フランソワ皇帝に馬を
フランツは、父親に関して、驚くべき記憶力を、保持し続けていた。彼がナポレオンと離れ離れになったのは、3歳になる前だ。それなのに、実に細かいことまで、彼はよく覚えていた。
ある日、教師の一人が、「pataud」というフランス語を口にした。あまり品のいい言葉ではない。英語の "oaf"、馬鹿、まぬけ、うすのろ、の意味だ。
聞いていたフランツが、即座に反応した。
「それは、パパが、僕を呼んでいた言葉だ!」
先生方は、顔を見合わせた。
郷愁を含んだ眼差しで、フランツがつぶやく。
「パパは僕をそう呼んで、それから、アームチェアーの中で眠り込んでしまうんだ……」
ナポレオンの話が出るたびに、教師たちは、当惑を隠せなかった。
父親のことを教えるのは、まだ時期尚早と思われた。もっと客観的に物事を判断できるようになってから、歴史の大局の中で教えるべきだった。
ナポレオンの間違った野望と、権力への固執を。飽くことなき戦争への欲望、そしてそれが、人々に齎した悲惨について。
ナポレオンは、世界を敵に回した反逆者だ。彼の引き起こした戦争のせいで、多くの人が犠牲になった。
それを、正しく教え込まねばならない。
しかし、まだ、その時ではない。
*
フランツは、連隊や騎兵、将校などに、憧れを抱いていた。
……ナポレオンの息子は、僧侶にすべきですよ。
フランツの大祖母(祖父の皇帝の叔母)は、言っていた。この大祖母は、フランツがオーストリアへ来た年に亡くなった。
司祭? 神父さん?
フランツには、とんでもないことだった。
彼は、軍人になりたかった。
それも、父のような、偉大な軍人に。
戦争ごっこは、大好きな遊びだった。
ある日、宮廷の
「何をしていらっしゃるの、プリンス?」
「塹壕を掘っておりますっ!」
即座に、堅苦しい返事が返ってきた。
重々しさを演出した、わざとらしい堅苦しさだ。
「ざんごう?」
少年は小さな赤いスコップで、脇目も振らず、穴を掘っていた。
「自分は、要塞を造っているのであります!」
思わず、貴婦人は笑いをこらえた。
いたずら好きなこの女性は、小さな少年をからかってやろうと思い立った。
「要塞は、どうやって造るのかしら」
彼女は、少年のすぐそばにしゃがみこんだ。いかにも興味を持ったという風に、その穴を覗き込む。
「とにかく、敵の侵入を退けるのが肝要であります」
相変わらず、誰かからの受け売りとすぐにわかる答えを、少年は返してきた。
「ふんふん。それで?」
貴婦人は促した。
「砲台を造って、兵隊たちをたくさん、集めなくてはなりません」
「へえ。それで?」
「川や山など、自然の地形をうまく利用して、」
「なるほどなるほど。それで?」
「えと、防壁や砦を造って」
「それで、それで?」
「マダム」
とうとう、プリンスは、耐えきれなくなったようだ。半ば苛立ち、半ば諦めを込めた目で、彼女を見返した。
「これは、御婦人が興味をお持ちになるようなことではありません。だから、僕はもう、何も言いません!」
「ああ、ここにいた。プリンス!」
コリン先生が迎えに来た。
すぐに、教え子の顔が、真っ赤になっていることに気がついた。傍らで、顔見知りの貴婦人が、にやにやしている。
「あー、バロネス。プリンスをお借りしてもよろしいでしょうか」
「まあ、残念。とても楽しかったのに。また、いろいろ教えて下さいね、プリンス」
「彼女に何か言われたのかい?」
貴婦人から十分に距離をおくと、コリンは尋ねた。
フランツは黙って、首を横に振った。
その日は、乗馬のレッスンがあった。
フランツの練習用の馬が到着したというので、コリン先生が迎えに来たのだ。
馬場に着くと、脚のがっしりとした馬が繋がれていた。プリンスの身長に合わせて、やや小さめの馬だった。
「気性のおとなしい、穏やかないい馬です」
馬丁が得意げに出迎えた。
「違う! これじゃない!」
不意に、フランツは叫んだ。
「僕は、パパみたいな、大きな馬がほしいんだ!」
思いがけず、パパ……ナポレオンが出てきたので、コリンは、どきりとした。
「大きな馬だって?」
「軍馬だ! 軍馬じゃなくちゃ、駄目なんだ! だって、僕は、戦争に行くんだから! パパみたいにね!」
興奮して騒ぎ立てる小さな主人に反応して、馬までが、脚を踏み鳴らし始めた。
ますます大きな声で、フランツは叫んだ。
「僕のパパは、『フランソワ皇帝』に、馬をくれた!」
ナポレオンは息子を、そんなふうに呼んでいたんだ……。
コリンは思った。
フランソワ皇帝、と。
ふと、フランツの目が、遠くを見るようにぼんやりと霞んだ。
「その時パパがくれたのは、軍馬だった……」
コリン先生と馬丁は、顔を見合わせた。
コリンはフランソワの手を取り、馬丁は、馬の轡を握った。
「今日は、乗らないほうがいい」
馬を諌めながら、馬丁が言った。
「明日、また調教しておきます」
「戦争に行くって、フランツ君」
馬場を離れながら、コリンは言った。
「戦争に行ったら、怪我をしたり、下手をすると、死んじゃったりするんだよ? 君は、平気なのかい?」
「大丈夫だよ。兵隊達が、いつも僕の前にいて、守ってくれるもん」
「そうかな」
「……戦争に行ったからって、みんながみんな、死んじゃうわけじゃないでしょ?」
不安そうな口調で、フランツは尋ねた。
「僕は、死にたくない……」
さらに、コリンは質問を重ねた。
「それじゃ、君は、何をするんだい? 兵隊たちが君を守ってくれるんだとしたら」
「僕は、将軍になる!」
きっぱりと、少年は答えた。
「ふうん」
コリンは首を傾げてみせた。
「将軍の仕事って?」
「難しいことじゃないよ」
途端に生き生きと、フランツは話しだした。
「兵隊たちを訓練したり、行進させたり、それから、……これはちょっと難しいかもしれないけど……兵士の数を数えたり!」
「なるほど」
コリンは頷いた。
ナポレオンの息子の、「軍事的偏向」について、皇帝を初め、一部の群臣の間で、しきりと取り沙汰されていることを、彼は知っていた。コリンの同僚の、ディートリヒシュタインでさえ、この問題については、とりわけ、慎重だった。
いうまでもなく、フランツを、ナポレオンのような戦争狂に育てない為の用心である。
……だが。
コリンは思った。
……「軍事的偏向」と言ったって、この程度じゃないか。
将軍になりたいとか、軍馬が欲しいとかなら、コリンの息子だって、同じことを言っている……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます