お別れ


 フランツには、エミールという、同じ年回りの「遊び友達」がいた。エミールは、マリー・ルイーゼの従僕と、お針子の間にできた子どもである。両親と一緒に、フランスからついてきた。


 このエミールも、なかなかやっかいな存在だった。



 エミールは、フランツと一緒に、ドイツ人教師の授業を受けることを許された。

 ある日、ディートリヒシュタインは、童話を読んでやっていた。


 エミールは、すぐに飽きてしまった。だが、幼い主人に遠慮してか、しばらくはじっとしていた。そのうち、耐えられなくなったのだろう、彼は、ごろごろと床を転がりだした。


 読み聞かせは、ディートリヒシュタインが、自分の子どもたちにもしてやってきたことだ。しかも、その日は、大サービスで、フランスの童話を、フランス語で読んでやっていた。

 ディートリヒシュタインにしてみたら、二人の少年へ、娯楽を提供してやっているつもりだった。


 「こらっ!」

日頃の冷静さを忘れ、ディートリヒシュタインは怒鳴った。

「いったい、誰の為に、本を読んでやってると思ってるんだ!」


「教育の為でしょ」

すかさず、フランツが答えた。



 小さな主に忠実なエミールは、毎晩、フランツのところにおやすみの挨拶に来た。

 「寝る前の『合言葉パスワード』を言いに来たよ!」

そして彼は、ガチョウの鳴くような大きな声で言うのだ

「ローマ王、ばんざーい!」


 子ども同士のたわいもない遊びの一環だということは、教師たちにもわかっていた。

 だが……。


 「皇帝、万歳。皇后、万歳」

ナポレオンがエルバ島から帰還した時に、パリの街頭では、こう、叫ばれていた。


 「ローマ王、万歳」などという「合言葉パスワード」は、とんでもないことだった。



 エミールの言動も、フランス人女性たちの影響に違いないことは、わかりきっていた。彼女たちがそばにいることは、フランツの為にならない、とディートリヒシュタインらは思った。


 フランツは、いつまでも、小さな頃の思い出を忘れなかった。相変わらずフランス語に固執し、父親の思い出を忘れない。

 フランス人従者が身近に侍り、常に、父親の話をして聞かせているからだ。


 早急に、フランス人従者たちを解雇する必要があった。


 しかし、ずっと一緒だった人たちが、全ていなくなってしまうというのはどうだろう。言葉の問題もある。ホーフブルク宮殿の従者たちは、当然、ドイツ語で会話している。プリンスはまだ、ドイツ語を理解できない。


 ディートリヒシュタインとフォレスチは迷い続けた。





 フォレスチ先生の授業の時だった。

 退屈したフランツは、椅子によじ登って遊び始めた。

 

「危ないから止めなさい」

 フォレスチ先生は言ったのだが、フランツは言うことを聞かない。果敢に、椅子の背を攻略していく。


 案の定、滑って転げ落ちてしまった。


 「だから、そういう些細な楽しみが、どんな重大な結果を招くことになるか、この際、考えてみるのも悪くな、」

フォレスチが助け起こそうとした時だった。フランツは、いきなり、フォレスチに殴りかかってきた。


 元軍人にとって、4歳児の攻撃など、何ほどのことでもなかった。

 フォレスチは無言でフランツを抱え上げ、部屋の隅に運んで行って、立たせた。


 彼には、わかっていた。


 その少し前、フランツは、スフロット夫人の娘、15歳のファニーから、しきりと何か、説教をされていた。

 幼い少年は、口答えもせず項垂れていたが、相当、ストレスを溜め込んでいるのが、見て取れた。


 ……フランスのマダム達の前では、思うがままに振る舞えないのだな。

 フォレスチは思った。

 それなら、ためらうことはない。





 その年の10月。ディートリヒシュタインとフォレスチの強い要請により、スフロット母子が解任された。


 驚いたことに、プリンスは、平静だった。泣くこともせず、極めて静かに、二人がいなくなった事実を受け止めた。



 ディートリヒシュタインらは、この際、「ちゃんちゃん」こと、看護婦のマダム・マーチャントも追い出してしまおうとした。


 「ちゃんちゃんマダム・マーチャント」は、フランツに、モンテスキュー伯爵夫人宛に手紙を書かせた事実がある。プリンスはまだ、文章を書けないので、マダム・マーチャントが、彼の小さな手を握って、書かせたのだ。


