チビナポ
出会いは、最悪だった。
ナポレオンが、二度目の退位宣言をした数日後のことだ。
ナポレオンの息子、フランツは、4歳。
シェーンブルンから、ウィーン中心部にあるホーフブルク宮殿に連れて来られて3ヶ月半。幼い彼は、この、ウィーンに古くからある宮殿に、未だ馴染んでいなかった。
母の住居部分の応接間に連れられてきたフランツは、入り口で立ち止まった。
部屋の中には、立派な身なりをした、一人の男性がいた。
カールした硬そうな髪に、四角く縁取られた広い額。鼻筋の通った高い鼻、こちらをじろりと見た、温かみの全く感じられない目。
フランツから見たら、母の応接間に陣取った、いかつい闖入者だ。
「部屋には入らないぞ!」
フランツは喚いた。
「だって、あの侍従がいるからな!」
「殿下、あれは、侍従ではありませんよ」
付き添っていたフランス人女性が、困ったような、それでいてどこか意地の悪い喜びの感じられる声で言った。
「あの方が、殿下の新しい
*
新しい先生……女性ばかりだったフランス人教師と違って、オーストリア政府が用意したのは、いかめしい、中年の男性教師だった。
モーリツ・プロスカウ・レスリー・ディートリヒシュタイン伯爵。
音楽に関して造詣の深い彼は、ウィーン宮廷歌劇場の支配人でもあった。年齢は40歳。ナポリでナポレオンと戦った退役軍人である。規律に厳格な、堅苦しい人物であった。
彼の採用には、ゲンツと、ハーガー男爵の強い勧めがあった。
メッテルニヒの補佐役、ゲンツは、ナポレオンの息子のやんちゃぶりについて、さんざん、報告を得ていた。
なみの人間では、かつてのフランス皇帝の息子、また、オーストリアの現皇帝の孫に、厳格な態度を取ることはできないだろう。だが、ディートリヒシュタインは、公平で、妥協を許さない人物だ。彼なら、生徒から恐れられる先生になるに違いないと、ゲンツは、期待していた。
一方、ハーガー男爵は、秘密警察の長官だった。ナポレオンがエルバ島を脱出して以来、オーストリアには、あちこちに、ナポレオンの密偵が入り込んでいることに、彼は憂慮していた。
ナポレオンの使者達は、子どもを取り返そうとしている。フランス人の養育係の息子(モンテスキュー伯爵夫人の息子、アナトール)が、いい例だ。
ナポレオンは、再び破れ、遠くセント・ヘレナへ流された。だが、なお、油断はできない。熱烈なボナパルニストの存在は否定できないからだ。
密偵からの情報によると、ナポレオンの兄と妹が、ウィーンに入り込んでいるという。彼らは、栄光のナポレオン帝国のシンボルとして、「ローマ王」を必要としていた。
プリンスを、シェーンブルン宮殿から警戒の厳重なホーフブルク宮へ移すよう、メッテルニヒに進言したのも、ハーガーだ。さらに、身の回りに、常時、屈強な男性を配することを、彼は主張した。
「でも、お父様。あの伯爵は、あんまりだと思います」
その夜、フランツの母マリー・ルイーゼは、フランツ皇帝にこぼした。
「小さな子どもを託すには、適当でないというか……」
最初、ディートリッヒシュタイン伯爵は、短期雇用の予定だった。
しかし、ルイーゼの護衛官、ナイペルク将軍が、熱烈に推挙した。ナイペルクとディートリヒシュタインは、友人同士だったのだ。
ナイペルクの言う事ならと、ルイーゼは受け容れた。
この後、ディートリッヒシュタインは、フランツの家庭教師として、長く勤めることになる。
*
約2ヶ月後。もうひとりの先生が雇われた。
フォレスチ先生だ。年齢は39歳。
フォレスチもまた、軍人だった。ナポレオンとは、イタリア戦線で戦った。
退役後は、銀行家のボーズナー男爵の元で、卸売業に従事し、献身的に働いた。フォレスチはイタリア語やフランス語など、語学に秀で、数学も得意だった。皇帝の孫の家庭教師は、ボーズナー男爵の推薦によるものだ。
*
ディートリッヒシュタインの赴任当時、プリンスの身の回りに残っている主なフランス人従者は、3人だった。
スフロット夫人と彼女の娘、15歳のファニー。養育責任者のモンテスキュー伯爵夫人は既に去り、プリンスの教育は、スフロット母子に委ねられていた。
もう一人は、看護師のマム・マーチャント。プリンスが生まれた時からそばにいるマーチャントは、プリンスから、「ちゃんちゃん」と呼ばれている。
スフロット夫人によると、プリンスは、2歳の頃から、フランス語の文法と、カトリックの教義を学んできたということだった。
また、文学にも精通し、ラシーヌの戯曲やラ・フォンティーヌの童話を暗唱できる。それに、地理や歴史も既習済みらしい。
「プリンスが、どんなに上手に本を朗読するか、ご覧になったらいかが?」
スフロット夫人に言われ、もう遅い時間ではあったが、ディートリヒシュタインは、フランツの寝室へ向かった。
フランツは、髪の毛をカールしてもらっているところだった。金色の細い髪の房が掬い取られ、紙で巻かれていく。全部で40個ほど、カールを作るのだという。あのくるくるした金髪の巻き毛は、天然ではなかったのだ。ディートリヒシュタインは、半ば呆れ、半ば感心して見ていた。
