2 スウィート・フランツェン
強情さは父譲り 1
向こうから駆けてきた子どもは、レオポルディーネの前で、ぴたりと立ち止まった。
「こんにちは、叔母様」
礼儀正しく挨拶する。
……なんて可愛い。
なめらかな肌、リンゴのように丸くて赤い頬。目は、きれいな青色だ。子犬のような鼻が、とても愛らしい。唇は真っ赤で、白い歯が覗いている。髪は金色、くるくるした巻き毛が、肩まで届いている。
「こんにちは、小さなかわいいフランツ君」
腰を曲げ、レオポルディーネも挨拶を返した。
子どもは、眉をひそめた。
「フランソワ。僕の名前は、フランソワです」
断固とした口調だった。
レオポルディーネは逡巡した。
甥の名は、「フランツ」とドイツ語読みするよう、父のオーストリア皇帝から固く命じられていた。
だが、「フランツ」と呼ばれると、彼は、非常にいやそうな顔をする。
「そうよね。『フランソワ』よね。でもここは、オーストリアだから……」
「僕は、フランス人です」
きっぱりと言うと、子どもは走り去っていった。
ちなみに、今の会話は、全てフランス語である。
……強情さは、ナポレオン譲りだわ。
駆けていく小さな背中を見つめながら、レオポルディーネは思った。
彼女は、ドレスデンで、ナポレオンに会ったことがある。父とほぼ同じ年の義兄は、その場で、「妹の生活に輝きを添えるために」、パリで流行しているという服飾品を贈ってよこした。殆ど身につけられることもないまま、帽子やショール、アクセサリーなど、「パリの最新流行の」ファッションは、レオポルディーネのクローゼットの中で眠っている。
もっとも、今ではその流行も、すっかりすたれているのだろうが。
……そういえば、フランツは、オーストリアの服は着ないと言っていたわ。
毎朝、着替えの時、彼は必ず、
「これは、フランスの服?」
と聞くのだそうだ。オーストリアで作られたなどと答えようものなら、激怒して、決して袖を通そうとしない。
フランツに言わせると、ドイツ製の服は、格好が悪いということだった。
レオポルディーネにはよくわからない。やたら装飾の多いフランスの服は、動き回る子どもには実用的でないと思う。
……でも、いずれ。
……フランス人の従者がいなくなってしまったら。
政府も父の皇帝も、近いうちに、フランスからついてきた従者は全員、国へ帰すつもりでいる。
……ナポレオンがエルバ島から脱出なんかするからだわ。
その、権力への欲が、小さな息子から、わずかに残された「味方」を、引き離そうとしているのだと、彼は知っているのだろうか。
妻子を返すようにという強い要請が、ナポレオンから届いているのを、レオポルディーネは知っている。
そして、彼の願いは、決して、ロシアとヨーロッパ諸国には、聞き届けられないことも。
……お姉さまは、彼の元へ帰りたくないと、はっきりとおっしゃった。
夫婦であっても、マリー・ルイーゼとナポレオンの手紙のやり取りには、厳しい検閲が入っていた。だから、ナポレオンからの手紙が直接、オーストリアに帰った妻の元に届くことはなかった。
だが、ルイーゼがエクスへ湯治に出かけた際、あたかも嫉妬に狂った夫が出したかのように、手紙が届けられた。それは、彼女の朗読係の夫、ユロー大尉によって齎された。
手紙でナポレオンは、今すぐ、自分の元へと来るようにと、強い調子で命じていた。
当時、ナポレオンはまだ、エルバ島にいた。今から思えば、挙兵し、パリに返り咲く準備をしていたのだろう。
国民にナポレオン王国の永続性を訴えるには、皇妃と皇子の存在が必須だ。
彼は、なりふり構わず、妻子の帰還を求めた。
「なんて無思慮で自己中心的な手紙……」
マリー・ルイーゼがつぶやくのを、レオポルディーネは聞いた。
この手紙をきっかけに、マリー・ルイーゼは、夫ナポレオンに、きっぱりと背を向けた。
