優しいゾフィー


 幌のない馬車が、ドナウの流れを渡っていく。


 川底の石に車輪を取られたのだろうか。

 馬車のひとつが、横倒しになった。


 派手な水しぶきがあがった。馬は暴れ、救援隊は近づくことさえできない。倒れたキャリッジから、士官が、自力で這い出してきた。全身ぐしょ濡れだ。

 仲間の助けを借りて、なんとか馬車を起こそうとしている……。




 別の一群は、壁をよじ登る訓練をしていた。


 石組みの、わずかな隙間に足をひっかけ、でっぱりに手をかけて、重心を持ち上げる。つま先を差し入れた隙間は、足を踏ん張るには十分ではない。また、手をかけたでっぱりは、苔が生えていて、滑りやすい。腹筋を使い、体を柔軟に動かして、少しずつ、登らねばならない。


 中には、かなり上の方まで登った兵士もいた。慎重に登ってきたのに、壁を乗り越える直前になって、疲れが出たのか。石のでっぱりを掴んだその手が、つるりと滑った。

 兵士は、真っ逆さまに、下へ落ちた。


 落ちた兵士は、地に長々と伸びたまま動かない。

 同僚らの間から、どよめきが漏れた。

 すぐに、救急の担架が運ばれてきた。慌ただしく架台に乗せられ、運ばれていく……。




 軍の訓練が終わるとすぐ、フランソワは、シェーンブルンに戻らねばならない。乗馬のレッスンがあるからだ。


 その日、彼は、不運の連続だった。

 馬の手綱が外れたのだ。

 馬は驚き暴れ、乗り手を振り落とそうとする。

 フランソワは、たてがみにしがみついて、なんとか馬を鎮めた。


 だが、周囲の馬たちは、そうはいかなかった。

 フランソワの馬の怯えに伝染し、周囲にいた馬たちは、一斉に、暴れだした。

 乗馬のコーチは、馬たちを追い立て、ようやくのことで、馬場の隅に追い込むことに成功した。


 せっかくのレッスンは、途中で中止となった。





 「今はまだ、それほど寒くないからいい。だが、いつまで、この訓練を続けるんですか!」

 ディートリヒシュタインが、小言を述べている。

「ドナウで馬車が横転し、私が見た兵士は、ずぶ濡れになっていましたぞ。寒い冬に、あのように体中濡れたら、いかがなさるおつもりか!」


「しょうがないでしょう。それが、訓練なんだから」

 眠そうな顔で、フランソワが答える。


 朝が早い上に、訓練の後、乗馬や学科の授業も受けている。

 眠くて当たり前だ。

 この、オーバーワークが、ディートリヒシュタインは心配だった。


 確かに、今年は、プリンスの体調はいいようだ。咳も、殆ど出ない。

 しかし、依然として、主治医のシュタウデンハイムは、生活に制限を課している。


「激しい運動はしてはいけないと、シュタウデンハイム医師が、あんなに、言っているではないか。なぜ、あんな無茶な訓練に参加するんです!」

「それが、僕の性分だからですよ、ディートリヒシュタイン先生。僕は、したいから、やっているのです」


「いいですか、プリンス。私は何度も言っていますぞ。あなたの居場所は、軍などではない!」

「いいえ、先生。たとえ神であっても、僕を、目的からそらすことはできません」


「プリンスの居場所は、ウィーン宮廷だ。社交と外交にこそ、君の実力は発揮されるべきなんだ」

「いやです」

「なぜ」

「したくないから」


「プリンス!」

ディートリヒシュタインは叫んだ。

「興味がないからやらないというのは、よくないことですぞ!」


「勉強だって、しっかりやってるでしょ」


「数学と歴史と地学だけはね」

憮然として、ディートリヒシュタインは答えた。


「あと、化学も好きですよ」

「それらは、軍務に役立つからだ! でも、それ以外は、全くダメダメじゃないですか。できないのではない。あなたには、やる気がないのです!」

「しょうがないじゃないですか。やりたくないんだから」


「プリンス! 全く、なんて強情なんだ!」

怒りのあまり、家庭教師は、ぶるぶる震えた。

「高貴なあなたには、あなたにしかできない、崇高な任務というものがあるのですぞ!」

「……」



 「フランツル」

フランソワが返答に窮していると、優しい声が名を呼んだ。


 叔母のゾフィー大公妃が、ティールームに入ってきた。

「あら、ディートリヒシュタイン伯爵」

甥の傍らに家庭教師の姿を認め、にっこりと微笑みかける。


「これはこれは、ゾフィー大公妃」

 ディートリヒシュタインは立ち上がり、恭しく、敬意を表した。

 ゾフィーは彼に座るように合図し、自分も腰を下ろした。


「フランツル、あなたがここにいると聞いたから、来ちゃった」

「ごめんなさい、ゾフィー。ディートリヒシュタイン先生のお話が長くて」


「ゾフィー大公妃! 貴女からも言ってやって下さい! プリンスときたら、自分の興味のあることばかり夢中になって、興味のないことは、一向に、やろうとしないんです!」

「えーと、」


 ゾフィーはフランソワを見た。

 フランソワは、片目をつぶってみせた。

 熱くなっているディートリヒシュタインは気が付かない。


 ちらりと、ゾフィーが笑った。

「先生。人というものは、そういうものでしょう?」

「いや! 教養の無さを露呈するようでは、困ります! プリンスが、困るのです!」


 フランソワは、ゾフィーに向けて、口の端で微笑んだ。それからディートリヒシュタインに顔を向けた。


「軍でキャリアを積むことだけが、僕の、生涯の目標です。それ以外は、何も考えていません」

「プリンス!」


「まあまあ、ディートリヒシュタイン伯爵」

危険なくらい真っ赤になった教師を、ゾフィーが、優しく制した。

「私は、よく存じていますよ。なんだかんだおっしゃっても、先生は、最終的に、生徒のことをよく考えておられます。フランツルは、軍務で、名誉を得たいのです。ね」


 「いまのところは」というところに、ゾフィーは、独特のアクセントをおいた。

 はっと、ディートリヒシュタインは、ゾフィー大公妃を見た。いかめ教師の顔に、感嘆と称賛の色が浮かんでいる。


 しかつめらしく、ゾフィーは頷いてみせた。それから、甥に、柔らかい笑顔を向けた。

「ところで、フランツル。軍隊のお話をして下さる約束でしょ? 私の部屋へいらっしゃいな」


 フランソワが何か言う前に、ディートリヒシュタインが飛び上がった。


「なんと、プリンス! 君は、大公妃とのお約束を忘れていたのかね!」

「いや、それは先生が引き止めるから……」

「言い訳をするでない! ゾフィー大公妃。プリンスがお待たせをさせて、申し訳ないことをしました。さあさあどうぞ。彼を、連れて行って下さい」


 呆れたように、フランソワが天を仰ぐ。

 にっこりと、ゾフィーは微笑んだ。

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