キーーーーーッ



 「何をやってるの、あなたたち」

 皇妃マリア・ルドヴィカの部屋の外で、レオポルディーネは、立ち止まった。



 レオポルディーネの義母にあたるマリア・ルドヴィカは、体調が思わしくなかった。

 元々体の弱かった彼女は、ウィーン会議の無理が祟って、この頃、床に伏せている事が多かった。



 その皇妃の部屋の前で、レオポルディーネの末の弟、F・カールと、甥のフランツが、尻をこちらに向けて屈んでいた。



 「やあ、姉さん」

股の間から顔をのぞかせ、弟が言った。


「やあ……」

すかさず、幼い甥が真似をする。


「ちょっと、行儀が悪いわよ」

レオポルディーネが言うと、両足の間からこちらを見たまま、弟はせせら笑った。


「僕らは、世界を逆さまに見ているのさ」

「さかさまに……」


「なんでもいいから、フランツに変なことを教えないで頂戴」

ぴしりとレオポルディーネは言った。


 けたたましい笑い声を、F・カールはあげた。

 そして、あっという間に、階段の方へ走り去っていった。


 その後を、せいいっぱいの駆け足で、彼女の甥が追いかけていく。




 「ずいぶん賑やかねえ」

年配の女性の、しわがれた声が聞こえた。


 伯母が立っていた。ザクセン王妃だったこの伯母は、ナポレオンに領土の大半を削られ、ウィーンの実家へ帰ってきている。


「あら、伯母様」



 宮廷では、未だに、ナポレオンのことを「人喰い鬼」だと言って憚らない人たちもいた。そういう人達は、フランツにも、冷たく接していた。幼い彼を無視したり、お菓子の皿を回さなかったり。子どもじみた意地悪が、恥ずかしげもなく、平然と行われていた。


 ……フランツ自身には、何の罪もないことなのに。


 意地悪の現場に居合わせるたびに、レオポルディーネは、喉を詰まらせるほどの怒りに、体が震えた。なんとか、母親から引き離されたこの小さな甥を、自分の保護下に置こうと、身悶える思いだった。


 伯母のザクセン王妃から声をかけられ、レオポルディーネは臨戦態勢に入った。領土を奪われた伯母は、ナポレオンを、さぞや恨んでいることだろう。その子どもに、仕返ししようと思っているかもしれない!



