年寄りの気むずかし屋

 最初、オーストリアの大叔父や叔母達にとって、フランツは、奇妙な侵入者だった。フランス語しか話さない強情な子どもは、まるで動物のような存在だった。


 どうしても、ナポレオンは、彼らの敵だった。その事実は動かせない。

 彼らは、この「コルシカの息子」に、慇懃で、よそよそしい礼儀正しさで接した。


 しかし、親のない小さな少年を受け入れるのに、時間はかからなかった。

 この少年は、彼らの姪、或いは姉であるマリー・ルイーゼに、捨てられたわけではない。しかし、彼が、ほったらかしにされ、顧みられることのない子どもであることは明らかだった。





 ディートリヒシュタインの授業は、フランツにとって、退屈だった。フランス語の授業だったのだが、文法を教え込もうとしていたのだ。

 同じ言葉が幾通りも変化するなんて、フランツにとっては、当たり前のことだった。当たり前のことに理由はいらない。


 書き取りを命じられた彼は、すぐに飽きた。

「先生、休み時間にしよう」

勝手にそう決めて、ソファによじ登った。

 このソファーは、とてもスプリングが利いていて、フランツのいい遊び道具だった。


 「いや、最低でも3ページは書いてから……」

自習の間、書類を片付けようと机に向かっていたディートリヒシュタインは、振り返って、目を剥いた。

 チンツ張りのソファの上で、フランツが飛び跳ねていたのだ。


 以前、椅子の背によじ登って落下した話は、同僚のフォレスチ先生から聞いていた。

 あの時は怪我はなかったが、危ないことには代わりはない。

「こら! 止めなさい!」


「うわーい、たかーい。たかーい」

 ディートリヒシュタインの叱責など、どこ吹く風である。

 柔らかい詰め物の上で、フランツは、夢中になって飛び跳ねている。


「ぴょんぴょんするよ」

 初めは慎重に、だが、次第に我を忘れて勢いがついていく。

「ほら、見て! ぴょーん! ぴょーん!」


「止めなさいと言っているだろう!」

 ディートリヒシュタインは、気が気ではない。


 何しろ相手は、皇帝の孫である。椅子から落ちて怪我をしました、では、すまされない。

 フランツは、靴を履いたままだ。ただでさえ、チンツ地は、つるつるしていて滑りやすいというのに……。


 ついに、フランツの右足が、ソファの縁で、ずるりと滑った。

 待ち構えていたディートリヒシュタインが、その体を受け止める。


「この、いたずら者めが!」

 叫んで、ディートリヒシュタインは、そのまま彼を抱き上げ、固い、木の椅子に座らせた。

 「先生がいいというまで、こうしているんだ。いいな!」


 すると、フランツは、啜り泣き始めた。

「どうしよう、先生。先生が、僕を抱っこできるなんて、まさかそんな……」


「はあ?」

思わず、ディートリヒシュタインは振り返った。

「私はまだ若い。君を抱きかかえるなんて、何ほどのことでもないね」


「でも、僕、言っちゃったんです」

明らかに嘘泣きをしつつ、彼は言った。

「レオポルディーネ叔母さんに。先生は、年寄りの気むずかし屋だって!」


 レオポルディーネは、マリー・ルイーゼの妹である。

 皇帝の子どもたちの中では、一番聡明で賢いと、ディートリヒシュタインの新しい同僚、コリンが言っていた。

 コリンは、彼女たちの家庭教師を勤めていたことがある。


 ディートリヒシュタイン自身も、レオポルディーネのことは、若いながらも好ましい女性だと思っていた。他の大公たちより、ずっと頭がいい。


 そのことを、フランツは知っているのだ。

 全く、油断がならない。





 ぷりぷり怒りながら、フランツの部屋を出ると、向こうから、その、レオポルディーネがやってきた。


「フランツの泣き声が聞こえたようだけど」

そわそわと、彼女は言った。


「ああ、彼なら今、謹慎中です。ソファーの上で飛び跳ねましてね」

即座にディートリヒシュタインは言った。

 甥に甘いこの年若い女性を、今、部屋に入れるわけにはいかない。


