年寄りの気むずかし屋
最初、オーストリアの大叔父や叔母達にとって、フランツは、奇妙な侵入者だった。フランス語しか話さない強情な子どもは、まるで動物のような存在だった。
どうしても、ナポレオンは、彼らの敵だった。その事実は動かせない。
彼らは、この「コルシカの息子」に、慇懃で、よそよそしい礼儀正しさで接した。
しかし、親のない小さな少年を受け入れるのに、時間はかからなかった。
この少年は、彼らの姪、或いは姉であるマリー・ルイーゼに、捨てられたわけではない。しかし、彼が、ほったらかしにされ、顧みられることのない子どもであることは明らかだった。
*
ディートリヒシュタインの授業は、フランツにとって、退屈だった。フランス語の授業だったのだが、文法を教え込もうとしていたのだ。
同じ言葉が幾通りも変化するなんて、フランツにとっては、当たり前のことだった。当たり前のことに理由はいらない。
書き取りを命じられた彼は、すぐに飽きた。
「先生、休み時間にしよう」
勝手にそう決めて、ソファによじ登った。
このソファーは、とてもスプリングが利いていて、フランツのいい遊び道具だった。
「いや、最低でも3ページは書いてから……」
自習の間、書類を片付けようと机に向かっていたディートリヒシュタインは、振り返って、目を剥いた。
チンツ張りのソファの上で、フランツが飛び跳ねていたのだ。
以前、椅子の背によじ登って落下した話は、同僚のフォレスチ先生から聞いていた。
あの時は怪我はなかったが、危ないことには代わりはない。
「こら! 止めなさい!」
「うわーい、たかーい。たかーい」
ディートリヒシュタインの叱責など、どこ吹く風である。
柔らかい詰め物の上で、フランツは、夢中になって飛び跳ねている。
「ぴょんぴょんするよ」
初めは慎重に、だが、次第に我を忘れて勢いがついていく。
「ほら、見て! ぴょーん! ぴょーん!」
「止めなさいと言っているだろう!」
ディートリヒシュタインは、気が気ではない。
何しろ相手は、皇帝の孫である。椅子から落ちて怪我をしました、では、すまされない。
フランツは、靴を履いたままだ。ただでさえ、チンツ地は、つるつるしていて滑りやすいというのに……。
ついに、フランツの右足が、ソファの縁で、ずるりと滑った。
待ち構えていたディートリヒシュタインが、その体を受け止める。
「この、いたずら者めが!」
叫んで、ディートリヒシュタインは、そのまま彼を抱き上げ、固い、木の椅子に座らせた。
「先生がいいというまで、こうしているんだ。いいな!」
すると、フランツは、啜り泣き始めた。
「どうしよう、先生。先生が、僕を抱っこできるなんて、まさかそんな……」
「はあ?」
思わず、ディートリヒシュタインは振り返った。
「私はまだ若い。君を抱きかかえるなんて、何ほどのことでもないね」
「でも、僕、言っちゃったんです」
明らかに嘘泣きをしつつ、彼は言った。
「レオポルディーネ叔母さんに。先生は、年寄りの気むずかし屋だって!」
レオポルディーネは、マリー・ルイーゼの妹である。
皇帝の子どもたちの中では、一番聡明で賢いと、ディートリヒシュタインの新しい同僚、コリンが言っていた。
コリンは、彼女たちの家庭教師を勤めていたことがある。
ディートリヒシュタイン自身も、レオポルディーネのことは、若いながらも好ましい女性だと思っていた。他の大公たちより、ずっと頭がいい。
そのことを、フランツは知っているのだ。
全く、油断がならない。
*
ぷりぷり怒りながら、フランツの部屋を出ると、向こうから、その、レオポルディーネがやってきた。
「フランツの泣き声が聞こえたようだけど」
そわそわと、彼女は言った。
「ああ、彼なら今、謹慎中です。ソファーの上で飛び跳ねましてね」
即座にディートリヒシュタインは言った。
甥に甘いこの年若い女性を、今、部屋に入れるわけにはいかない。
レオポルディーネは首を傾げた。
「ソファーの上で……、それは、危ないですね。でも、小さな子どもは、じっとしていられないものじゃないでしょうか」
「彼は、私の叱責を無視したのです」
「あの、ディートリヒシュタイン先生」
普段はおとなしいこの女性が、思い切ったようにディートリヒシュタインを見据えた。
「子どもには、子どもなりの事情があるんです。私には、先生の教育は、少し、厳しすぎると思えます」
「子どもには、厳しい教育が必要です」
きっぱりと、ディートリヒシュタインは、持論を述べた。謹厳な生き方に裏打ちされた、正しい教育論だ。
レオポルディーネは怯まなかった。
「お言葉ですが、先生。フランツは、父親とも母親とも引き離されて、今、この宮殿で、とても寂しい思いをしているんです。もっと甘やかされてもいいんじゃないかしら。ぎゅっと抱きしめたり、キスをしたり……」
「私が? 抱きしめる? あの子を?」
素っ頓狂な声を、ディートリヒシュタインは上げた。
「それでもって、キスをするですと? この私が?
「そうです」
レオポルディーネは頷いた。
「彼にはそれが、必要だと思うんです」
「いやはや」
ディートリヒシュタインは頭を振った。
頭がいいとばかり思っていたが、この女性も、
「甘やかすばかりでは、子どもは育ちません。フランツは、皇帝の孫です。オーストリアのプリンスなのです。それにふさわしい教育を、彼には、受ける権利があります」
……この、石頭!
そんな形に、レオポルディーネの唇が歪んだように、ディートリヒシュタインには思えた。
重々しい口調で、彼はつけ加えた。
「私達の方針は、皇帝の方針でもあります」
「パルマのお姉さまは、どう思われるかしら」
「フランツ君の母君には、もちろん、報告書を書きます」
実直に、ディートリヒシュタインは答えた。
「彼に関することなら、どんな些細なことでも、正確な報告書を作成し、こまめにお送りしています。マリー・ルイーゼ様も、ご子息のことは、何でも知りたいとお考えでしょうからね!」
深いため息が返ってきた。
「フランツに会わせて貰えないでしょうか」
「だめです。彼は今、謹慎中ですから」
ディートリヒシュタインは即答した。
「ああ、
肩を怒らせ、立ち去りかけた彼女を、ディートリヒシュタインは呼び止めた。
「私は、年寄りの気むずかし屋ではありませんから」
固い背中が、ぎょっとしたように引き攣れた。
……年寄りの気むずかし屋。
これは、フランツが言ったのではない。甥
レオポルディーネに言ったように、ディートリヒシュタインらの方針は、祖父の皇帝からの指示でもあった。
皇帝からは、体罰を加えても良い、という許可さえ出ていた。
大勢の弟達と共に育った皇帝は、子どもには、体罰が必要だと思っているようだった。
その、弟たち……フランツの大叔父の一人は、黄金のムチを買ってきてやろうか、などと、フランツを冷やかしたりしていた。
「体罰はだめだ」
だが、一番最初にこう表明したのは、ディートリヒシュタインだった。
昔。今の皇帝の伯父君にあたられるヨーゼフ二世は、拷問を廃止された。
拷問は、人間を尊敬することにならないというのが、その理由である。
拷問と体罰はもちろん違うが、相手に暴力を加えるという点において、同一である。
生徒といえど、一人の人間として尊重しなければならない。ディートリヒシュタインは、体罰を忌み嫌っていた。
他の二人の先生……フォレスチもコリンも、ディートリヒシュタインに賛成だった。
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