 「あの子、本当にかわいいわねえ」

案に相違して、伯母は、目を細めた。

「ちょっとまだ、言葉がアレだけど。でもすぐ、覚えますよ。大丈夫」


「ええ、伯母様」

 拍子抜けしつつも、レオポルディーネはほっとした。父の姉を敵に回すことは、やっぱりいやだったのだ。


 そういえば、皇妃も、ナポレオンが大嫌いだった、とレオポルディーネは思い出した。でも、病床にありながら、年若い義母もまた、フランツを、とても可愛がっている。



 伯母は、遠い目をした。

「私はフランスの国が大嫌いだったけど……この頃は、そうでもないのよ。小さなフランツが、この宮殿に来てからというものね!」


「まあ!」

まるで自分のことを褒められたように、レオポルディーネは、喜びに浸った。


 なおも、伯母は続けた。

「不思議なものよね。前より、フランスが、よく見えるのよ」



「ものの見方は変わるものです。伯母様もそうですよ! 伯母様は、昔のほうが、ずっとステキでした!」

 無遠慮な、いっそ無礼なコメントが飛んできた。

 いつの間に戻ってきたのか、F・カールが、二人の婦人の、すぐそばに立っていた。



 「こっ、こらっ!」

レオポルディーネは慌てて、弟の口を封じようとした。


 姉の手を軽々と逃れ、F・カールは高笑いをした。再び、風のように走り去っていった。



 伯母は、ため息をついた。

「あの困った紳士は、小さな坊やに近づけない方がいいわね。坊やの教育上、大変、よろしくないわ」







 「キーーーーーーッ」

時ならぬ金属製の叫びが、静かな宮殿に轟いた。


 フランツの部屋からだ。



 その日、ディートリヒシュタイン先生が来てみると、フランツの部屋は、水浸しになっていた。フランツが、花瓶の水を、部屋中にぶちまけたのだ。


 彼の生徒は、床の上に、腹ばいになっていた。濡れたカーペットを押して、滲み出る水の感触を楽しんでいた。


 「なんてことを……」


 水浸しの部屋の中で冷静さを保つのは、非常に困難なことだった。

 しかし、五感を使った楽しみは、ひょっとして、子どもにとって、何か有益なことがあるのかもしれない。


 レオポルディーネに意見されてから、ディートリヒシュタインは、少し、考え方を改めていた。


 ……子どもには、子どもなりの事情がある。


 それは、ディートリヒシュタインのような大人には、もう忘れかけていた過去だった。

 子どもから大人になったばかりの、レオポルディーネくらいの人間にしか言語化できない、貴重な教えアドヴァイスだ。


 つらつら考えているうちに、真面目なこの教師は、そう、思うに至った。



 だがしかし、この部屋の状態はひどすぎた。

 なおも理性を保つ努力をしつつ、ディートリヒシュタインは尋ねた。

「こんなことをして、君に、何の得があるのだね」


 すると、彼の生徒は、なんと、彼に向けて、舌を、長く突き出して見せたのだ。


 ついに、ディートリヒシュタインはぶち切れた。

「こらっ! 野蛮な真似を! 皇族として、あるまじき態度だ!」


「キーーーーーーッ!」

金属製の叫びが湧き起こった。あまりのけたたましさに、ディートリヒシュタインは耳を塞いだ。

 音楽を愛する彼は、この種の騒音に我慢がならないのだ。


 フランツの目が、きらりと光った。


「キーーーーーーッ!」




 「何事だ」

皇帝の弟の一人、ライナー大公が姿を現した。大公は、フランツの大叔父に当たる。


「フランツ。足の具合はどうだ?」


 そういえば、2~3日前まで、フランツは足を引きずって歩いていたことを、ディートリヒシュタインは思い出した。



 自分は大きくなったから、子ども用ベッドでは小さ過ぎる、と、フランツは、主張していた。だが、教師たちの見たところ、ベッドにはまだ、十分な余裕があった。

 オーストリア宮廷では、無駄な出費は許されない。使えるベッドがあるのに、新しいベッドをあつらえるなんて、とんでもないことだった。


 するとフランツは、寝違えたふりをして、足を引きずり出した。


 初めは本気で心配してた教師たちだったが、じきにそれが、フランツの示威行動デモンストレーションだったことが判明した。

 その足では、皇帝と同じ食卓につくことはできないね、と先生の一人が言うと、彼の足は、ぴたりと治ったのだ。



「あれは仮病で……」

ディートリヒシュタイン言いかけると、ライナー大公は、じろりと睨んだ。

「仮病であるわけないだろ。随分長い間、足をひきずって歩いていたじゃないか」


「今は、すっかり治ってますよ」

「それはよかった」

言いつつ、部屋に入ってきたライナー大公は、目を瞠った。

「なんだ、この部屋は。水浸しじゃないか」



 ディートリヒシュタインは、今までの経緯を話した。


 聞き終わると、ライナー大公は、腕を組んだ。

「それは、あれだな。F・カールの仕業だ」


 F・カールは、ライナー大公の甥にあたる。フランツの年若い叔父だ。

 教え子が、いつも彼と一緒にいることを、ディートリヒシュタインも知っていた。


「いいえ、ライナー大公。部屋に水を撒いたのです」

「違うよ。舌をべー、だよ。それ、昔、F・カールがよくやってた。気に入らないことがあると」


「悪しき行いを真似たことは、プリンスの罪です」


「いや、君、君は厳しすぎるよ。幼い子が、年長の子どもの真似をすることは、よくあることだ。罰せられるのは、F・カールの方だと思わないかね?」


ライナー大公は、皇帝の兄弟の中でも、年齢が下の方である。彼は、更につけ加えた。

「私が思うに、恐らく、キーーー、という叫びも、」



「キーーーーーーッ」

フランツが叫んだ。


 教師と大叔父は耳を塞いだ。

 それを見て、フランツは、とても嬉しそうだった。







 1817年5月、レオポルディーネは、遠くブラジルへ旅立った。顔も見たことのない、ポルトガル王室のドン・ペドロと結婚する為だ。

 

……泣くことしかできません。メッテルニヒは、リボルノ(イタリアの港町)までエスコートしてくれましたが、それが嬉しかったと思う? 私達皇女は、サイコロのようね。投げられた目によって、幸福も不幸も決まるんだわ。


 彼女はこう、姉のマリー・ルイーゼに書き送った。



 レオポルディーネは、姉妹の中で、一番聡明な娘だった。植物学や鉱物学など、さまざま学問に興味を持っていた。ポルトガル語を含む、数ヶ国語にも堪能だった。

 その聡明さを見込んで、外相メッテルニヒが、白羽の矢を立てたのだ。


 マリー・ルイーゼ同様、彼女も「売られた花嫁」だった。新大陸アメリカでの利権を、メッテルニヒは、狙っていた。


 父のフランツ帝は、長女のマリー・ルイーゼの時と同様、この婚姻にも反対だった。婿になるドン・ペドロは、女にだらしがなかった上に、非常に激しやすい性格だということを、フランツ帝は聞き及んでいた。


 しかし、父親としての皇帝の情は、敏腕な高級官僚、ウィーン会議でヨーロッパの御者とも呼ばれたメッテルニヒには、通用しなかった。


 今回もまた、長女のマリー・ルイーゼの時と同様、国益が優先された。


 「私の宝物」

フランツをこう呼んで慈しんでいた叔母は、フランス人従者たちと同じく、ある日突然、幼いフランツの前から姿を消した。





 その翌年。フランツを気にかけ、時に先生方に意見してくれていたライナー大公も、いなくなった。大公は、ロンバルド=ヴェネスト王国副王になって、イタリアへ赴任したのだ。

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