強情さは父譲り 2




 玄関ロビーに走ってきた子どもは、カール大公にぶつかって、急停止した。

 体温が高く柔らかい物体を、大公は、しげしげと眺めた。


 ……薄い金色の髪、青い目。身長は2フィート(約60センチ)もあるだろうか。子どもにしたら、しっかりした体つきをしている。少し、前歯の間が空いているな。でもこれは、すぐ生え変わるだろう。全体的にどことなく、ナポレオンと似ている。





 カールは、ナポレオンと差し向かいで数時間を過ごしたことがある。

 ウィーン占拠の際、ナポレオン自ら、敵方の総帥カールに、面会を求めてきた。


 「勇敢で、知力を兼ね備えた軍人に、一目、会ってみたかったのだ」


 ナポレオンはカールを褒め称えた。軍事の話で打ち解けはしたが、その後起こったことを考えれば、カールにとっては、迷惑な話だった。

 ナポレオンに与して、兄フランツ帝に対して謀反を企てていると、疑われたのだ。

 兄帝が、無責任な廷臣たちの噂を真に受けなかったのは、幸いだった。しかしこの時、カールは、ナポレオンの真の恐ろしさを知った気がした。


 「貴殿は、妻を娶られぬのか?」

ナポレオンは聞いてきた。

「いつ身罷るか、わからぬ身ゆえ」

カールが答えると、ナポレオンは、感極まったように頷いた。

 まさか自分の姪が、そのナポレオンの妻に所望されるとは、その時のカールは、思いもしなかった。





 掴まれた腕を、子どもは振り払おうとした。

 フランツは、普段は、決して、カールに近づかなかった。

 カールは、ナポレオンに最初に黒星をつけた軍人である。身の回りのフランス人従者の誰かから、その話を聞いたのだろう。


 ……頑固な性格は、父親とそっくりだな。

 苦笑しながら、カールは、手を離した。

 フランツは、父親が、大好きなのだ。

 戦争に明け暮れ、戦地でしか生きられない男だというのに。

 ……子どもというものは、そういうものなのかな。


 そこまで慕われる「親」というものが、カールには、ちょっと、羨ましい気がした。

 開け放たれたドアから、子どもは、まっすぐに外へ、飛び出していった。

 まるで弾丸のようだ。生き生きと、太陽の下を走っていく。とても嬉しそうに、楽しそうに。


 ……かわいいじゃないか。

 反抗的な小さな子どもは、まるで命の塊のように、カールの目に映った。





 フランツ帝の弟、カール大公は、まだ独身だった。

 44歳になる今まで、そんな話がまるでなかったわけではない。否、勇猛な軍人だった彼は、女性に人気があった。


 ……でも、自分は、受け入れてもらえなかった……。


 真珠のような肌、印象的な大きな目、すらりとした立ち姿。

 美しい、だが威厳のある幻が、浮かんで消えた。

 マリー・テレーズ。ギロチン台の露と消えた叔母、マリー・アントワネットの娘だ。

 一家でたった一人生き残った彼女は、フランツ帝に引き取られて、ウィーンにやってきた。

 7歳年下の従姉妹を娶ったらどうかと、カールは、兄帝に勧められた。

 もう、20年も前のことだ。



 「お断りになった方がよろしい」

しかし、配下の軍人が止めた。その軍人には、秘密警察で情報管理に携わる友人がいた。


「テレーズ様のお書きになった手紙です」

 部下は、くるくる巻いた紙を手渡した。

 広げてみると、紙は、白紙だった。


「何も書いてないじゃないか」

長かった幽閉生活で、従姉妹は、頭がおかしくなってしまったのかと、カールは心配になった。


 「こいつが、曲者なのです」

 部下は言うと、広げた紙を、蝋燭の火にかざした。

 わずかな熱に炙られ、薄茶色のシミが浮き出てきた。

 しみは、みるみるうちに形を整え、優美な手跡となった。


 「レモンの汁で書かれています」

部下は言った。

「こうやって、彼女は、ブルボンの連中と連絡を取り合っているのです。オーストリアの庇護を受けながら!」


 手紙には、まだ、フランツ帝から、母の財産を渡されていない、と記されていた。


「アントワネット様の残されたものは、我らが皇帝が厳重に管理なさって、テレーズ様には、いずれお渡しするとおっしゃっているのに。莫大な財産を、17歳の小娘に渡すなんて、そんな危ないことができるわけがない!」

