爪がきれいだ
「プリンス! ナンディーヌのところへ行きますよ!」
イタリアの騒乱も収まった頃、何食わぬ顔をして、モーリツが訪ねてきた。
「いや、せっかくだが、モーリツ。僕は今、そんな気には……」
F・カール大公主催の狩りは、フランソワの気鬱を晴らしたかのように見えた。しかし、全体で10匹ほどのキツネを狩ったに過ぎず、フランソワに至っては、ウサギを1羽、仕留めただけだった。
おまけに、強い火薬と弾丸の詰め込み過ぎで、手先に火傷まで負ってしまった。
せっかく戸外へ出たのに、狩りは、逆効果だったようだ。フランソワには、憂鬱な日々が続いていた。
ずかずかと、モーリツが、部屋の中に入ってくる。
「お出かけです、プリンス。さっさと支度して!」
「いやだ。今日は、本を読んで過ごすんだ」
「ダメです。ナンディーヌがお待ちかねです。あなたを連れて行かないと、僕が叱られます」
強引に、プリンスの腕を取った。
「閉じこもってばかりじゃ、不健康です。踊りに行きましょうよ」
「君が一緒なら」
しぶしぶ、フランソワは同意した。
*
「昨夜はどちらへ? シュペルルですか?」
髪に寝癖のついたフランソワに、訪ねてきたプロケシュ少佐が尋ねた。
シュペルルは、流行のダンスホールだ。だが、その客層はさまざまで、あまり品のいいホールとは言えない。
「まさか」
フランソワは首を横に振った。寝不足で、むくんだ顔をしている。
「ゆうべは、遅くまで部屋で、本を読んでいました」
「ほう。本を」
嘘であることは、一目瞭然だった。
「本当です!」
むきになってフランソワは叫んだ。
「僕は、バイロン卿の詩を読んでいて……」
「詩だったら、簡単に区切りをつけることができるでしょう。徹夜で読むことはないと思いますよ」
しまったという色が、フランソワの顔に浮かんだ。
「プリンス、」
改まった口調で、プロケシュは呼びかけた。
「ナンディーヌ・カロリィ嬢とのお付き合いは、私は全く、賛成できません」
紅茶を啜っていたフランソワの手が、ぴたりと止まった。
「なんで?」
「なんで? 彼女は、モーリツ・エステルハージの知り合いでしょう?」
それだけで、充分、信用できない。
だが、フランソワは違ったらしい。
「だから、安心なんです。初めて会った時、僕は、彼女とは、どこかで会ったような気がしたんです。モーリツと話していて、思い出しました。前に、オペラ劇場で会ったんでした。彼女は、モーリツと一緒でした。僕は、ゾフィー大公妃と一緒で……」(※ 4章「奥様?」ご参照下さい)
プロケシュは、ため息をついた。
プロケシュとて、この年若い親友が、女性と付き合うことに反対ではない。
むしろ、賛成だ。
だが、皇帝の孫で、ナポレオンの息子。
どのような悪辣な女の手にひっかかるか、わかったものではなかった。
ましてや、謹厳な家庭教師の教育で、純粋培養された貴公子である。
彼を落とすのは、容易だと思われた。
……冗談じゃない。
ディートリヒシュタイン伯爵は、役に立たなかった。いつもは口やかましいこの家庭教師は、ウィーンの社交は健全だと、平然としていた。
……年寄りに、若者のことがわかるものか。
大事な友人を守るのが、自分の務めだと、プロケシュは決意した。
それとなく、プロケシュは、ナンディーヌのことを調べてみた。
プリンスが、(多分)、心を惹かれた女性……。
どことなくエキゾチックな顔立ちの、かわいらしい令嬢だ。
……とても善良な女性です。
プリンスは、大真面目な顔をして語っていた……。
だが、プロケシュには、退屈で、知的にも情感的にも、底の浅い女性だと思えた。
とてもではないが、プリンスにふさわしいとは思えない。
どちらかというとプロケシュは、グスタフの推す
プリンスの、(間違いなく!)最初の、恋のアバンチュールの相手としては。