「僕は、これが、嫌いなんだ!」
ディートリヒシュタインの姿が目に入ると、フランツは口を尖らせた。
「ちっちゃな女の子みたいだからな!」
メイドが慌てて、カール用の薄紙を片付け始めた。
「そのままでいい」
ディートリヒシュタイン言い、プリンスに、薄い児童書を渡した。
「読んでみなさい」
つっかえ、つっかえ、フランツは読み始めた。
その読み方は、スフロット夫人が言う「素晴らしい」朗読とは、程遠かった。
……4歳3ヶ月。
ディートリヒシュタインは思った。
……とてもじゃないが、3歳過ぎの子どもの読み方とは思えない。
母国語のフランス語でこれなら、ドイツ語はいったいどうなるのかと、不安になった。
後からわかったことだが、教えられた筈のキリスト教教義は、ごくごく初期の段階だったし、地理や歴史は、非常にあやふやなものだった。
暗唱に至っては、意味がわからず丸暗記だった。要するに、口移しの無意味な音の羅列に過ぎない。
……彼女たちの教育には、問題が多い。
ディートリヒシュタインは思った。
*
フランツは、女性に対しては、非常に丁寧だった。格下の女官に対しても、自分の先を歩くよう、へりくだる。そのくせ、男性従者が前に立つと、激怒した。
これもまた、女性にばかり教育されてきた弊害であろう。
とはいえ、彼は、心優しい少年だった。ディートリヒシュタインがみた限りでも、非常に繊細で、優しい面があった。
犬やうさぎなどの動物が、ひどく虐められているのを見ると、心をかき乱されるようだった。また、虫がヒバリに食べられているのを見て、涙を流していたこともある。
天気の良い日曜日には、気分転換を兼ねて、教師たちが、彼を、シェーンブルン宮殿に連れ出すことがよくあった。
夏の離宮のここは、庭園が非常に美しい。少し前までフランツはシェーンブルンで暮らしていたので、遊び場所も心得ている。
日曜日は、シェーンブルンの宮殿は、一般開放されていた。親に連れられた小さな子どもたちも、たくさん来ている。
転んで泣いた子がいた。
フランツが駆け寄っていく。
「ほら。これ。あげる」
持っていたお菓子を差し出した。
「……」
親が入場料を払えるくらいだから、それなりに裕福な子どもなのだろう。だが、フランツの差し出したお菓子は、その子には、立派すぎた。
戸惑ったように、口を開けたまま、フランツを見上げている。
「あげる。だから、泣いたらダメだよ」
子どもに、フランツのフランス語は通じなかった。だが、言っていることは伝わったのだろう。泥と涙で汚れた顔のまま、子どもは、フランツを見上げ、にっこりと笑った。
わらわらと、近くにいた子どもたちが集まってきた。惜しむことなく、フランツは、自分のお菓子を分け与えた。
午後のおやつは、すぐ、なくなってしまった。
「待ってて。まだ、玩具があるから!」
フランツが走ってくる。その姿を目の端に留めつつ、フォレスチは、おもちゃ箱の上に、腰を降ろした。
「先生! どいて!」
元気のいい声が言う。
「みんなに、玩具を分けてあげなくちゃ!」
「駄目だよ、フランツ君。今日は駄目だ」
「なぜ?」
青い瞳が、怪訝そうに見上げてくる。子供のおもちゃの箱の上で、フォレスチは、とても居心地が悪い。
「この間も、君は、持ってきた玩具を全部、子どもたちに配っちゃったじゃないか」
「そうだよ。自分の持っているものは、みんなと分け合わなくちゃ、いけないんだ」
「いや……まあ、そうなんだけど」
たじたじと、フォレスチは言い澱んだ。
「オーストリアの宮廷はね、そんなに裕福じゃないんだ。みんなに玩具をあげちゃったら、君のがなくなってしまう」
そうしたら、フランツは、何で遊べばいいんだ? この腕白小僧の気持をそらす為に、先生方には、玩具が必要だった。
フランツには、納得しかねるようだった。
しかし、おもちゃ箱の上に、先生がどっかりと腰を降ろしていたので、どうにもできない。
「チビナポ!」
不意に、鋭い声が聞こえた。
ドイツ語だ。それも、甲高く、乱暴な発音だ。
すぐに、フォレスチは身構えた。
フランツを後ろに隠すようにして、声のする方を見る。
薄汚れた子ども達……浮浪児たちだった。
いったいどこから入り込んでくるのか、親のない捨て子たちが、時折、こうして、シェーンブルンの庭園に入り込んでくる。
彼らのドイツ語は、フランツには、伝わらなかったようだ。きょとんとしている。
「やーい、チビナポ!」
3~4人はいようか。浮浪児達は、一斉に、囃し立てた。
「お前たち!」
フォレスチが怒鳴った。
大慌てで、彼らは、逃げていった。
庭園の警備を徹底するよう、管理人に厳重注意が申し渡されたのは、言うまでもない。
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