オーストリア戦役 2
1805年のこの戦役の後、幸い、カールの部隊は、まだその大部分を残していた。弟ヨーハンの軍は、無傷で残っている。
2つの部隊を、彼は温存するつもりだった。
カールは弟ヨーハンと図って、改革に着手した。官僚的な形式主義を簡素化し、大隊を予備隊に格下げするなどして、経費削減を断行した。また、いざという時に備え、民兵を入れて、正規軍を補強した。
そんな折、兄の皇帝が、再婚した。
相手は、19歳年下の従姉妹、マリア・ルドヴィカだ。
カールの兄、フランツ帝という人は、対外的には融通の効かない堅苦しい人間ではあったが、一方で、ひどく家庭的な男だった。戦場からも、ひっきりなしに、妻に手紙を書いていた。
彼は、「妻」のいない生活に耐えられなかった。
前の妻のことをひどく愛していたにも関わらず、彼女の死後1年経たないうちに、新妻を迎えた。
前妻が死んで、すぐに新しい妻を娶るのは構わない。それが、19歳年下の従姉妹であっても、全く平気だ。
だが、カールにとって問題だったのは、それが、エステ家の人間だったことだ。
エステ家は、ナポレオンのイタリア侵攻により、モデナ公国を奪われている。マリア・ルドヴィカの父親は、「コルシカの略奪者」を呪いながら死んでいった。彼女には、ナポレオンへの憎しみが、骨の髄まで染み込んでいた。
新しい皇妃は、妻に甘い皇帝に泣きついて、ナポレオンへとの戦闘を言い募った。
ナポレオンに挑みたいのは、カールも同じだった。自分に友情を感じていようと、軍人として一目おいていようと、敵であることに変わりはなかった。
ナポレオンは、祖国の敵である。
だが彼は、傷ついた自分の部隊が完全に復活するまで、待った。そして、次の攻撃の機会を、虎視眈々と窺ってきた。
*
「軍の同志諸君。ドイツの兄弟たちは、諸君の手による救済を待ち構えている」
1809年、4月9日、大公カールの名で、オーストリア軍に、決起が呼びかけられた。
これは、フランツ帝の、弟への絶大な信頼によるものだ。
弟の非凡さを危ぶむ「忠臣」から、どのような讒言を申告されようとも、兄帝は、カールを疑うことはしなかった。
開戦すぐの、エッグミュールの戦いでは、オーストリア軍は敗北した。
二度目の首都陥落。
カールは、首都を救いに行こうとはしなかった。
ナポレオンに取り込まれたと噂され、娘ほどの年齢の兄嫁に臆病者と罵られ、ひたすら軍隊の増強に費やしたこの4年間。辛かった雌伏の時期を、無駄にはしない。
カールは、ライン河畔に残り、態勢を立て直した。
今、敵兵は、浮き橋の修繕の余念がない。川の小島、ロバウ島にできたナポレオン砦も、静まり返っている。
オーストリア軍のカノン砲が、一斉に火を噴いた。
アスペルンの戦いが始まった。
*
不意を突かれたフランス軍は、浮き足立った。一気に川まで押し戻されたかのように見えた。
フランス軍の浮き橋は、オーストリア工兵の丸太放流作戦によって、危険な状態になっている。
その上、オーストリア兵士の数は、フランス兵を凌いでいた。
ランヌ元帥とサンティレール将軍が、軍の最前線に立ち、指揮を取った。ナポレオンの信任篤い、いずれ劣らぬ名将である。
そもそも奇襲は、彼らの専売特許だった。
フランス軍はすぐに態勢を立て直した。
慌ただしく兵たちは、マスケット銃に弾をこめた。
だが、その対価は高くついた。
サン・ティレール将軍は、流れ弾に当たって即死。
ランヌ元帥は、右足に砲弾を受け、瀕死の重傷を負った。
日が暮れると、ナポレオンは、自軍をドナウ中洲の島に退却させた。
*
ランヌ元帥の右足は、手の施しようがなかった。砲弾をまともに浴び、砕けてしまっている。
「おい! 生きろ! 頼むから生きてくれ!」
