ウィーン会議


 エステ家のベアトリーチェ大公女は、病んでいた。

 ベアトリーチェは、皇妃マリア・ルドヴィカの母親である。


 ナポレオンのイタリア遠征により、エステ家は、領土を失った。ベアトリーチェの夫は、憤死同然の死を遂げた。


 ベアトリーチェも、娘のマリア・ルドヴィカも、ナポレオンを恨んでいた。


 だが、継子のマリー・ルイーゼと仲の良かったマリア・ルドヴィカは、ルイーゼの生んだ子、ナポレオンの息子でもあるフランツを、とても可愛がっていた。


 そんな娘の態度を、ベアトリーチェは、苦々しく思っていた。


 ハプスブルク家は、娘の婚家であると同時に、ベアトリーチェの夫の実家でもあった。彼女は、なにかと、肩身の狭いことが多かった。

 また、体の弱い娘ルドヴィカは、皇帝との間に子をなすことができなかった。それもまた、ベアトリーチェの気鬱に、拍車をかけた。


 そんな彼女に、大公のカールは、優しかった。カール大公は、皇妃マリア・ルドヴィカの、いささか直截すぎる言動をなだめ、大事に至る前に回避させる役割を果たした。

 マリア・ルドヴィカは、母親に対しても、きついもの言いが多かった。そういう時も、カール大公が間に立って、とりなしてくれた。


 カール大公は、ナポレオンとの戦いで怪我をし、全ての公務から引退していた。

 ベアトリーチェの具合が悪いと聞くと、彼は言った。

 「いい医者がいますよ。フランク先生のお弟子さんです」


 フランクというのは、オーストリア宮廷に昔からいる医師である。一時、招かれてロシア宮廷にいたこともあるが、再び、ウィーンに戻ってきていた。


「マルファッティは、町医者ですけど、腕は確かですよ」

カール大公は、太鼓判を押した。

 すっかり復調した彼は、まもなく結婚することになっていた。





 カール大公の紹介でやってきたマルファッティ医師は、細長い顔の、痩せた男だった。

 イタリアのルッカ出身の医師に、同じイタリアの大公女、ベアトリーチェは、すぐに打ち解けた。


「娘がね。辛辣なんですよ。私に、オーストリアを出て、息子のところに行け、なんて言うんです」


 ウィーン会議で、モデナ皇国は、ベアトリーチェの息子フランツに返還されることになった。

 マリア・ルドヴィカは、一時、この兄を、自分の継子マリー・ルイーゼと結婚させようと画策していた。だが、マリー・ルイーゼは、ナポレオンに配されてしまった。

 モデナ皇国がエステ家に返された今、ベアトリーチェが、夫の実家、かつ、娘の嫁ぎ先、ハプスブルク家にいる理由はない。


「でも、環境の激変は、お体に触ることもございます」

低い声が応えた。落ち着いた、医者らしい声だ。


「そうなのよ!」

久しぶりで自分を支持してくれる人に出会って、ベアトリーチェは、嬉しくなった。

「私は、すっかりウィーンになじんでしまったの。いまさらイタリアになんか、帰る気がしないわ」

「大公女がお帰りになられたら、ウィーンも寂しくなります」


「まあ!」

ベアトリーチェは、心が踊った。


 モデナへ帰れば、息子の妻から、冷たい目で見られることは、目に見えていた。それなのに、頼みの綱の実の娘は、自分を故国へ追い返そうとする。

 このところ、ベアトリーチェは、自分が、母親としての尊厳を失いつつあるように感じていた。


「せめてあのが、皇帝の子を生んでくれたらねえ。前のお妃は、10人以上も子を生んでいるのに。全くあの子は、だらしがない」


「それは、しかし、皇妃様のせいばかりとは、申されますまい」


 これこそが、ベアトリーチェが欲しかった言葉だった。

 思わず彼女は、医者の方へ、身を乗り出した。


「そうよね! 皇帝のあのお年では、もう、子は無理よね! ルドヴィカのせいばかりじゃ、ないのよ!」


 結婚して8年が経とうとしている。一向に孕まない皇妃に、心無い言葉も聞かれた。

 自分に対して当たりの強い娘とはいえ、そこは実の娘である。

 マリア・ルドヴィカには、体に欠陥があるから妊娠しないのだ、という噂は、ベアトリーチェとしても、耐え難かった。


 だがそれは、娘を、自分の延長としてしか見ていない、母親のエゴイズムでしかなかった。


