プリゾナー・ローロー
ナポレオンの息子の教育は、非常に難しく、デリケートなものだった。
彼はかつて、ナポレオン帝国の継承者だった。2週間ほどの間、もちろん、形の上だけではあるが、フランス皇帝だったこともある。
だが、今は、その地位はない。母親が得たパルマの継承権は認められていないので、「パルマ小公子」ですらない。
フランツは、全く、無位無冠の少年だった。
それなのに、厄介なことに、彼は、オーストリア皇帝の孫なのだ。
フランツの教育を巡り、ディートリヒシュタインら家庭教師達と、祖父の皇帝、パルマのマリー・ルイーゼの間で、頻繁に手紙がやり取りされた。
結果、3つの方針が打ち立てられた。
・オーストリア王室の子どもとして育てること。
・ドイツ風の教育を施すこと。
・ドイツのプリンスとして扱うこと。
父ナポレオンから、極力、彼を切り離す方針が打ち立てられた。幼い心に傷をつけず、父親の思い出や、誤った価値観を払拭する。
そして、他民族国家オーストリアの、真に愛国的な青年に育て上げるのだ。
しかし、カールを止めた髪を後ろでまとめた(母のいないところで、豊かな金髪を切ってしまう勇気は、家庭教師たちにはなかった)フランツは、なかなか、手強い存在だった。
「
「おやすみ、フランツ君」
「おやすみなさい、先生」
布団に潜り、フランツは目を閉じた。
こうしていると、全くかわらいらしい、と、フォレスチは思った。母親においていかれた、かわいそうな子だ。
しかし、知らない人の中に息子をおいて、遠くパルマへ行ってしまうなんて、母親としてどんな気持ちなんだろう。幼い息子の教育を家庭教師に任せっきりで、不安ではないのだろうか。全部話すのは難しいとしても、せめて息子には、何らかの説明があってしかるべきではなかったか。
フォレスチは思い、頭を振った。
考えても仕方がない。皇族の方々には、高貴さゆえの、辛い使命というものがあるのだ。ルイーゼ様は、我々の為に、人喰い鬼の元に嫁がれた。オーストリアの犠牲になられたのだ。あの方のウィーンへのご生還は、奇跡のようなものだ。まるで、ミノタウロスの抱擁から逃れた乙女のようじゃないか……。
雇い主の子育てを批判するなど、とんでもないことだった。フォレスチは、自分もベッドに入り、目を閉じた。
すると、枕元のベルが鳴った。
プリンスが呼んでいるのだ。
慌てて飛び起き、駆けつけた。
「先生! 誰かいる!」
プリンスが囁いた。月の光で見えるその顔は、青白かった。
ナポレオンの部下か……。
一瞬、警戒感が、フォレスチに漲った。
だがここは、厳重に警護されている。部外者が入り込むことは、まず、不可能だ。
「ほら、あの本棚の陰に!」
プリンスが指さした。
本棚に近づき、フォレスチは、その後ろを覗き込んだ。
もちろん、誰もいなかった。人の気配すらない。
当たり前だ。
この部屋に侵入者がいるようでは、オーストリアの警備は崩壊していることになる。
「誰もいないよ」
「でも、つい、さっき、
ははあ。
フォレスチは思った。
寝ぼけて、いもしない幽霊でも見たのだろう。
「大丈夫だよ、フランツ君。プリズナー・ローローは、実在しない」
「でも……」
「いいからもう、寝なさい。私がすぐそばにいるから」
「はい……」
……まあ、かわいいじゃないか。お化けを見ただなんて。
微笑みつつ、フォレスチは、ベッドに戻った。
すぐにまたベルがなる。
またかと思いつつ、フォレスチはプリンスの元へ急いだ。
「お化けが出たのかね?」
「うん、窓の外から、僕を覗いてた。大きな口を開けて笑ってた!」
この部屋は、ゴシック調の装飾の施された部屋だった。小さな子どもには、怖い部屋なのかもしれない。
フォレスチは窓に近寄り、外を見るふりをした。
「誰もいないよ」
「はい、先生」
いやに素直だった。
そんなやり取りが、何度も繰り返された。
フォレスチは、睡眠不足でへろへろになってしまった。
*
「君、そりゃ、プリンスのお楽しみに付き合わされたんだ」
苦虫を噛み潰したような顔で言ったのは、ディートリヒシュタイン先生だった。
「プリンスは、君をからかって、遊んでいたんだよ。ベルを鳴らすと先生が駆けつけてくるのが、小気味よくて仕方ないんだ!」
その晩は、ディートリヒシュタインが、プリンスの部屋に泊まった。
もちろん、プリゾナー・ローローは出なかった。
ディートリヒシュタイン先生の権威と堅苦しさに、恐れをなしたのであろう。
*
謹厳実直、真面目を絵に描いたようなディートリヒシュタインにとって、フランツは、まさに、小さな暴君、秩序への反抗者に他ならなかった。
とにかく物を壊すのが好き。騒音を掻き立てるのが大好き。日々、いたずらを考えるのに余念がない。
そして彼の生徒は、怠け者だった。先生方によるドイツ語学習は、全く成果を挙げなかった。
フランツは、頑固にフランス語を使い続けた。
従者に通じなくても、平気だった。身振り手振りで、意志を通そうとする。
これは、ディートリヒシュタインには、子どもの強情さの表れとしか思えなかった。
しかし、フォレスチの考えは違った。
「あの子は、フランス語を忘れてしまうことを恐れているんじゃないかな。フランス語を忘れたら、自分がフランス人ではなくなってしまうと、信じているんだ」
「それでいいじゃないか。プリンスは、ドイツ人だ」
きっぱりと、ディートリヒシュタインは答えた。
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