時代に翻弄された犠牲者
プリンスの部屋から、黒髪のスパイが出ていくのを、オベナウスは認めた。
明らかに、いつもと違う雰囲気だった。オベナウスは首を傾げた。
だが、すぐに忘れた。彼には彼の、職務があった。
部屋に入ると、プリンスは、本を読んでいた。
「Le Fils de l’Homme」。
オベナウスが、課題に与えた本だ。フランス語で書かれているから、フランス語の復習にもなる。
詩集の前半では、ナポレオンの全盛期について、謳われている。オベナウスはこの本を、歴史の教材として使うつもりだった。
「読み終わりましたか?」
対面に座り、オベナウスは尋ねた。
物憂げに、プリンスは顔を上げた。
「ええ、まあ、だいたい」
「どうですか。自分について謳われている詩というものは?」
歴史の授業は、すでに、現代史に移っていた。
教師たちは、ナポレオンを、時代に翻弄された犠牲者として扱うことに、一致していた。
……もうよい。あれの父親については、何も隠すでない。
皇帝からもそう、許可を貰っている。
ナポレオンの息子として、彼がこのバーセレミーの詩をどう感じたか、個人的にも、興味があった。
プリンスから帰ってきた答えは、意外なものだった。
「ディートリヒシュタイン先生が、気の毒だと思いました」
「は?」
「詩の最後に付されたノートで、」
フランソワは、本を、ぽんぽんと叩いた。
詩の末尾には、詩人自身による、注記が載せられていた。そこには、ウィーン滞在から、ナポレオン2世の家庭教師であるディートリヒシュタイン伯爵の対面の模様が、詳しく綴られていた。
「先生は、まるで、文学を理解しない、わからず屋のように書かれています。詩人を、僕と面会させなかった張本人として、悪者扱いだ。その上、彼の詩集を、僕に手渡すことさえ拒絶した。まるで……」
何か言いかけて、くすりと笑った。
「でも、僕はこうして、彼の最新刊を手にしている。オベナウス先生。他ならぬ家庭教師の貴方から与えられて、ね」
「ウィーンの書店で、普通に売られていますよ。殿下が、ご自分で買うことも可能だ」
「尾行がつかなければね」
ぴしゃりと、プリンスは答えた。眉を顰めて、ページを繰る。
「なんでしたっけ。ディートリヒシュタイン先生の言葉……『囚人ではない。だが、彼の立場は、特殊なものだ』。本当に、先生は、こんなことを、おっしゃったのですか?」
「だいたい、その通りだったと、聞いています」
用心深く、オベナウスは答えた。
プリンスの誘導尋問は、実に巧みだ。彼にかかれば、誰でも、知らずに、その腹のうちを明かしてしまう。
「ディートリヒシュタイン先生は、おっしゃっていましたよ。プリンスの前に待ち構える偉大な栄光を考えれば、フランスの馬鹿者どもの悪口など、蚊に刺されたほども痛くはない、って」
「へえ。僕の前に待ち受ける、偉大な栄光ですって?」
オベナウスは、彼の挑発に乗らなかった。
「先生は、自分に与えられた侮辱を、いつの日か晴らしてくれるのは、あなただと、おっしゃっていましたよ、プリンス」
「……」
さすがに、彼の胸に響くものがあったようだ。
黙って、本を閉じた。
この日は、フランス革命を扱った。
ギロチン台に架けられたルイ16世の話になると、フランソワは、肩を竦めた。
「彼の処刑は、正しかったと思う。ルイ16世は、なぜ、そんなにも弱虫だったんだろう……」
もちろん、オベナウスは、生徒を叱責した。
だが、プリンスは、怯まない。
ディートリヒシュタインやフォレスチと違って、オベナウスは、彼が10代に入ってからの教師だ。
頭ごなしに叱りつけることは、できなかった。
「君には、大局という視点が欠けている。民に圧政を敷いたのは、ルイ16世ではない。彼はただ、まずい時代に、まずい国の王であったというだけだ。彼は、時代の犠牲者だったのだ」
少し言葉を途切らせた。
「君の父上と同じように」
「偉大な人物は、通常の尺度で図ることはできないものですよ」
プリンスは、肩を聳やかせた。
*
ドナウの岸辺を、エオリアとアシュラは、そぞろ歩いていた。
明日には、出発という日だった。
ロシアの圧政にあえぐポーランドの他にも、イタリア、フランスを回る予定だった。
いずれも、革命や、民族自決の風に揺らぐ国だ。生きて帰れる保証はない。
夕陽が斜めに、彼女の顔を照らし出していた。
「君の気持ちはよくわかっているつもりだ。それは、気高い犠牲だと、思う。でも、もし、万が一……、君が傷つくようなことがあったら、思い出して欲しい。……僕が、君を受け止める」
アシュラは言った。声が震えた。
「だから、僕が帰ってくるまで、待っていてくれないか」
どんな危険に遭おうとも。
どんな姿になろうとも。
アシュラは、帰ってくるつもりだった。
ここ、ウィーンへ。
エオリアの……、フランソワの元へ。
ここにしか、アシュラの居場所はない。
チロルの衣装に身を包んだ娘たちが、楽しげに踊っていた。トルコの服を着た船員たちが、孔雀のように得意げに、岸辺を歩いていく。
「約束はできない」
ぽつんと、エオリアは答えた。
「あなたの帰りは、待てない」
「そう」
アシュラは大きく息を吸った。
……決して、負担はかけまい。この人を大切にしよう。
「冬の旅」の演奏会からの帰り道、自分は、そう、心に誓った……。
全身の力をこめて、彼は、笑った。
「そうだよね。僕が、悪かった。ごめんね、エオリア。変なことを言って。僕はまだ……」
そこで、声が潰れた。
そうだ。
二人の間には、何の約束もなかった。
自分はまだ、気持ちを、彼女に伝えてもいない。
……勘違いだったね。ごめん。
だが、その言葉は、どうしても、彼の喉を上がってこなかった。
そんなアシュラを、エオリアが、痛ましそうに見つめた。
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