不運は打ち負かさなくちゃ

 ……でも、大人に接するような態度ばかりというのも、どうだろう。

 コリンは思った。


 ディートリヒシュタインから引き継ぎを受けたのは、遅番のコリン先生だった。


 優しい彼は、フランツの謹慎を解きにきた。そして、レオポルディーネ叔母さんが、お菓子を用意して待っていると、伝えるつもりだった。

 フランツがかわいそうだと、教え子のレオポルディーネに泣きつかれたのだ。


 コリン自身、ディートリヒシュタインより、もう少し、子ども寄りの教師だった。




 そっとドアを開け、コリンは仰天した。

 部屋中が、真っ白な雪に覆われている。


 いや、雪ではない。

 綿だ。

 白い綿の塊が、部屋のあちこちに散らばっていた。


 部屋の真ん中にいたフランツが振り返った。

 彼の前には、ソファーの残骸があった。見事なチンツ張りは、フランツの手で引き裂かれ、詰め物が全て、引っ張り出されていた。


「あ、先生!」

さすがにきまり悪げに、フランツは言った。

「ソファーが、破れてたの」


「それは、君が、靴を履いたまま、上で飛び跳ねたせいじゃないのかい?」

かろうじて、コリンは言った。

 綿の埃で咳き込んだ。


「違うよ!」

フランツは言い返した。

「このソファーは、古い物なんだ。だから、前にお尻が重い人が座って、破けちゃったんだ」


 そして、綿の塊を抱き上げ、ぱあーっと散らした。

 さらにひどい咳に、コリンはむせ返った。


「フランツ君。止めてくれたまえ」

「どうして?」


綿の散らばった部屋を、フランツは駆け回り始めた。細かい埃が舞い上がり、コリンに襲いかかってきた。

 喉が詰まる。息ができない。


「フランツ君!」

我を忘れて、コリンは叫んだ。


 ぴたりと、子どもは立ち止まった。

 コリンを見て、首を横に降った。


「何があろうと、平常心を失ってはいけないよ、コリン君。不運は、打ち負かさなくちゃ」





 そういうわけで、翌日になっても、フランツの謹慎は解けなかった。

 フォレスチ先生が覗いた。


「先生。ほんのちょっとだけ、散歩に出たらだめ?」

弱々しい声が問いかけてきた。


「駄目だよ」

「先生が一緒でも?」

「それも、駄目だ」


すると、フランツは甲高い声で叫んだ。

「パルマのお母様に、手紙を書いてやる!」


「いいさ。母上に、手紙を書くといいよ」

即座にフォレスチは言い返した。

「でも、フランツ君。君はまだ、私が上からペンを握ってやらなければ、字が書けないじゃないか」


 ……やった! 今日こそ、いい負かした!

 フォレスチは、達成感に酔いしれた。

 3人分の教師の、仕返しをした気分だ。


 フランツは、地団駄踏んで悔しがった。


「要らない! 先生の助けなんか要らない! 僕は、一人で手紙が書けるもん! お母様に言いつけてやるから! 先生がどんなに意地悪か、それでもって、僕がどれだけ、先生が嫌いかっ!」


 にやりと笑って、フォレスチはドアを閉めた。

 きっと今頃、律儀な同僚ディートリヒシュタインは、子どもの母親マリー・ルイーゼに、報告書を認めているだろう。


 マリー・ルイーゼもまた、教師たちの味方だった。

 子どもを置き去りにしてパルマへ行ってしまった母親は、息子の教育を、全面的に教師たちに依存していた。


 パルマからフランツ宛に、いたずらをしたら駄目、先生方の言うことをよく聞きなさい、という手紙が来るのは、時間の問題だ。


 それもどうかと、フォレスチなどは思うのだが。





 昼なのに、重いカーテンを引かれ、薄暗い部屋の中で、フランツは、半泣きだった。

 しかし、ここで泣いてはいけない。だって僕のパパは……。


 あれ?

