爪がきれいだ


 「プリンス! ナンディーヌのところへ行きますよ!」

イタリアの騒乱も収まった頃、何食わぬ顔をして、モーリツが訪ねてきた。

「いや、せっかくだが、モーリツ。僕は今、そんな気には……」



 F・カール大公主催の狩りは、フランソワの気鬱を晴らしたかのように見えた。しかし、全体で10匹ほどのキツネを狩ったに過ぎず、フランソワに至っては、ウサギを1羽、仕留めただけだった。

 おまけに、強い火薬と弾丸の詰め込み過ぎで、手先に火傷まで負ってしまった。


 せっかく戸外へ出たのに、狩りは、逆効果だったようだ。フランソワには、憂鬱な日々が続いていた。



 ずかずかと、モーリツが、部屋の中に入ってくる。

「お出かけです、プリンス。さっさと支度して!」

「いやだ。今日は、本を読んで過ごすんだ」

「ダメです。ナンディーヌがお待ちかねです。あなたを連れて行かないと、僕が叱られます」


 強引に、プリンスの腕を取った。

「閉じこもってばかりじゃ、不健康です。踊りに行きましょうよ」

「君が一緒なら」

しぶしぶ、フランソワは同意した。







 「昨夜はどちらへ? シュペルルですか?」

 髪に寝癖のついたフランソワに、訪ねてきたプロケシュ少佐が尋ねた。


 シュペルルは、流行のダンスホールだ。だが、その客層はさまざまで、あまり品のいいホールとは言えない。


「まさか」

フランソワは首を横に振った。寝不足で、むくんだ顔をしている。

「ゆうべは、遅くまで部屋で、本を読んでいました」

「ほう。本を」

嘘であることは、一目瞭然だった。


「本当です!」

むきになってフランソワは叫んだ。

「僕は、バイロン卿の詩を読んでいて……」

「詩だったら、簡単に区切りをつけることができるでしょう。徹夜で読むことはないと思いますよ」


しまったという色が、フランソワの顔に浮かんだ。


 「プリンス、」

改まった口調で、プロケシュは呼びかけた。

「ナンディーヌ・カロリィ嬢とのお付き合いは、私は全く、賛成できません」


 紅茶を啜っていたフランソワの手が、ぴたりと止まった。

「なんで?」

「なんで? 彼女は、モーリツ・エステルハージの知り合いでしょう?」


 それだけで、充分、信用できない。

 だが、フランソワは違ったらしい。


「だから、安心なんです。初めて会った時、僕は、彼女とは、どこかで会ったような気がしたんです。モーリツと話していて、思い出しました。前に、オペラ劇場で会ったんでした。彼女は、モーリツと一緒でした。僕は、ゾフィー大公妃と一緒で……」(※ 4章「奥様?」ご参照下さい)