舞台に立つには、それなりの知性と教養がなければならない。情感溢れる性格でないと、観客の感動を引き出すことはできない。
満点とはいかないまでも、ペシェは、まあ及第だと思われた。
……女優なら、まさか、結婚までは考えないだろうし。
その点、ナンディーヌ・カロリィは、問題だった。
彼女は、伯爵令嬢だ。
「お立場を考えなさい、プリンス。どんな些細な言動も、蔑ろにしてはいけません。ギリシア王やベルギー王にその名が取り沙汰され、ヨーロッパ社交界にデビューされた今、世界の目は、貴方に据えられているんですよ? いずれ、あなたには、一流の女性、本物のお相手が現れるはずです。恋をなさるのは、それまで、待つべきです」
言葉を尽くして、この年少の友を説得した。
神妙に、フランソワは頷いた。
*
初めて会った時から、フランソワは、ナンディーヌを気に入ったようだった。
……当たり前だ。
モーリツ・エステルパージは思った。
プリンスが、どのような女性に惹かれるか。
好みは、入念にリサーチしてある。東洋系の、エキゾチックな顔立ちの女性が、好みなのだ。少し、年上の方が、良いのかも知れない。
外見については、モーリツは、自信があった。だが、内面までは、知らない。
なにせ、プリンスは、女性の話に殆ど乗ってこないのだ。わかるわけがない。
モーリツとしては、女性とすれ違ったほんの僅かな時間に、彼の目線を追い、判断するしかなかった。
……ま、内面なんて、どうでもいいか。
とにかく、プリンスに女性をあてがうことが、最重要課題だった。
カロリィ家は、モーリツのエステルハージ家と同じく、ハンガリー系の貴族だ。ナンディーヌの母は、
家柄としても、申し分ないと思われた。
……彼には、女優なんかじゃ、ダメなんだ。
ペシェを推すグスタフ・ナイペルクは間違っていると、モーリツは思った。
……対等に付き合える関係でないとな。
「どうです? 彼女、素敵でしょ?」
裸馬で、柵を飛び越えたフランソワに追いつき、モーリツは尋ねた。
もちろん彼は、門まで迂回した。
ようやく、プリンスの新しい馬、ハリーに追いついたのだ。
監視のモルは、遠くで見ていて、近づいてこない。
「うん。彼女は善良だ」
ハリーにギャロップさせ、フランソワが答えた。ハリーは、白い雄馬だ。プリンスは、心根のいい馬が好きだった。
「善良?」
「それに、いかにも彼女らしい性格をしている」
善良はさておき、「いかにも彼女らしい性格」とは、どのようなものかと、モーリツは考えた。
ナンディーヌは、極めて女の子らしい子だ。
相手に合わせる協調性、気配り、そして、賑やかなおしゃべり(彼女一人がぺちゃくちゃしゃべってくれるので、プリンスは、黙って頷いているだけでよかった)。
そういった面が、初めて女性と付き合うプリンスには、新鮮だったのだろう。
……なにしろ、男ばかりの中で暮らしてこられた方だからな。
彼の身の回りには、女性の従者も、殆どいない。
モーリツは密かに、馬上の、プリンスの顔を窺った。
彼は、馬を操るのに、余念がない。
……女性の話をする時は、顔を赤らめないんだな。
モーリツは、意外に思った。
「でも、プロケシュ少佐は、彼女が気に入らないようだ」
馬を降りたときのことだ。ぼそりと、プリンスがつぶやいた。
モーリツは、笑いだした。
「いいじゃないですか! あなたは、彼女が好きなんだし! プロケシュ少佐じゃなくて!」
「僕の将来を考えると、彼女は、ためにならないと、少佐は言うんだ」
「将来? 結婚とか、そういうことですか?」
「うん」
「殿下」
フランソワに擦り寄り、モーリツは囁いた。
「今だけです。今さえ、楽しければ、それで、いいじゃないですか」
「え? だって、……」
「殿下、あなた、今、幾つです?」
大真面目で、モーリツは尋ねた。
「知ってるくせに。君より4つ下だ。20歳になった」