 レオポルディーネは首を傾げた。

「ソファーの上で……、それは、危ないですね。でも、小さな子どもは、じっとしていられないものじゃないでしょうか」


「彼は、私の叱責を無視したのです」


「あの、ディートリヒシュタイン先生」

普段はおとなしいこの女性が、思い切ったようにディートリヒシュタインを見据えた。

「子どもには、子どもなりの事情があるんです。私には、先生の教育は、少し、厳しすぎると思えます」


「子どもには、厳しい教育が必要です」

きっぱりと、ディートリヒシュタインは、持論を述べた。謹厳な生き方に裏打ちされた、正しい教育論だ。


 レオポルディーネは怯まなかった。

「お言葉ですが、先生。フランツは、父親とも母親とも引き離されて、今、この宮殿で、とても寂しい思いをしているんです。もっと甘やかされてもいいんじゃないかしら。ぎゅっと抱きしめたり、キスをしたり……」


「私が? 抱きしめる? あの子を?」

素っ頓狂な声を、ディートリヒシュタインは上げた。

「それでもって、キスをするですと? この私が? フランツ君せいとに?」


「そうです」

レオポルディーネは頷いた。

「彼にはそれが、必要だと思うんです」


「いやはや」

ディートリヒシュタインは頭を振った。


 頭がいいとばかり思っていたが、この女性も、馘首クビにしたフランス人女性たちと同じではないか。


「甘やかすばかりでは、子どもは育ちません。フランツは、皇帝の孫です。オーストリアのプリンスなのです。それにふさわしい教育を、彼には、受ける権利があります」


 ……この、石頭!


 そんな形に、レオポルディーネの唇が歪んだように、ディートリヒシュタインには思えた。


 重々しい口調で、彼はつけ加えた。

「私達の方針は、皇帝の方針でもあります」


「パルマのお姉さまは、どう思われるかしら」


「フランツ君の母君には、もちろん、報告書を書きます」

実直に、ディートリヒシュタインは答えた。

「彼に関することなら、どんな些細なことでも、正確な報告書を作成し、こまめにお送りしています。マリー・ルイーゼ様も、ご子息のことは、何でも知りたいとお考えでしょうからね!」


 深いため息が返ってきた。


「フランツに会わせて貰えないでしょうか」

「だめです。彼は今、謹慎中ですから」

ディートリヒシュタインは即答した。



 「ああ、皇女プリンセス

 肩を怒らせ、立ち去りかけた彼女を、ディートリヒシュタインは呼び止めた。

「私は、年寄りの気むずかし屋ではありませんから」


 固い背中が、ぎょっとしたように引き攣れた。


 ……年寄りの気むずかし屋。

 これは、フランツが言ったのではない。甥贔屓びいき皇女レオポルディーネの言葉だ。それくらい、ディートリヒシュタインには、わかっていた。






 レオポルディーネに言ったように、ディートリヒシュタインらの方針は、祖父の皇帝からの指示でもあった。

 皇帝からは、体罰を加えても良い、という許可さえ出ていた。


 大勢の弟達と共に育った皇帝は、子どもには、体罰が必要だと思っているようだった。


 その、弟たち……フランツの大叔父の一人は、黄金のムチを買ってきてやろうか、などと、フランツを冷やかしたりしていた。



 「体罰はだめだ」

だが、一番最初にこう表明したのは、ディートリヒシュタインだった。


 昔。今の皇帝の伯父君にあたられるヨーゼフ二世は、拷問を廃止された。

 拷問は、人間を尊敬することにならないというのが、その理由である。

 拷問と体罰はもちろん違うが、相手に暴力を加えるという点において、同一である。


 生徒といえど、一人の人間として尊重しなければならない。ディートリヒシュタインは、体罰を忌み嫌っていた。

 他の二人の先生……フォレスチもコリンも、ディートリヒシュタインに賛成だった。

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