おいで、フランツェン


 長く病んでいた、皇妃が亡くなった。

 夫のオーストリア皇帝との間に子をなすことのないまま、3人めの皇妃、マリア・ルドヴィカは早逝した。

 28歳。

 肺の病だった。



 今回も、皇帝はすぐに、新しい妻を迎えた。

 4人目の妻は、バイエルン王国の王女、カロリーネ・アウグステである。

 新妻も、再婚だった。


 24歳で祖母となった彼女は、結婚と同時にできた「孫」を、「フランツェン」と呼んで、慈しんだ。

 新しい皇妃は、もちろん、ドイツ語を話した。すると、どうしたことか、「フランツェン」もまた、ドイツ語で返礼を返したのだ。



 「今まで教えたことを、ちゃんと理解してるじゃないか」

先生方は驚いた。


 それからのフランツの進歩は、驚くほどだった。


 生徒の長足の進歩を、先生方は、とても喜んだ。

「君は、私の自慢の生徒だよ」

ある日、ディートリヒシュタインはフランツに言った。彼にしたら、最大級の褒め言葉だ。


 いつもは怖い先生の喜ぶ姿を見て、フランツも嬉しそうだった。だが、突然、顔を曇らせた。


「でも僕は、ドイツ人にはなりたくない!」

彼は叫んだ。

「僕は……僕は、フランス人になりたいんだ!」







 祖父のオーストリア皇帝は、責任を感じていた。

 全ての不幸は、マリー・ルイーゼをナポレオンに嫁がせたことにある。

 祖国、オーストリアを守るため、長女は、国の犠牲になった。自分は、娘を守ることができなかった。


 パルマ領主は、マリー・ルイーゼへの慰労の意味もあった。

 だが、外相メッテルニヒは、フランツの同行を許さなかった。


 ナポレオンがセント・ヘレナに幽閉されている今でも、パリの街では、彼の絵が売れているという。

 中には、ナポレオン2世……オーストリア皇帝の孫……の絵もあるという。


 もちろん、フランツの絵を描かせるなど、オーストリア政府としては、言語道断である。また、復古したブルボン王朝のフランスで、堂々と売ることはできない。


 それらは、小さくて身近なもの……ハンカチや帽子、乗馬用眼鏡や嗅ぎたばこ入れなどに描かれ、フランスに密輸されていた。


 ナポレオンの支持者たちの仕業だ。この期に及んでも、彼らは、ナポレオン2世の即位と、マリー・ルイーゼの摂政を望んでいた。


 フランツをパルマへやれば、ナポレオンの残党に誘拐される可能性が高まる。敏腕な外相メッテルニヒから、そう言われ、皇帝は怯えた。

 宰相に言われるまま、フランツを、ウィーンから出さなかった。






 キリスト教の聖体拝受の祝日。

 皇帝は孫と一緒に、バリコニーに立った。凡庸と言われつつも、家庭的な、この佳き皇帝は、人民に慕われていた。バルコニーの下には、大勢の人が集まり、歓呼の叫びを上げていた。


 「で、この頃、どうかね?」

人民に向かって手を振りながら、皇帝は、孫に、ドイツ語で問いかけた。


 孫が、頑固にフランス語しか話さないことは、教師たちから聞いていた。

 その彼が、新しく娶った皇妃に、ドイツ語で返礼をしたこともまた、皇帝の耳に届いていた。


 孫の返事を待ちながら、皇帝は、どきどきした。


 「はい。僕は、とても元気に過ごしています」

完璧なドイツ語が返ってきた。


 ……おお!

 皇帝の胸は、喜びに震えた。


 大勢の人々が、バルコニーの二人に向かって、歓声を送っていた。

 自分に向けられる親愛の発露に、フランツは、感銘を受けたようだった。


 ……このオーストリア人民に慕われるプリンスになっておくれ。

 皇帝は思った。

 ……フランス人であったことは、忘れるがいい。


 ナポレオンのことは、孫の柔らかい記憶から、洗い流してしまいたい、と、皇帝は思った。




 「フランツ」

部屋に戻ろうとする孫を、皇帝は呼び止めた。

「皇妃が手袋を忘れていってしまった。届けてやってくれないか」

自分が孫とドイツ語で会話できたことを、是非、若い妻にも教えてやりたかった。


「はい、お祖父様」

礼儀正しく、フランツは答えた。






 皇妃の部屋には、宮廷の、年配の婦人たちが集まってお茶を飲んでいた。


 「ねえ。最近私、フランスの国が、前よりよく見えるのよ」

もう何度目になるか、皇帝の姉、ザクセン王妃が口にした。


 ナポレオンに領土の大半を削られたこの女性が、以前は、口を極めてフランスを罵っていたことは、そこに集まった女性たちの記憶に新しい。


 「私もそうよ!」

負けずに口を出したのは、ハプスブルク家の傍流、エステ家のベアトリーチェ大公女である。亡くなった前の皇妃の母親は、娘の喪を示す喪章を身に着けている。


 「あら。貴女、フランスなんか大っ嫌いだって、言ってなかった?」

 すかさず別の女性が口を挟んだ。エステ家も、ナポレオンに、領土を取り上げられていた。


 大公女は、肩を竦めた。

「前はね。今は、すこうし、フランスが好きになったのよ」


「ウィーン会議で、イタリアの領土も、息子さんに返されたしね」

「それが理由じゃないのよ!」

きっぱりと大公女は言った。


「じゃ、ファッションかしら。ついに貴女も、あの臭い香水を身につける気になったとか?」



 年上の女性たちの会話を、皇妃カロリーヌ・アウグステは、手持ち無沙汰な思いで聞いていた。

 過去のあれこれから派生する大公女らの話は、年若い皇妃には、よくわからないことが多かった。


 皇帝の新妻カロリーネは、亡くなった前の皇妃マリア・ルドヴィカよりも、さらに5歳若い。皇帝との年の差は、24歳だった。

 ずけずけとものを言っていたルドヴィカと違って、バイエルンから来た新しい皇妃は、物静かで、内気な女性だった。



 「違うったら! 私がフランスが、昔よりマシになったと思う理由はね、」

じれったそうにベアトリーチェ大公女が叫んだ。


「わかってるわよ。私と同じでしょ」

ザクセン王妃が意地悪そうに微笑む。


 大公女は大きく頷いた。

「そう。私が前より少しだけ、フランスを贔屓ひいきしているわけは……、」



 「あのう……」

小さな声が聞こえた。


 部屋の入り口で、皇帝の小さな孫が、お辞儀をした。彼は、皇妃に近づいていった。

 少年は、若すぎる祖母の前に立つと、手袋を差し出した。

「お祖父様が、お忘れ物です、って」


「まあ! ありがとう、フランツェン!」

皇妃の顔が、ぱっと輝いた。


 ……フランツとドイツ語で話せたら、手袋を持っていかせる。

 夫の皇帝と、そういう取り決めをしてあった。

 手袋を差し出す「孫」を、皇妃は思わず抱き締めた。



 「フランツェン……」


 回りの淑女達がざわめいた。

 顔を見合わせ、いっせいに、手を伸ばした。


「おいで、フランツェン。ザクセンの大伯母さんのところへ」

「いいえ、イタリアのおば様のところへいらっしゃい」

「皆様方、ずるい。私のところにも、ねえ、プリンス」


迫りくるたくさんの腕に、フランツは後退った。


 「いえ、結構です」

堅苦しいドイツ語で、「フランツェン」は答えた。

 「僕は、女の人の中にいたら、いけないんです。僕は、男の人と一緒にいるべきなんです!」

顔を真っ赤にしてそう言って、走り去っていった。

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