 マリア・ルドヴィカは体が弱く、妊娠に耐えられないのは、本人も自覚していた。だから、前の皇妃が残した、まだ思春期の息子や娘の養育にいそしんでいた。


 それもまた、ベアトリーチェの目には、娘の優柔不断のように映って、苛立たしかった。


 マルファッティ医師が、うっすらと笑った。


「そうだわ! あなたに診てもらったらどうかしら。そうしたら、あの娘もきっと、皇帝の子を宿すことができる筈!」

「大公女。子宝は、天からの授かりものです。そればかりは、医師としても、いかんともしがたいものがあります」


 実際、マリア・ルドヴィカはその頃、妊娠どころではなかった。

 長引くウィーン会議で、責任感の強い彼女は、開催国の皇妃として、多忙を極めていた。

 会議だけではなく、饗応のパーティーや音楽会などにも参加し、女主人ホステス役を、必要以上にこなした。


 彼女は、疲弊しきっていた。

 気がつくと、こんこんと、乾いた咳が、際限もなく続いていた。





 「ねえ、お前。一度、マルファッティ先生に診てもらったら?」

その晩、ベアトリーチェが言うと、マリー・ルドヴィカは、じろりと母を見た。

「そんな時間はないと言ったじゃない。今晩も、イギリス大使夫人と、ブリッジの約束があるのよ」


「でも、マルファッティ博士は、名医よ。私はすっかり、気分がよくなったわ!」

「それは、お母様が、すっかり愚痴を吐き出したからでしょ」


ずばりと言われ、ベアトリーチェは、むっとした。


「いったい誰のせいで、私の愚痴が溜まったというんだろうねえ」

「私が妊娠しないせいなのよね」


「そうよ。お前は、皇帝に意見したりして、あれじゃ、皇帝だって……」

「余計なお世話よ。言いたいことがあれば、私は言うわ。たとえ相手が、皇帝であっても」

「そんな態度だから、子どもも授からないんですよ。もっと女らしくしなを作って、皇帝におすがりしないと」


「気持ち悪い」

マリア・ルドヴィカは吐き捨てた。


「そうやって生まれてきたのが、お前ですよ」

負けずに、ベアトリーチェも言い返した。





 確かに、マルファッティ医師にかかるようになってから、ベアトリーチェは、体調がよくなった。

 彼を侍医にしていたカール大公の結婚と併せ、マルファッティの評判は、うなぎのぼりに上がった。

 ウィーン会議に参加していた貴賓達は、評判の町医者に診察してもらおうと、彼の医院の前に列をなした。





 1815年6月9日。ナポレオンのエルバ島脱出を機に、まとまらなかった諸国も妥協を許した。ウィーン議定書が結ばれ、会議は、慌ただしく集結した。


 同18日。ナポレオンは、ワーテルローの戦いに破れた。

 彼は2度めの退位を宣言し、息子、ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョセフに譲位した。


 だが、フランスに、彼の息子はいなかった。幼いフランソワは、遠くウィーンのとばりの中にいた。


 すぐに、ブルボン家のルイ18世がパリに戻った。王政復古の時に外相だったタレイランは、首相になった。


 ナポレオンは、イギリスへの亡命を希望した。イギリスは、彼を捕虜として扱うことを表明した。

 ナポレオンは、英軍艦に乗せられ、セント・ヘレナへ流された。





 ウィーンの息子は、何も知らなかった。

 父親が敗北し、全てを失ったことも。約半月間、自分が、フランスの王であったことも。


 オーストリア政府の方針として、フランツには、ドイツ・ゲルマン風の教育を施すことが決まった。

 父親の影響からはきっぱりと切り離し、真に愛国的な、オーストリアのプリンスに育て上げるのだ。


 話す言葉は、フランス語ではなく、ドイツ語。名前も、「フランソワ」から「フランツ」に代わった。


 フランツの身の回りからは、「ナポレオン」の「N」の字のイニシャルは、全て削り取られた。同じく、鷲と蜜蜂の紋章も外された。

 日用品からも。玩具からも。

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