不運は打ち負かさなくちゃ
……でも、大人に接するような態度ばかりというのも、どうだろう。
コリンは思った。
ディートリヒシュタインから引き継ぎを受けたのは、遅番のコリン先生だった。
優しい彼は、フランツの謹慎を解きにきた。そして、レオポルディーネ叔母さんが、お菓子を用意して待っていると、伝えるつもりだった。
フランツがかわいそうだと、教え子のレオポルディーネに泣きつかれたのだ。
コリン自身、ディートリヒシュタインより、もう少し、子ども寄りの教師だった。
そっとドアを開け、コリンは仰天した。
部屋中が、真っ白な雪に覆われている。
いや、雪ではない。
綿だ。
白い綿の塊が、部屋のあちこちに散らばっていた。
部屋の真ん中にいたフランツが振り返った。
彼の前には、ソファーの残骸があった。見事なチンツ張りは、フランツの手で引き裂かれ、詰め物が全て、引っ張り出されていた。
「あ、先生!」
さすがにきまり悪げに、フランツは言った。
「ソファーが、破れてたの」
「それは、君が、靴を履いたまま、上で飛び跳ねたせいじゃないのかい?」
かろうじて、コリンは言った。
綿の埃で咳き込んだ。
「違うよ!」
フランツは言い返した。
「このソファーは、古い物なんだ。だから、前にお尻が重い人が座って、破けちゃったんだ」
そして、綿の塊を抱き上げ、ぱあーっと散らした。
さらにひどい咳に、コリンはむせ返った。
「フランツ君。止めてくれたまえ」
「どうして?」
綿の散らばった部屋を、フランツは駆け回り始めた。細かい埃が舞い上がり、コリンに襲いかかってきた。
喉が詰まる。息ができない。
「フランツ君!」
我を忘れて、コリンは叫んだ。
ぴたりと、子どもは立ち止まった。
コリンを見て、首を横に降った。
「何があろうと、平常心を失ってはいけないよ、コリン君。不運は、打ち負かさなくちゃ」
*
そういうわけで、翌日になっても、フランツの謹慎は解けなかった。
フォレスチ先生が覗いた。
「先生。ほんのちょっとだけ、散歩に出たらだめ?」
弱々しい声が問いかけてきた。
「駄目だよ」
「先生が一緒でも?」
「それも、駄目だ」
すると、フランツは甲高い声で叫んだ。
「パルマのお母様に、手紙を書いてやる!」
「いいさ。母上に、手紙を書くといいよ」
即座にフォレスチは言い返した。
「でも、フランツ君。君はまだ、私が上からペンを握ってやらなければ、字が書けないじゃないか」
……やった! 今日こそ、いい負かした!
フォレスチは、達成感に酔いしれた。
3人分の教師の、仕返しをした気分だ。
フランツは、地団駄踏んで悔しがった。
「要らない! 先生の助けなんか要らない! 僕は、一人で手紙が書けるもん! お母様に言いつけてやるから! 先生がどんなに意地悪か、それでもって、僕がどれだけ、先生が嫌いかっ!」
にやりと笑って、フォレスチはドアを閉めた。
きっと今頃、
マリー・ルイーゼもまた、教師たちの味方だった。
子どもを置き去りにしてパルマへ行ってしまった母親は、息子の教育を、全面的に教師たちに依存していた。
パルマからフランツ宛に、いたずらをしたら駄目、先生方の言うことをよく聞きなさい、という手紙が来るのは、時間の問題だ。
それもどうかと、フォレスチなどは思うのだが。
*
昼なのに、重いカーテンを引かれ、薄暗い部屋の中で、フランツは、半泣きだった。
しかし、ここで泣いてはいけない。だって僕のパパは……。
あれ?
僕のパパは……?
なぜ、ここの人たちは、パパの話をしないのだろう。パパの話をしようとすると、なぜ、目を背け、話をそらそうとするんだろう。
フランツは、混乱するばかりだった。
前にいた人たちは、そんなことは、決してなかった。あの人達は、自分に、とてもよくしてくれた。いつでも喜んで、父の話をしてくれた。
父が、どんなに勇敢な軍人であったか。どんなに素晴らしい王であったか。
フランツは、父の話がしたかった。
それなのに、あの優しい人たちも、今はもう、いない。
……ここには僕しかいない。泣いてもいいんじゃないのかな
その時、微かな軋みを立てて、ドアが、そっと開いた。
「へい、フランツ。迎えに来たぜ」
叔父のフランツ・カールが立っていた。
皇帝の次男で、マリー・ルイーゼの年の離れた弟、フランツ・カール(以下、F・カールと表記)は、フランツより、9歳、年上だ。
最初、彼は、フランス人の子どもとなんか遊べるかと言って、フランツに意地悪をした。
でも、この頃は、そうでもない。
皇帝の兄弟の大公達より遥かに年齢の近い、この叔父は、フランツにとって、よほど、馴染み深い相手だった。
「なんだよ。まだ、フランス語じゃないとわからないの?」
そして、皇帝の子として、彼は、一流の教育を受けていた。フランス語が話せたのである。
「仕方ないなあ。まあ、いいや。来いよ」
F・カールは、フランツの手を取って、歩き始めた。
ホーフブルクの宮殿は、とても部屋数が多い。これは、歴代の皇帝が、建て増し建て増ししてきたせいだ。どうしたわけか、彼らは、決して、前の皇帝が造った部屋に住もうとしなかった。
ルネサンス式、ゴシック式……各時代に合わせて、ホーフブルク宮殿は、まるで蜂の巣のように、複雑な造りをしていた。
「ここだ!」
F・カールは立ち止まった。
吹き抜けになった大広間だった。上は回廊になっていて、広間を見下ろせるようになっている。
「間に合ったかな?」
F・カールが言うのに合わせるように、遠くの時計が鳴った。
「いいか。見てろ……」
不意に賑やかな話し声が聞こえてきた。宮殿のメイド達が、群れをなして歩いてくる。
これから、非番に入るのだ。
わざわざ回廊の端に寄らなければ、彼女たちからは、下は見えない。下の広間にいる二人の少年たちは、メイドたちからは死角に入っていた。
若い彼女たちは、お互いつつき合ったり、押し合ったり、とても楽しげだった。中には、スカートを翻して踊り出す者もいた。
F・カールが息を飲んだ。
「ほら! 見たか?」
「?」
いったい、何が見えたというのだろう。
フランツには、ふわりと翻ったスカートが少し跳ね上がったのが見えただけだった。
けれど、年の近い叔父は、非常に満足気に笑った。
【注記】
少し、人物がややこしいでしょうか。
ディートリヒシュタイン、フォレスチ、コリン の3人は、フランツの家庭教師です。
レオポルディーネ と F・カール(フランツ・カール) は、マリー・ルイーゼ(フランツの母)の妹弟です。フランツの、叔母・叔父ですね。特に、F・カールは、年齢的に、姉のマリー・ルイーゼより、甥のフランツに近いです。
なお、ハプスブルク王朝では、「大公」とは、皇帝の兄弟(及び、代替わりして、いずれ兄弟となる者)を指します。現時点での皇帝は、フランツの祖父のフランツ帝(フランツだらけでややこしいですよね。本文中は、なるべく「皇帝」ですませるようにしています)ですので、カール大公はじめ、○○大公とあったら、大叔父だな、とご判断下さい。
この辺りの家系図を、私のホームページに載せてありますので、ご参考までに。
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#hab-bona
(ページトップは
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html
)
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