうして、ナポレオンとジョゼフィーヌの結婚は、世俗・法律的にも、また宗教的にも、成立した……

 ……はずだった。



 どさくさに紛れての宗教的な結婚式の翌日。

 ナポレオンは自ら、フランス帝王の冠を頭に載せ、ついで、足元に跪くジョゼフィーヌに、冠を被せた。

 ローマからはるばるやってきた教皇ピウス7世の出番は、殆どなかった。







 帝国を盤石とするために、後継者は不可欠だった。後継者を得る為には、子を産んでくれる皇后が必要だった。

 もちろん、重婚はまずい。

 ナポレオンはよくても、相手の家(それはもちろん、強大な権力を持つ王家になるはずだった)が、反対するだろう。


 現皇后、ナポレオンが自ら冠を被せたジョゼフィーヌとの離婚が急務となった。

 なにはともあれ、彼女に、離婚を言い渡さなければならない。




 「子どもさえできたなら、ジョゼフィーヌとは離婚しないのに」

ため息を付きながら、ナポレオンは、オルタンスに言った。

 オルタンスは、ジョゼフィーヌの二人の連れ子のうち、下の妹である。ナポレオンが最もかわいがっていた弟、ルイと結婚し、オランダ王妃となっている。


 ナポレオンは、もし自分に子ダネがないのなら、彼女と弟ルイとの間の子、ナポレオン・シャルルに譲位してもいいとさえ思っていた。だが、この子は、5歳で亡くなっていた。その下のナポレオン・ルイは、シャルルほど聡明でないように見えた。不幸にも、自分の弟に似てしまったらしい。そのまた下の子は、まだ生まれたばかりだ。


 そして、認めたくなかったのだが、どうやら、オルタンスとルイとの夫婦仲は、険悪なものであるという。非は、多分間違いなく、弟にある。オルタンスは、よく3人も産んでくれたものだ。それも、男の子ばかり。


 ナポレオンは、上目遣いに彼女を見やった。

 「帝国にとって、『正当な』跡継ぎが大切なことは、よくわかるだろう? なあ、オルタンス。ジョゼフィーヌに話してくれないか」

「何をですか?」

「俺との離婚を、だよ」


 オルタンスは仰天した。

 言うに事欠いて、義父は、何を言い出したのだろう。ジョゼフィーヌは、自分の母親なのだ。

「いやです」

きっぱりとオルタンスは断った。


 母はあなたを愛している、とオルタンスは言い切った。

「それに、今、母は体調を崩しています。こんな時に、そんな残酷なこと……」

「じゃ、いつならいいんだ?」

 ナポレオンは食い下がった。

「この先、フランスの皇帝として、新たな講和が控えている。ドイツの君主たちをもてなさなければならない。傍らに皇妃が必要なのだ」


 ……皇妃なら、わが母がいるでしょう。

 オルタンスは危ういところで言葉を飲み込んだ。

「とにかく、私の口からは言えませんから」

きっぱりと彼女は、義父に言い渡した。





 ……やっぱり女はダメだ。

 足音荒くオルタンスが退出すると、ナポレオンは思った。

 ……男の気持ちは、男にしかわからない。


 ナポレオンはウジェーヌを呼ぼうと思った。ウジェーヌ……オルタンスの兄で、やはり、ジョゼフィーヌの連れ子である。

 彼は、イタリアの副王としてミラノにいた。対オーストリア戦では、ヨーゼフ大公軍を撃破しナポレオン軍と合流、よく戦った。ナポレオンは彼に、絶大な信頼を抱いていた。

 だが、ことはすでに水面下で進行している。その上、冬のさなか、彼が、短期間でイタリアから到着できる見込みはない。



 仕方なく、ナポレオンは自ら、ジョゼフィーヌに別れを切り出した。

 ジョゼフィーヌは、カーペットに倒れ伏して嘆き悲しんだという。



 ナポレオンには、彼女の悲嘆が理解できなかった。ジョゼフィーヌはあくまで、彼の同志だった。夫婦の仲が解消されようと、その絆に変わりはない。


 「ジョゼフィーヌを右に、新しい皇妃を左に従えて、公式の場に出るつもりだ」

二人の連れ子に、ナポレオンは説明した。


 ……何を言っているのだ、この継父オヤジは。

 オルタンスとウジェーヌは顔を見合わせ、猛反対した。

「私たちは母に従って隠遁するつもりです」

さらにウジェーヌが追い打ちをかけた。


 ナポレオンは、ぎょっとした。

 二人がいなくなるなどとということは、かけらも考えたことがなかったのだ。

 ナポレオンは、全力で二人を慰留し、彼らの母親の暮らしを保証した。

 借金は帳消しにされ、多額の年金が支給される。マルメゾンに城が与えられて、皇后の称号も保持することを許された。





 結婚……特に宗教上の結婚……では、ピウス7世教皇に諭され、時間のない中、あたふたさせられ、ナポレオンは、いやな思いをした。


 だが、離婚に際しては、大した問題はないように思われた。

 皇帝ナポレオンは、さっそく、自ら定めた皇室典範の皇族離婚禁止条項を削除した。



 1809年、12月14日。

 ナポレオンとジョゼフィーヌとの結婚解消と離婚証書への署名を見るために、宮廷の全員が、テュイルリー宮殿の謁見の間に詰めかけた。

 その中には、ナポレオンの母である皇太后の姿も混じっていた。

 コルシカ出身の実直な母、レティシアは、派手で浪費家のジョゼフィーヌを、ひどく嫌っていたのだ。


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