 部下は憤慨していた。


 だがカールは、人生に絶望していないマリー・テレーズの姿勢に感銘を受けた。そして、不幸なこの従姉妹に、幸せになってほしい、と思った。

 能うるなら、自分の手で幸せにしてやりたい。



 だが、カールとマリー・テレーズの結婚話は、一向にまとまらなかった。

 オーストリアの検閲官は、マリー・テレーズ宛の手紙を、何通か手に入れた。それらには、皇帝の弟と結婚してはいけない、と書かれていた。カール大公との結婚は、フランスの利権を手に入れようとするフランツ帝の策略だというのだ。



 そうしているうちに、総裁政府下のフランスが勢力を盛り返し、カールは、再び、出陣することになった。


 出発前日の夕方、彼は、宮殿の中庭に佇む白い影を見つけた。

 マリー・テレーズだ。

 一人でいる彼女を、やっと見つけた。

 近づいてくるカールに気がつくと、マリー・テレーズは、身構えた。


 「怯えないでほしい」

カールは声をかけた。


 無骨な呼びかけに、テレーズが、わずかに微笑んだような気がした。

 勇を得て、カールは言った。長い間、彼女に言わなければならないと思っていたことを。

「救出が遅れて、本当に申し訳なかった。貴女は、恨んでいるだろうか。私達の国が、貴女のご両親と弟さんに冷淡だったと」


「いいえ」

意外にも、テレーズは首を横に振った。


 なおもカールは続けた。

「だが、憎んでおられる筈だ。貴女から家族を取り上げた者どもを」


「父に最後に会った時、」

 そう言うマリー・テレーズの声は、低くかすれていた。4年間の幽閉生活で、発声障害を起こしてしまっているのだ。

 カールは痛ましく思った。


「決して自分の復讐はしないようにと、父は言いました。あなた達は、父のことを、ぼんくらな王だと思っているのでしょうけど」

「そんなことはない」

即座にカールは否定した。


 彼の兄も、凡庸な皇帝だと、一部の臣下達に噂されている。廷臣たちが惜しむのは、彼、カールや、弟のヨーハンなのだ。

 だが、自分たちがどれだけ、兄より優れているというのだろう!


 凡庸と言われる兄は、家庭を大事にしていた。ルイ16世も、叔母のアントワネットや娘のテレーズ、息子のルイ・シャルルを、どれだけ大切に思っていたことだろう。たとえそれが、王の資質としてふさわしくなくても、子ども達にとっては重要なことだ。

 王朝の未来を担うのは、まっすぐ育った子どもたちなのだ。


 カールの強い否定に、マリー・テレーズは目を伏せた。早口に付け足す。

「母の遺書にも、決して、復讐をしようなどと思ってはいけない、と書いてありました」


 「母」という言葉が、少し、高くなった。しかし彼女の喉は、高い音を出しきることができなかった。よりいっそう、「母」という言葉はかすれた。



 「貴女の受けた苦しみに敬意を表します。貴女を、幸せにしたい」

 カールは言った。

 驚いたように、マリー・テレーズは目を見開いた。


 大きな瞳に映った自分に向かって、カールは言った。

「今からでは遅すぎると、貴女は思われるかもしれない。だが……、この私が誅してこよう。あなたの父上、母上、弟君……私の叔母と、小さな従兄弟を、むごい方法で殺したやつばらを」