駆けつけてきたナポレオンは、ランヌの体を抱きしめた。皇帝の軍服が血で赤く染まった。
ジャン・ランヌは、ナポレオンと同い年。
農家の小倅とも洗濯屋の息子とも言われる彼は、国民衛兵に志願し、最初からずっと、ナポレオンについていった。
ナポレオンにとっては、部下というより親友だった。
右足切断の緊急手術が行われた。
しばらくは小康状態を保ったのだが、傷口が悪化し、10日後に死亡した。
ナポレオンは、その体に取り縋って号泣したという。
*
退却を余儀なくされ、さらには、親友と恃む大事な部下を失い、ナポレオンは、精神的にも、深く傷つけられた。
オーストリア側の完全勝利ではない。だが、このアスペルンの戦役は、明らかに、フランス軍の敗北だった。
ナポレオンの不敗神話に初めてついた、小さな、だが、確固とした汚点である。
*
アスペルンに続くヴァグラムの戦役でも、カールの軍は、執拗にナポレオン軍を攻め続けた。
オーストリア軍が、これほど抵抗するとは、ナポレオンには、予想外だった。
砲撃開始とともに、激しい雷雨に見舞われたのも、痛手だった。出兵間際の兵がずぶ濡れになり、初手から、フランス軍の士気は下がり気味だった。
既に、イタリアからのウジェーヌ(ナポレオンの継子)の軍が、ヨーハン大公軍を打ち破り、本隊に合流していた。
だが、オーストリアの陽動作戦が功を奏し、フランス軍は、苦戦を強いられていた。
*
ウジェーヌ軍に蹴散らされたオーストリアのヨーハン大公は、近くに避難していたマリー・ルイーゼら、兄帝の妻子を迎えに行って逃した。そして自らは態勢を立て直し、今は、少し離れた場所からこちらへ向かっている。
ヨーハン軍1万2千。これの到着が、戦いの雌雄を決することは、明らかだった。
*
……やるじゃないか。
……オーストリアの、貴公子が。
肝胆相照らしたはずの仲のカール大公の(しかも彼は、本物のプリンスだった)、粘り強い攻撃は、ナポレオンを奮い立たせた。
彼に残された最後の手段は……、
……退路を、絶つ。
ナポレオンには、勝利しかなかった。
敗ける恐怖を、彼は打ち捨てた。
皇帝は、命令を下した。
フランス軍の動きは早かった。
扇形になって展開していたオーストリア軍の中央部分にくさび形となって突撃し、銃剣攻撃を仕掛けた。
すべてをこの部分にかけ、退路を絶ち、ナポレオンは全軍に、援護を命じた。
隣の戦友と肩を組み合った歩兵達が、頭を下げ、しゃにむに進んでいく。敵方の銃撃でで隣の兵が倒れれば、すぐに間を詰め、何事もなかったかのように前進していく。
オーストリアの騎馬兵が、円を描いて駆け、高い位置からフランスの歩兵を蹴散らす。すぐに、歩兵隊の背後から、竜騎兵が、全面に踊り出る……。
血みどろの争いとなった。
ついに、フランス軍は、オーストリア軍の中央突破に成功した。
*
カール大公が待ちに待った、ヨーハン大公軍の先遣隊が到着したのは、その直後のことだった。ヨーハン軍が、あと3時間早く早く到着したのなら、勝利はオーストリア軍の手にあったかもしれない。
死傷者の数は、甚大だった。
トウモロコシの実る畑に、両軍の兵士の死体が、分け隔てなく転がっていた。
*
叩いても叩いても這い上がってくるオーストリア軍に、ナポレオンは苛立ちを募らせていた。
今回は、ウィーン市街への爆撃が行われた。この爆撃のショックで、音楽家のハイドンは死期を早めたとも言われている。
夏から秋の終わりにかけてウィーンに滞在したフランス兵たちは、帰国するに当たり、見せしめに市壁の一部を破壊した。無残に積まれた瓦礫は、それから10年近く、そのままになっていた。
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