ヴァンドームの柱のてっぺんにいた人
それは、かつてのナポレオンの部下、マルモン元帥が、ドレスデンの戦い(1813年)についての講義をしている時だった。
「
ミュラの騎兵部隊が、
ナポレオンは、遠眼鏡で、麦畑の広がる斜面の敵陣を視察していたのですが、突如として、こう叫んだのです。
『見ろ! あそこにモローがいる! 青い上着を着て、ロシア軍の先頭に立っているぞ!』
」
モローは、かつて、オーストリアのヨーハン大公を、ホーヘンリンデンで打ち破った英雄である。
しかし、ナポレオンとは、次第に疎遠になっていった。これは、日の出の勢いで出世していくナポレオンへの、モローの嫉妬が原因だったといわれる。そしてついには、ナポレオン暗殺未遂の罪(※1)に連座して、国外追放された。
それが、いつの間にか、敵国ロシアの軍に入っていたのである。
「
さすがは陛下です。距離がありすぎて、おまけに、砲撃の噴煙で、私達には、裏切り者のモローを、見分けることすらできませんでした。全く、ナポレオンの視力、聴力をはじめとする五感の鋭さには、驚嘆すべきものがあります。
モローの姿を認めるや、すかさず、陛下は命令を下しました。
『砲撃手、位置につけ! 照準を合わせろ。……撃て!』
」
フランソワは、身を固くして、話を聞いている。ほとんど、息をするのも忘れてしまっているようだ。
「
6門の大砲が、いっせいに、火を吹きました。
『モローのやつ、倒れたぞ』
再び遠眼鏡を目に当て、陛下は、つぶやきました。
この時の砲撃は、モローの足を吹き飛ばし、モローはプラハに護送され、そこで死にました。
」
ほうーっと、長い吐息を、フランソワが漏らした。
「ロシア軍になんか入るからです」
マルモンについてきた補佐官が、口を極めて罵倒した。
ドゥ・ラ・ルイという名の、男爵だ。
「ペルナドットもそうだ。どうしてみんな、ロシアに寝返ろうとするんだろう」
フランスの将校から、スウェーデン王となったペルナドットは、ナポレオンが没落すると、フランスの王位を狙った。
「ペルナドットの場合は、スタール夫人の陰謀だったといわれている。彼女は、はるばるロシアまで行ってアレクサンドル帝に謁見した。そして、その足でスウェーデンに赴き、ロシア皇帝との連絡役を務めたんだ」
フランスの有名な文化人、スタール夫人の後押しもあり、ペルナドットは、ロシア皇帝に取り入った。
しかし、タレイランら、フランス側の抵抗により、ペルナドットのフランス王即位の野望は、あえなく潰えた。
スタール夫人の名を口にした時、マルモン元帥の顔が、苦々しげに歪んだ。
「少なくとも我々は、スタール夫人の夫でなかったことを、神に感謝すべきだ(※2)。彼女は、ナポレオンに言い寄って袖にされると、反対に、彼を激しく憎むようになったのだから」
「ああ、その話なら聞いたことがあります。二人の天才(注:ナポレオンとスタール夫人自身)が結ばれることは、フランスの国益になる、とか言って、ナポレオンの入浴中に、押しかけてきたとか」
ドゥ・ラ・ルイが、下卑た笑いを浮かべた。
「それでナポレオンは、彼女の胸の辺りをわざとじろじろ見て、言ったんでしょう? 『おや、マダムは、母乳で子育てされたんですな』」
何度も繰り返してきた
ふと、ドゥ・ラ・ルイが横を見ると、フランソワが、視線を宙に浮かせていた。
「殿下?」
呼びかけられて、フランソワは、ドゥ・ラ・ルイに目を移した。
「ごめんなさい。ぼんやりしてしまって。ロシアとフランスの、軍の規律について、考えていました」
「軍の規律?」
「ええ。ロシアでは、将校を罰せようとすると、その身分を、一兵卒に貶めるといいます。しかし、フランスでは……」
両手をぎゅっと握りしめた。
「フランスでは、
「あなたは、竜騎兵として、フランスへ帰りたいのですね?」
マルモンが尋ねた。
「僕は、フランスの為に戦いたいのです。父のように、軍務から、身を起こしたい」
フランソワは答えた。
*
間もなく、ドゥ・ラ・ルイが、本国へ帰ることになった。
急な帰国だった。慌ただしい別れの挨拶が、ライヒシュタット公と、ルイ男爵の間で取り交わされた。
最後に、ドゥ・ラ・ルイが、言った。
「もし殿下がパリへ赴任される際は、ぜひ、連絡を下さいね! さんざん、よくして頂いたんです。あなたの連隊のお世話を、今度は、私が、させて頂きます」
ごく軽い口調だった。単なる社交辞令のつもりだったのだろう。
だが、マルモン始め、居合わせた人々は凍りついた。
プリンスが、ウィーンから出してもらえないのは、周知の事実だからだ。
その場を救ったのは、プリンス自身だった。明るい、生き生きとした口調で、彼は言った。
「パリ? よろしく頼みます。僕はパリには、知り合いがいませんからね。ヴァンドーム広場の柱のてっぺんにいた人くらいしか、知ってる人は、いないんです」
パリのヴァンドーム広場は、フランスのルイ14世の栄光を称える為に造られた。当初、広場には、ルイ14世の騎馬像が置かれていた。これは、フランス革命の折に、壊された。
空いた場所に、ナポレオンが、ローマのトラヤヌス記念柱(トラヤヌス帝の戦勝を記念した柱)を模して、巨大な柱を建てた。
1805年のアウステルリッツでの勝利を記念して建てたもので、連合軍から奪い取った1250門の大砲を原料に加えているという。柱のてっぺんには、ローマ皇帝の衣装を着た、ナポレオン自身の像が据えられた。(※3)
フランソワが言った、「ヴァンドーム広場の柱のてっぺんにいた人」とは、まさしく、彼の父、ナポレオンのことなのだ。
なごやかな雰囲気のうちに、マルモンとドゥ・ラ・ルイは、宮殿を後にした。
2日後。出立の為、ドゥ・ラ・ルイが馬車に乗り込もうとした時……。
ディートリヒシュタイン伯爵(プリンスの家庭教師)が、現れた。
彼は、プリンスからの手紙を携えていた。
手紙には、よい旅を、という挨拶とともに、こう、付け加えられていた。
「
ヴァンドームの柱をご覧になったら、僕の、心からの敬意を伝えて下さいませんか?