 カールは、彼女の手を取った。従姉妹の手は、小さく、冷たかった。ぐったりとした魚のように、反応がない。

「だから、お願いだから、私が戦場から帰ってくるまで、待っていてくれないだろうか」


 ルイ16世とマリー・アントワネットを斬首し、テレーズの弟を幽閉中に死なせたのは、フランス人民だ。

 そのフランス軍との戦いに、明日、カールは出陣する。


 彼はより一層強く、白い手を握った。

「待っていて欲しい」


 やっと、マリー・テレーズは、自分の手を握られていることに気づいたようだった。火傷したように、カールの手から引き抜こうとした。

 いま暫くの間、カールは、その手を放さなかった。




 彼女は、彼を選ばなかった。

 マリー・テレーズが嫁したのは、母方の従兄弟カールではなく、父方の従兄弟、ブルボン家のアングレーム公だった。

 何度めかの戦闘の後、カールがウィーンへ帰ってくると、彼女はすでに、ウィーンを去っていた。




 「あっ、カール大公!」

玄関ホールへ走ってきた侍従が、息を切らせて立ち止まった。

「プ、プリンスをお見掛けになりませんでしたか?」


「外へ出ていったよ」

カールが答えると、侍従は、ぎりぎりと歯を噛み締めた。

「出し抜かれたっ! ぼ、帽子を被らず、上着も着ずに……。放っておくと、そのままのお姿で、街なかまで行ってしまわれるんです!」


「そういうことなら、早く追いかけたらどうだ?」

 侍従は飛び上がって、再び走り出した。





 やがて、ナポレオンがエルバ島に封じられると、ブルボン朝のルイ18世が、王位に就いた。マリー・テレーズの夫の伯父だ。


 マリー・テレーズの夫、アングレーム公については、様々な陰口が、ウィーン宮廷でも囁かれていた。

 妻を顧みないとか、もっと露骨に、身体的に、妻を満足させられないのだ、とか。

 彼女にふられた形になっているカール大公への、身びいきもあったのだろう。


 聞かないようでいて、そういう噂は、カールの耳にも入ってきていた。

 カールは、知っていた。彼女は、両親の雪辱の為に、ブルボン王家に嫁いだのだ。


 ブルボン家の長プロヴァンス伯(後のルイ18世。マリー・テレーズの叔父)には、子がなかった。それで彼女を、弟の息子アングレーム公にと、切望していた。

 ブルボン家の繋がりを強化し、財産を守る為だ。

 ブルボン王朝の再興。

 それこそが、彼女の悲願だった。

 ギロチンの犠牲となった両親の尊厳を取り戻すのだ。



 プロヴァンス公がルイ18世として即位して、1年もしないうちに、ナポレオンがエルバ島から脱出した。次第に兵を増やし、ついにパリに返り咲いた。

 これに対しマリー・テレーズは、反ナポレオンの強烈なキャンペーンを張った。ナポレオンは彼女のことを、「ブルボン家で唯一の英雄」と揶揄したという。


 今、彼女は、叔父ルイ18世らとともに、国外へ避難している。

 だがこれは、一時的なものだろう。

 ナポレオンの敗北は、もう間違いのないところまできていた。


 ルイ18世には子どもがいない。彼の後は、弟、アルトワ伯が継ぐ。

 アルトワ伯の息子の妻、マリー・テレーズは、王太子妃となる。


 結婚だけが女性の幸せでないとしたら、彼女は彼女なりの幸せを掴むのだと、カールは思った。





 小さなフランツは、生け垣の根本にいた。窓からカールが見ていると、子どもは、何の前触れもなく、ふっとしゃがみこんだ。

 すぐそばを、侍従が慌てふためいて走り過ぎていく。


 ……うん。子どもを持つのも悪くない。

 カールは思った。


 軍役を退いた彼に、再び、結婚話が持ち上がっていた。相手は、ナッサウ=ヴァイルブルク侯の娘、ヘンリエッテだ。


 ナポレオンがフランツの父となったのは、42歳の時だ。

 今なら、カールも間に合うだろう。




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