 もちろん手紙は、途中で秘密警察に取り上げられ、モンテスキュー伯爵夫人に届くことはなかった。


 もうひとつ、看過できない疑惑が、マダム・マーチャントにはあった。

 プリンスの髪を、ナポレオンに贈ったのだ。


 ウィーンからセント・ヘレナ島に植物採集に来た学者が、マダム・マーチャントから彼女の息子宛の手紙を携えてきた。

 手紙には、母から息子への贈り物として、髪の毛が同封されていた。

 細い金色の、髪の束だ。


 しかし、彼女の髪は、ごわごわしていて、黒っぽかった。

 これが、誰の髪であるかは、明らかだった。




 マダム・マーチャントは、最後に残ったフランス人女性だった。かつて「ちゃんちゃんマダム・マーチャント」は、プリンスの揺りかごを揺らす栄誉を担っていた。生まれてからずっと、プリンスに付き従っている。


 だが、今や彼女は、オーストリアにとって、危険な人物だった。

 退散願わなければならない。

 この際、フランツの身の回りから、フランス人従者を一掃しようと、先生達は、決意した。


 だがこれには、横やりが入った。

 フランツの主治医となった、優しいフランク先生が、反対したのだ。


「あまりに急激な環境の変化は、プリンスの心と体によくないよ」

老齢のこの医師は、穏やかに諭した。


 ディートリヒシュタインらは譲歩し、マダム・マーチャントは、翌年の冬まで居残った。




 マダム・マーチャントとの別れも、フランツは、平静だった。

 ある朝起きて、フランツは、「ちゃんちゃんマダム・マーチャント」がいなくなったことを知った。


 「フォレスチ先生。僕、着替えたいんです」

「ちゃんちゃん」のことは何も尋ねず、フランツは言った。

 朝の着替えは、いつも、マダム・マーチャントが手伝ってくれていたのだ。





 最後の別れは、マダム・マーチャントが去った翌月だった。

 エミール……、しかし、彼だけではなかった。


 念願のパルマ領主に封ぜられ、マリー・ルイーゼが、イタリアへ旅立っていったのだ。ナイペルク将軍が、「護衛」についた。


 エミールの両親は、二人とも、マリー・ルイーゼの従者だった。両親に連れられ、エミールもパルマへ去った。



 だが、パルマ新領主ルイーゼの息子であるフランツは、同行を許されなかった。

 パルマ領有は、マリー・ルイーゼ一代に限り、認められたものだった。息子については、何の言及もない。

 そして、メッテルニヒは、プリンスが母親に同行することを禁じた。皇帝をも凌ぐ、このオーストリアの権力者は、ナポレオンの息子が、ウィーンの外に出ることを許さなかった。




 お別れは、フランツにとっては、突然だった。


 マリー・ルイーゼは、息子が泣くのを見るのが、耐えられない、と言った。

 それで、彼には何も告げなかった。


 本当は、息子が泣き出したら、彼女の手には負えないからだ。

 かつて、しつこさに負けて、3歳の誕生日プレゼントを、誕生日前に渡してしまったことがある。自分のテーブルのお菓子も、小さな体に悪いと知りつつ、欲しいだけ与えてしまう。


 大きな声で泣き、喚き、いつまでも泣き止まない……、そうなったら、母には、お手上げだった。

 つい、一緒にパルマへ連れて行くから、と言ってしまうかもしれない。

 でもそれは、許されないことだった。




 ある朝、彼女は、眠っている息子の傍らに玩具を忍ばせ、旅立っていった。

 目を覚ましたフランツは、玩具を手に取り、母が旅立ったことを知らされた。

 教師たちが驚くほど、そして、いっそ、不安に思うほど、彼は、平静だった。




 フランツの周囲から、フランスの影は、全て、消え去った。

 母親も、姿を消した。




 この頃までに、新たにコリン先生が、教師陣に加わっていた。

 コリンは、かつて、レオポルディーネら皇帝の娘たち……フランツの叔母達……の家庭教師を務めていた。彼自身、幼い子どもがいるので、他の二人より、フランツの心に寄り添えるのではないか……祖父の皇帝の、そんな配慮が窺える。




 プリンスの身の回りは、オーストリアの侍従で固められた。彼らは、ドイツ語を使う。フランス語は通じない。

 フランツに残されたのは、3人の、オーストリア人の男性教師だけ。2人は軍人上がりで非常にいかめしく、もう1人は、着任したばかりだ。


 ある時から、フランツは、眠れなくなった。彼は、母親の残していったスカーフを、ベッドに引きずり込んだ。それをぎゅっと握りしめて、ようやく、眠ることができた。


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