「その年齢で、誰一人、女性と付き合ったことがないって、まずいですよ? 僕があなたの年齢の時には、両手の指にあまるほどのアバンチュールを……」
「嘘だな」
「片手でした。それは、本当です」
「……僕は、おかしいのか?」
「そんなことはありません。ですが、このままいったら、プロケシュ少佐の言う、将来? その大事な時に、あなた、大恥かくことになりますよ?」
「なぜ!?」
歩きかけていたフランソワが、思わず立ち止まった。
つられて、モーリツも立ち止まる。
「誰がお相手になるか知りませんが、もし万が一、ジョゼフィーヌみたいな女性が妻になったら、どうする気ですか?」
「ジョゼフィーヌ?」
言わずと知れた、ナポレオンの最初の妻である。6歳年上の彼女は、ナポレオンとの結婚当時、すでに2人の子を生んでいた。先夫とは離婚しているので、その後の男性遍歴も数をも知れぬ……。
「未来の妻の前で、恥、かきたいんですか?」
「……だって、それじゃ、まるで、ナンディーヌは……」
「先のことなんか、どうだっていいんです。彼女だって、まさか、あなたと、結婚までは考えてやしません」
「え? そうなの?」
「そうですとも」
力強く、モーリツは保証する。
フランソワは、愕然とした。
「そうだ!」
フランソワを促し、再びそぞろ歩きつつ、モーリツは提案した。
「彼女の符丁を考えませんか?」
「符丁?」
フランソワが不審そうな顔をする。
「ええ。貴方の周りには、常に、誰かしらいますからね。人前で彼女のことを話すのは、まずい気がします」
「そうだね。ディートリヒシュタイン先生とかに聞かれたら、確かに、いやだ」
「何かいい、ニックネームはないでしょうかね。僕とあなた、二人だけに通じるような……」
「暗号みたいだね!」
フランソワが、わくわくした顔になった。
モーリツの、一番見たかった顔だ。
「二人だけの秘密です。何かないかな……プリンス、あなた、どうです? 彼女のこと、どう思いました?」
「どうって……さっきも言ったろ? 彼女はとても善良だ」
「善良? 却下。暗号になってない」
「女の子」
「それ、かえって、まずいでしょ……」
「ええと」
「他に印象はないんですか?」
モーリツは嘆いた。
「彼女、かわいいでしょ? 彼女と初めて会った晩、あなた、そう言ったじゃないですか。たとえば、彼女のどこに、あなたは惹かれましたか?」
「……爪が、きれいだ」
ぼそりとフランソワがつぶやいた。無意識のうちに、先日の狩りで火傷した指を握りしめて、隠そうとする。
「爪?」
「うん。彼女の爪。小指と薬指の爪が、長く伸びていて、それが、きれいなピンク色をしているんだ。あんな美しい爪は、僕は、初めて見た」
「……そうでしたっけ?」
ナンディーヌとは、結構長いつきあいになるが、モーリツには、心当たりがなかった。
そして、彼女が一緒だと、フランソワは、終始、俯きっぱなしだったことを思い出した。
……さては、彼女の爪ばかり見ていたな。
……顔を見ることができずに。
由々しき事態だと思った。
「じゃ、次に会った時、彼女の爪を、褒めてやったらいいじゃないですか」
「そんな……。女性の体の一部を褒めるなんて……」
もじもじしている。
……これだ。
……これだから、会話にならないんだ。
実際、ナンディーヌは、モーリツとばかり話していた。その間、フランソワは、どこ吹く風で、そっぽをむいている。
仲介者としてモーリツは、折を見て、二人きりにしたいのだが、席を立つことすらできない。
「なら、美しい爪の秘訣をお聞きになったらどうですか?」
「え? 僕が? 僕が聞くの? 彼女に!?」
「貴方が聞くんです」
にべもない口調で、モーリツは答えた。
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