プリンスの赦し


 かつてのナポレオンの部下、マルモン元帥の講義は、ナポレオンの絶頂期に差し掛かった。

 1805年のウィーン陥落を経て、1809年のヴァグラム及びズノイモの戦い。


 「そして彼は、あなたの母上という、勲章を得たのですよ」

いたずらっぽい顔をして、マルモンは笑った。

 フランソワも微笑みを返した。



 だが、フランスの危機は、足元から始まった。大陸封鎖と天候不順による農作物の不作で、経済の悪化は、放置できないところまで顕在化した。


 民衆の不満を、戦争特需で挽回しようとするのは、最も愚かなやり方だった。


 1812年……フランソワの生まれた翌年だ……、ナポレオンは、ロシア戦役に出陣する。フランス軍は、ロシアの冬に、完敗した。


 そして、ライプチヒにおける諸国民との戦い、同盟国の、パリ進軍……。


 ナポレオン軍は、アルザス・ロレーヌ地方へ向かっていた。敵の後方から、同盟軍への補給部隊や支援部隊を断つ戦略だ。


 パリを守っていたのは、モルティエとマルモンだった。





 ナポレオンの誤算は、ふたつ、あった。

 同盟軍の標的は、ナポレオンその人ではなく、パリだったこと。

 そして、モルティエとマルモン両軍の軍事力を、過大評価していたことだ。


 フェレ・シャンプノワーズ(パリ近郊。パリの東側に位置)で、モルティエとマルモンは、オーストリア軍に破れた。この戦いで、パクト将軍率いる国民衛兵は、全滅した。


 パリでは、すぐに、摂政会議が開かれた。摂政は、ナポレオンにより、皇妃マリー・ルイーゼが任命されていた。


 最初、皇妃マリー・ルイーゼは、首都に留まることを主張した。だが、ジョゼフナポレオンの兄が、ナポレオンの手紙を持ち出し、首都を離れることになった。


 ドアや家具にしがみついていやがるローマ王フランソワを力ずくで馬車に押し込み、マリー・ルイーゼは、パリを脱出した。


 そして、コサック兵に導かれたロシア軍が、パリに進軍してきた。





 いよいよ、マルモンは、己の罪を告白する時が来た。


 共に、パリ防衛を任されていたモルティエは、最後まで、戦いぬく決意だった。

 だが、マルモンは違った。


 すでにパリには、近郊から、農民の群れが逃げ込んできた。馬車や、彼らが連れてきた家畜で、首都の道は溢れかえっていた。


 パリの労働者達に、武器が配られた。エコール・ポリテクニーク(ナポレオンがカルチエ・ラタンに移設した、パリの軍事学校。フランス国防省の下の、公立高等教育機関になって、現在に残る)の学生たちはバリケードを築き、徹底抗戦の構えだった。


 ……訓練されたロシアやプロイセンの兵士に、学生やら、パリの市民やらが、勝てるわけがない。


 マルモンは、知事やタレイランら、有力者と諮り、連合国への投降を決議した。

 抗戦派の盟友、モルティエには、一切、相談しなかった。



 1814年、3月31日、同盟軍がパリに入城し、首都は陥落した。



 この時、フランスと同盟国との間に調印されたエソンヌの降伏により、ナポレオンの抵抗は、完全に、不可能となった。





「街には、私の、皇帝陛下ナポレオンへの裏切りをなじる労働者たちの声が、満ち溢れていました。しかし、いざ、同盟軍と戦う羽目になったら、真っ先に死ぬのは、彼らなのです。パリは破壊され、フランスは、ロシアやドイツの手で、完膚なきまでに寸断されるでしょう。私は……私は、フランスは、ナポレオンと運命を同じくしていはいけないと、思ったのです」



 静寂が訪れた。

 プリンスのからの……ナポレオンの息子からの叱責を、裏切り者のラグーサマルモンは、待った。

(※ラグーザは、マルモンの爵位。裏切り者の意味でも用いられる)



 プリンスが、口を開いた。


「父は、戦いの為に。母は、平和の為に。ふたりとも、決して、パリを離れるべきではなかったのです」


 マルモンは、慚愧の念に堪えなかった。


 パリを離れたナポレオンの作戦は、失敗した。最も弱い鎖……パリ防衛マルモン自身……が、切れたからだ。


 パリを脱出した皇妃は、幼い息子を連れていた。彼は、全てを奪われ、今に至るまで、フランスに帰れずにいる。


 それでも、ラグーザマルモンは、言わずにはいられなかった。

「私は、あなたの父上を裏切りました。フランスへの愛が、名誉重んじる心を、上回ったのです」


「あなたは、悪くありません、マルモン元帥」


 その言葉は、奇跡のように降ってきた。

 マルモンが長い間待ち焦がれていた赦し……、しかも、かつて自分が裏切った帝王の息子の、口から零れ落ちた……、


「マルモン元帥。あなたはただ、情況の犠牲になっただけです」


 全身を震わせ、マルモンは、歔欷きょきした。

 プリンスは、穏やかな眼差しを、裏切り者ラグーザに向けた。青くけむった、ぼんやりとした眼差しだった。








・~・~・~・~・~・~・~・~


マルモン元帥は、この章の「マルモン元帥、裏切り者のラグーザ」に出てきた、ナポレオンの元帥です。


連合国軍との戦いで、ナポレオンがフランスを転戦する一方で、マルモンは、首都防衛を任されていました。しかし、迫り来るロシア軍を前に、彼は、いち早く、降伏してしまいます。


これにより、パリは陥落し、ナポレオンは戦い続けることができなくなりました。マリー・ルイーゼとローマ王(フランソワ)は、パリを脱出し、やがて二人は、ウィーン宮廷に引き取られていきます……。


ナポレオンはマルモンに対して怒り狂いましたが、最後には、セント・ヘレナで、彼を許しました。


マルモンは、ナポレオンの失敗を教えるという条件で、ライヒシュタット公に父の話をすることを、メッテルニヒから許されました。


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