直接手紙を読んだわけではないが、姉の拒絶は正しいと、レオポルディーネは思う。
ナポレオンが、同盟軍に破れ、廃位を宣言した際、まがりなりにも彼には、エルバ島という領土が与えられた。また、個人財産を放棄するという条件つきではあったが、ブルボン王朝から年金が支払われることになった。
それらの交渉は、フランツ帝と、そして、カール大公ら叔父達が、水面下で粘り強く根回しし、勝ち取ったものだ。
今、レオポルディーネとマリー・ルイーゼの父、フランツ帝は、ウィーンを離れている。
ナポレオンと戦うために。
それを、最後の戦いとするために。
ただ、レオポルディーネは怪訝に思った。マリー・ルイーゼの拒絶には、強い恐怖が含まれていたのだ。
彼女が知る義兄は、少なくとも、若い妻には優しかった。
……今こそ、お父上に救いを求めよ。
パリが陥落した際、落ち延びたマリー・ルイーゼに、ナポレオンは走り書きを認めた。
息子とともに、実家のオーストリア宮廷へ避難することは、夫ナポレオンの命令でもあったのだ。
姉が何にそんなに怯えているのか、レオポルディーネにはわからなかった。彼女はまだ、ナイペルク将軍を、新しく姉につけられた護衛官だとしか、思っていなかった。
▼
「わが娘、マリー・ルイーゼを監視し、細かな言動に至るまで報告せよ。ナポレオンと接触させてはならない。その為なら、いかなる手段を講じてもかまわない」
エクス温泉でのマリー・ルイーゼの警護を命じられた際、ナイペルクは、フランツ帝直筆の手紙を受け取っていた。
……いかなる手段を講じても構わない。
この一節が、気になった。
ナイペルクの上司は、シュワルツェンベルク元帥だった。
メッテルニヒの後任としてフランス大使になり、マリー・ルイーゼへの結婚申込みを即座に受け入れて不興を買った、あの、シュワルツェンベルクである。
ナポレオンが強引に初夜に及んだ際、烈火のごとく怒り、報復を考え、メッテルニヒ夫人にやんわり諌められた……。
このような微妙な問題は自分の手には負えないと、賢くも、シュワルツェンベルクは判断した。彼は、極秘で、外相のメッテルニヒに相談した。
「やっぱり、そういうことなんじゃないのか?」
メッテルニヒは言い、シュワルツェンベルクは頷いた。
外相との密談内容を、シュワルツェンベルクは、部下に伝えた。
ナイペルクは、ミラノ在住の愛人に、早急の別れを言い渡した。
エクス温泉で始まった、ナイペルクとマリー・ルイーゼの関係は、レオポルディーネはおろか、当のフランツ帝さえ、全く知らなかった。
フランツ帝は、ただ、娘とナポレオンを接触させたくなかっただけだった。全ヨーロッパを敵に回した戦争狂の婿から、娘と孫を守りたい一心だった。
フランス人の女官長が、娘のことを、常に男を頼らなければ生きられない、と評したことももちろん知らなかった。
当時マリー・ルイーゼの身の回りにいたのは、フランス人従者ばかりだった。秘書のメヌヴァル初め、彼らには、思い至ることがたくさんあった。だが、フランス人従者が、オーストリア側の人間と接触することはなかった。
▼
ばたばたと、侍従が駆けてきた。ホーフブルク宮殿に昔からいる、ドイツ人侍従だ。レオポルディーネの姿を見ると、ぴたりと立ち止まった。
「フランツを探しているのね」
察して、レオポルディーネは言った。
面目なさそうな顔をして、侍従は頷いた。
「ええ。やっと、リネン室でお見かけしたと思ったら……」
侍従は息を切らしていた。リネン室で見つけるまでも、あちこち探し回ったのだろう。
レオポルディーネは、フランツが駆けていった方を指さした。長い廊下の先に、玄関ロビーがある。
「急いだほうがいいわね」
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