 僕のパパは……?


 なぜ、ここの人たちは、パパの話をしないのだろう。パパの話をしようとすると、なぜ、目を背け、話をそらそうとするんだろう。


 フランツは、混乱するばかりだった。


 前にいた人たちは、そんなことは、決してなかった。あの人達は、自分に、とてもよくしてくれた。いつでも喜んで、父の話をしてくれた。

 父が、どんなに勇敢な軍人であったか。どんなに素晴らしい王であったか。


 フランツは、父の話がしたかった。

 それなのに、あの優しい人たちも、今はもう、いない。


 ……ここには僕しかいない。泣いてもいいんじゃないのかな


 その時、微かな軋みを立てて、ドアが、そっと開いた。

「へい、フランツ。迎えに来たぜ」

叔父のフランツ・カールが立っていた。


 皇帝の次男で、マリー・ルイーゼの年の離れた弟、フランツ・カール(以下、F・カールと表記)は、フランツより、9歳、年上だ。


 最初、彼は、フランス人の子どもとなんか遊べるかと言って、フランツに意地悪をした。

 でも、この頃は、そうでもない。


 皇帝の兄弟の大公達より遥かに年齢の近い、この叔父は、フランツにとって、よほど、馴染み深い相手だった。


 「なんだよ。まだ、フランス語じゃないとわからないの?」


そして、皇帝の子として、彼は、一流の教育を受けていた。フランス語が話せたのである。


「仕方ないなあ。まあ、いいや。来いよ」

 F・カールは、フランツの手を取って、歩き始めた。


 ホーフブルクの宮殿は、とても部屋数が多い。これは、歴代の皇帝が、建て増し建て増ししてきたせいだ。どうしたわけか、彼らは、決して、前の皇帝が造った部屋に住もうとしなかった。


 ルネサンス式、ゴシック式……各時代に合わせて、ホーフブルク宮殿は、まるで蜂の巣のように、複雑な造りをしていた。


 「ここだ!」

F・カールは立ち止まった。

 吹き抜けになった大広間だった。上は回廊になっていて、広間を見下ろせるようになっている。


 「間に合ったかな?」

F・カールが言うのに合わせるように、遠くの時計が鳴った。

「いいか。見てろ……」


 不意に賑やかな話し声が聞こえてきた。宮殿のメイド達が、群れをなして歩いてくる。

 これから、非番に入るのだ。


 わざわざ回廊の端に寄らなければ、彼女たちからは、下は見えない。下の広間にいる二人の少年たちは、メイドたちからは死角に入っていた。


 若い彼女たちは、お互いつつき合ったり、押し合ったり、とても楽しげだった。中には、スカートを翻して踊り出す者もいた。


 F・カールが息を飲んだ。


「ほら! 見たか?」

「?」


 いったい、何が見えたというのだろう。

 フランツには、ふわりと翻ったスカートが少し跳ね上がったのが見えただけだった。

 けれど、年の近い叔父は、非常に満足気に笑った。









【注記】

少し、人物がややこしいでしょうか。


ディートリヒシュタイン、フォレスチ、コリン の3人は、フランツの家庭教師です。


レオポルディーネ と F・カール(フランツ・カール) は、マリー・ルイーゼ(フランツの母)の妹弟です。フランツの、叔母・叔父ですね。特に、F・カールは、年齢的に、姉のマリー・ルイーゼより、甥のフランツに近いです。


なお、ハプスブルク王朝では、「大公」とは、皇帝の兄弟(及び、代替わりして、いずれ兄弟となる者)を指します。現時点での皇帝は、フランツの祖父のフランツ帝(フランツだらけでややこしいですよね。本文中は、なるべく「皇帝」ですませるようにしています)ですので、カール大公はじめ、○○大公とあったら、大叔父だな、とご判断下さい。


この辺りの家系図を、私のホームページに載せてありますので、ご参考までに。


https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#hab-bona


(ページトップは

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