 プロケシュは、ため息をついた。

 プロケシュとて、この年若い親友が、女性と付き合うことに反対ではない。

 むしろ、賛成だ。


 だが、皇帝の孫で、ナポレオンの息子。

 どのような悪辣な女の手にひっかかるか、わかったものではなかった。

 ましてや、謹厳な家庭教師の教育で、純粋培養された貴公子である。

 彼を落とすのは、容易だと思われた。


 ……冗談じゃない。


 ディートリヒシュタイン伯爵は、役に立たなかった。いつもは口やかましいこの家庭教師は、ウィーンの社交は健全だと、平然としていた。


 ……年寄りに、若者のことがわかるものか。

 大事な友人を守るのが、自分の務めだと、プロケシュは決意した。


 それとなく、プロケシュは、ナンディーヌのことを調べてみた。

 プリンスが、(多分)、心を惹かれた女性……。

 どことなくエキゾチックな顔立ちの、かわいらしい令嬢だ。


 ……とても善良な女性です。

 プリンスは、大真面目な顔をして語っていた……。


 だが、プロケシュには、退屈で、知的にも情感的にも、底の浅い女性だと思えた。

 とてもではないが、プリンスにふさわしいとは思えない。


 どちらかというとプロケシュは、グスタフの推すペシェ女優の方が、まだましだと思っていた。

 プリンスの、(間違いなく!)最初の、恋のアバンチュールの相手としては。


 舞台に立つには、それなりの知性と教養がなければならない。情感溢れる性格でないと、観客の感動を引き出すことはできない。

 満点とはいかないまでも、ペシェは、まあ及第だと思われた。


 ……女優なら、まさか、結婚までは考えないだろうし。


 その点、ナンディーヌ・カロリィは、問題だった。

 彼女は、伯爵令嬢だ。



 「お立場を考えなさい、プリンス。どんな些細な言動も、蔑ろにしてはいけません。ギリシア王やベルギー王にその名が取り沙汰され、ヨーロッパ社交界にデビューされた今、世界の目は、貴方に据えられているんですよ? いずれ、あなたには、一流の女性、本物のお相手が現れるはずです。恋をなさるのは、それまで、待つべきです」