」
*
……これで、フランスの奴らは、プリンスに対する認識を改めるだろう。
彼の怒りは、消えなかった。
7月革命の折に流された噂……プリンスに、発達上の障碍がある、などという、非礼極まる悪辣な中傷……。
それは、幼い頃からプリンスのそばにいた家庭教師には、許し難いものだった。
歪んだ教育により、ナポレオンの息子が、その能力を刈り込まれてしまった、などという中傷は、悪意ある中傷以外の、何物でもない。
……いずれ、マルモン元帥の口からも、プリンスがいかに聡明で、ウィットに富んでいるか、いかに凛々しく礼儀正しい貴公子であるかが、伝わるであろう。
既にプリンスは、社交界にデビューしている。彼が完璧な貴公子であることは、各国の貴族や大使から、ヨーロッパのあちこちに広められていくことだろう。
だが、ディートリヒシュタインには、待ちきれなかった。せっかく
……そうすれば、フランスの馬鹿どもにも、わかるだろう。将来、フランスを治めるべきは、うちの殿下をおいて、他にない、ということが。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
※1 ナポレオン暗殺未遂の罪
オペラ座に行こうとしたナポレオンの馬車を、爆破しようとした事件がありました。
モローは、王党派のピシュグリ将軍が関与したという証拠の書類を手に入れました。しかし、それを政府に提出するのを、故意に遅らせたといいます。
これによりフランスを追放されたモローは、新大陸に渡りました。その後、ロシア皇帝アレクサンドル2世の招きで旧大陸に戻り、元帥として、ロシア陣営に加わっていました。
なお、爆破事件でナポレオンが難を免れたのは、妻ジョセフィーヌの化粧に時間がかかったせいだとも、言われています。
※2 スタール夫人の夫ではなかったことを、神に感謝
ナポレオンのコルシカの遠縁者の、ポッツォ・ディ・ボルゴが、同じ意味のことを言っているのを、お借りしました。マルモン元帥の言葉ではありません。
※3 ヴァンドームのナポレオン像
もともと、ルイ14世の像のあった、ヴァンドーム広場。これは、革命で、壊されてしまいます。
その跡地に、ナポレオンが建てた柱と、自らの像。
しかし、ナポレオンが没落すると、ヴァンドームの、柱の上のナポレオン像は、下ろされて、壊されてしまいます。ブロンズは再利用され、アンリ4世像(16世紀半ば~17世紀初)に作り変えられました。アンリ4世像は、セーヌ川に架る橋、ポン・ヌフに置かれました。
柱は、そのままです。連合国からぶんどった大砲からできている柱は、フランス軍の勝利の記念碑なので。
ですから、今(1831年初め)の時点で、ヴァンドーム柱の上は、無人です。ここのところ、ちょっと、お含みおき下さい。
なお、無人となったヴァンドームの柱のてっぺんですが、その後、ルイ・フィリップ(7月革命で即位した、新王)により、再び、ナポレオン像が据えられました(完成は、翌年、1832年夏。一説には、1833年夏とも)。しかしそれは、かつての、威風堂々たるローマ皇帝姿のナポレオンではなく、伍長姿の、しかも、チビのナポレオン像でした。
ナポレオン人気にあやかろうとうとする、ルイ・フィリップの小賢しい知恵でしょう。ルイ・フィリップは、皇帝ナポレオンではなく、軍人ナポレオンを強調したのです。
話はまだあって、時は流れて、第二帝政時代。ナポレオンの甥、ナポレオン3世(オルタンスの3男です)の命により、チビ伍長は、再び、堂々としたナポレオン像に造り変えられます。
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