 言葉を尽くして、この年少の友を説得した。

 神妙に、フランソワは頷いた。







 初めて会った時から、フランソワは、ナンディーヌを気に入ったようだった。


 ……当たり前だ。

モーリツ・エステルパージは思った。


 プリンスが、どのような女性に惹かれるか。

 好みは、入念にリサーチしてある。東洋系の、エキゾチックな顔立ちの女性が、好みなのだ。少し、年上の方が、良いのかも知れない。


 外見については、モーリツは、自信があった。だが、内面までは、知らない。

 なにせ、プリンスは、女性の話に殆ど乗ってこないのだ。わかるわけがない。

 モーリツとしては、女性とすれ違ったほんの僅かな時間に、彼の目線を追い、判断するしかなかった。


 ……ま、内面なんて、どうでもいいか。


 とにかく、プリンスに女性をあてがうことが、最重要課題だった。



 カロリィ家は、モーリツのエステルハージ家と同じく、ハンガリー系の貴族だ。ナンディーヌの母は、女帝マリア・テレジア時代に宰相を務めた、カウニッツ家の出身である。

 家柄としても、申し分ないと思われた。



 ……彼には、女優なんかじゃ、ダメなんだ。

 ペシェを推すグスタフ・ナイペルクは間違っていると、モーリツは思った。

 ……対等に付き合える関係でないとな。



 「どうです? 彼女、素敵でしょ?」

 裸馬で、柵を飛び越えたフランソワに追いつき、モーリツは尋ねた。

 もちろん彼は、門まで迂回した。

 ようやく、プリンスの新しい馬、ハリーに追いついたのだ。

 監視のモルは、遠くで見ていて、近づいてこない。


「うん。彼女は善良だ」

 ハリーにギャロップさせ、フランソワが答えた。ハリーは、白い雄馬だ。プリンスは、心根のいい馬が好きだった。


「善良?」

「それに、いかにも彼女らしい性格をしている」


 善良はさておき、「いかにも彼女らしい性格」とは、どのようなものかと、モーリツは考えた。


 ナンディーヌは、極めて女の子らしい子だ。

 相手に合わせる協調性、気配り、そして、賑やかなおしゃべり(彼女一人がぺちゃくちゃしゃべってくれるので、プリンスは、黙って頷いているだけでよかった)。

 そういった面が、初めて女性と付き合うプリンスには、新鮮だったのだろう。


 ……なにしろ、男ばかりの中で暮らしてこられた方だからな。


 彼の身の回りには、女性の従者も、殆どいない。

 モーリツは密かに、馬上の、プリンスの顔を窺った。

 彼は、馬を操るのに、余念がない。


 ……女性の話をする時は、顔を赤らめないんだな。

 モーリツは、意外に思った。




 「でも、プロケシュ少佐は、彼女が気に入らないようだ」

 馬を降りたときのことだ。ぼそりと、プリンスがつぶやいた。


 モーリツは、笑いだした。

「いいじゃないですか! あなたは、彼女が好きなんだし! プロケシュ少佐じゃなくて!」

「僕の将来を考えると、彼女は、ためにならないと、少佐は言うんだ」

「将来? 結婚とか、そういうことですか?」

「うん」


「殿下」

フランソワに擦り寄り、モーリツは囁いた。

「今だけです。今さえ、楽しければ、それで、いいじゃないですか」

「え? だって、……」


「殿下、あなた、今、幾つです?」

大真面目で、モーリツは尋ねた。


「知ってるくせに。君より4つ下だ。20歳になった」

「その年齢で、誰一人、女性と付き合ったことがないって、まずいですよ? 僕があなたの年齢の時には、両手の指にあまるほどのアバンチュールを……」

「嘘だな」

「片手でした。それは、本当です」

「……僕は、おかしいのか?」

「そんなことはありません。ですが、このままいったら、プロケシュ少佐の言う、将来? その大事な時に、あなた、大恥かくことになりますよ?」

「なぜ!?」


 歩きかけていたフランソワが、思わず立ち止まった。

 つられて、モーリツも立ち止まる。


「誰がお相手になるか知りませんが、もし万が一、ジョゼフィーヌみたいな女性が妻になったら、どうする気ですか?」

「ジョゼフィーヌ?」



 言わずと知れた、ナポレオンの最初の妻である。6歳年上の彼女は、ナポレオンとの結婚当時、すでに2人の子を生んでいた。先夫とは離婚しているので、その後の男性遍歴も数をも知れぬ……。



「未来の妻の前で、恥、かきたいんですか?」

「……だって、それじゃ、まるで、ナンディーヌは……」

「先のことなんか、どうだっていいんです。彼女だって、まさか、あなたと、結婚までは考えてやしません」

「え? そうなの?」

「そうですとも」


 力強く、モーリツは保証する。

 フランソワは、愕然とした。


 「そうだ!」

フランソワを促し、再びそぞろ歩きつつ、モーリツは提案した。

「彼女の符丁を考えませんか?」

「符丁?」

フランソワが不審そうな顔をする。


「ええ。貴方の周りには、常に、誰かしらいますからね。人前で彼女のことを話すのは、まずい気がします」

「そうだね。ディートリヒシュタイン先生とかに聞かれたら、確かに、いやだ」

「何かいい、ニックネームはないでしょうかね。僕とあなた、二人だけに通じるような……」

「暗号みたいだね!」


 フランソワが、わくわくした顔になった。

 モーリツの、一番見たかった顔だ。


「二人だけの秘密です。何かないかな……プリンス、あなた、どうです? 彼女のこと、どう思いました?」

「どうって……さっきも言ったろ? 彼女はとても善良だ」

「善良? 却下。暗号になってない」

「女の子」

「それ、かえって、まずいでしょ……」

「ええと」


「他に印象はないんですか?」

モーリツは嘆いた。

「彼女、かわいいでしょ? 彼女と初めて会った晩、あなた、そう言ったじゃないですか。たとえば、彼女のどこに、あなたは惹かれましたか?」


「……爪が、きれいだ」

 ぼそりとフランソワがつぶやいた。無意識のうちに、先日の狩りで火傷した指を握りしめて、隠そうとする。


「爪?」

「うん。彼女の爪。小指と薬指の爪が、長く伸びていて、それが、きれいなピンク色をしているんだ。あんな美しい爪は、僕は、初めて見た」

「……そうでしたっけ?」


 ナンディーヌとは、結構長いつきあいになるが、モーリツには、心当たりがなかった。

 そして、彼女が一緒だと、フランソワは、終始、俯きっぱなしだったことを思い出した。


 ……さては、彼女の爪ばかり見ていたな。

 ……顔を見ることができずに。

 由々しき事態だと思った。



「じゃ、次に会った時、彼女の爪を、褒めてやったらいいじゃないですか」

「そんな……。女性の体の一部を褒めるなんて……」


 もじもじしている。


 ……これだ。

 ……これだから、会話にならないんだ。


 実際、ナンディーヌは、モーリツとばかり話していた。その間、フランソワは、どこ吹く風で、そっぽをむいている。


 仲介者としてモーリツは、折を見て、二人きりにしたいのだが、席を立つことすらできない。



「なら、美しい爪の秘訣をお聞きになったらどうですか?」

「え? 僕が? 僕が聞くの? 彼女に!?」

「貴方が聞くんです」

にべもない口調で、モーリツは答えた。

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