名誉は自分で掴み取る
アシュラは、フランソワの前へ伺候した。
前回のフランス行きは、彼に黙って出発した。
それは、明らかに、彼の不興を買った。
スパイなのだから、いちいち、「いってきます」だの、「ただいま」だのという、挨拶は必要ない。かえって、おかしい。
だが、アシュラの留守は、フランソワを不機嫌にさせ、……もしかしたら、寂しい思いをさせていたような錯覚さえ、彼に与えた。
それに、今回の出張は、前回のように、すぐ済むものではない。ひょっとして……危険なものになるかもしれない。
自分は無事に、彼の元へ帰って来れるだろうか……。
「ふん。どこへでも行ってくるがいいさ」
暫く留守にすると上奏すると、思った通り、突慳貪な返事が帰ってきた。
フランソワ自身は、黄金の籠の、高貴な囚人だ。
彼は、自分の意志で、ウィーンの外へは出られない。
……フランソワにとって、最適の時期と、最適の国を探す。
それが、アシュラの目的だった。
だが、フランソワに告げるわけにはいかない。
失敗するかもしれないのだ。帰って来られないかもしれない。
フランソワに、儚い希望を抱かせたくない。
ただただ、確かな未来……それは、明るいものでなくてはならなかった……だけを、彼に指し示したかった。
もちろん、国外情勢について話すことは、ノエから、厳しく止められている。
フランソワは、自分に、父の血を分けた兄がいるなどということさえ、教えられていない。
その異母兄が、ポーランドの民族運動に身を投じたなど、絶対に、口外してはならない。
だから、簡単に、国外へ出る、とだけ、告げた。
フランソワは、限りなく、不機嫌だった。
アシュラは頭を下げ……そして、その本に気がついた。
寝椅子の脇の、ローテーブルにぽんと投げ出された、それ……。
「Le Fils de l’Homme」
この夏、出版されたばかりの、フランス語の本だ。ウィーンでは、まだ、それほどは出回っていない。取り扱っている店も、限られている。
間違いないと思った。
彼は、定期的に訪れると、シャラメは言っていた。
フランソワは、また、シャラメの店へ行ったのだ。
仄暗い店の中で、喜びに顔を輝かせたエオリアが本を差し出す。それを受け取る、フランソワの姿が、目に浮かんだ。
何度も書店へ通って、そして……。
「……。おい、聞いているのか?」
「は?」
アシュラは、はっと顔を上げた。
「そんなことで、お前、大丈夫なのか? 道中、掏摸や追い剥ぎや、もっと物騒なのだっているんだぞ?」
掏摸や追い剥ぎどころではない。
アシュラが偵察に行くのは、暴動なのだ。
アシュラが傷つき、倒れた時、彼の聖母は、彼を拾い上げ、抱きしめてはくれないのだろうか。母に愛されることのなかった自分は、人生の最初で愛に躓き、この先、誰にも愛されず、生涯を閉じるしかないのか。
せめてエオリアが……。
「……」
再び、フランソワが何か言っている。その言葉尻を、アシュラの耳が拾った。
「……なんですって!?」
「また、ぼけっとしてたな。だから、女とパリは、留守にしたらダメだと、言ったんだ。父上の口癖だったそうだ」
「女と……パリ?」
「この場合は、ウィーンだな。女とウィーンは、留守にしたらいけない」
女たらしのナポレオンの警句を、潔癖なフランソワの口から聞かされるとは、思ってもみなかった。
「ですが……」
「なんだ」
「いえ」
「気持ち悪いな。ちゃんと言え!」
決めつけられて、アシュラはなおもためらった。
「……殿下は、その……、どう思っておられます? つまり、シャラメ書店の……」
口ごもった。
思い切って、その名を口にした。
「エオリアのことを」
「いいんじゃないか」
素っ気ない返事だった。つまらなそうな、気のない素振りだ。
「……そうですか」
決まりだ。
アシュラは思った。
覚悟していたことではあった。だが、目の前が暗くなった気がした。
「殿下は……」
……覚悟がおありですか?
……ヨーハン大公や、お母上のように、貴賤婚と蔑まれながらも、彼女を妻に娶る覚悟を、あなたは、お持ちなんですか?
だが、結婚は、エオリア自身が望んでいない気が、アシュラはしていた。
彼女は、彼の、妻になりたいのではない。
彼を救う、聖母になりたいのだ。
……「永久に。その
自分の声が、耳元で蘇る。
ずっとそばにいるかと、フランソワが尋ねた時、アシュラは、そう答えた。
フランソワこそ、魔王だ。
ベートーヴェンが指名し、シューベルトが認めた、魔王。
……それなら。
アシュラに迷いはなかった。
自分の役割は、わかっている。
……もし万が一、エオリアが傷つくようなことがあったら。
ナポレオンが、マリー・ルイーゼを娶る為に、ジョセフィーヌと離婚したように。
そして、聖母ではない、他の女性が、彼に必要となった時。
……自分の役割は、傷ついて帰ってきた彼女を、抱きとめることだ。
「僕が、どうしたって?」
フランソワが尋ねる。
「いえ」
アシュラは首を横に降った。顔を上げ、フランソワを見つめた。輝く金髪、澄んだ青い目、ふっくらと赤い唇。
輝くようなプリンスの顔を見つめ、にっこりと笑った。
全く、何の努力も要らず、微笑みかけることができた。
「何を笑っている」
なお一層、フランソワは不機嫌だった。
「お前、僕に隠していることがあるだろう?」
「私が? 殿下に?」
それは逆だろうと、アシュラは思った。
……殿下こそ、どうして、あんな猥雑な町の書店に通うようになられたのですか?
「僕にこっそり教えてくれた人がいる。お前、エミールのことを知っているな?」
「……」
虚を衝かれた。
エミール。
エミールとユゴーへの連絡手段として、アシュラは、シャラメ書店を教えられた。
誰が、フランソワに、エミールの名を告げたかは、火を見るより明らかだった。
……エオリア。
胸が、じくんと疼いた。
諦めたばかりの春風が、ふわりと馨って逃げた。
フランソワは、食いつくような目で、アシュラを見ている。痛いほどの切望が感られた。
「それは、本当に、あの、エミールなのか」
「……ローマ王、万歳! これが、貴方がたの、合言葉だったそうですね」
観念して、アシュラは答えた。
はっと、フランソワが、息を呑んだのがわかった。
「
「エミールが……やはり、あのエミールなのか。彼は、母上について、パルマへ行ったのだが……今は、フランスにいるのか!」
「はい。2年前、ナポレオンの遺品を調べにパリへ行った時、私は、彼に会いました。彼は、ユゴーという男と組んで、ボナパルニストの活動をしていました」
「2年も前……」
愕然とした表情が、フランソワの表に浮かんだ。
アシュラは頷いた。
「時折、彼から手紙が来ます。今も彼らは、あなたのお帰りを待ち詫びているそうです。ナポレオン2世の帰還を」
「ナポレオン2世!」
フランソワの唇が動いた。だが、声は出なかった。
きっと、アシュラを睨んだ。
「お前は、どうして、」
声が掠れた。
「お前はどうして、そのことを、僕に内緒にしていたのだ?」
「彼らにはまだ、何の準備もできていません。フランスは、危険だ。そんな中へ、あなたを、帰したくなかったのです」
「……それは、僕が判断すべきことではないのか?」
「あなたに、余計な負担をかけたくなかったのです。しなくてもいい心労を、させたくはなかったのだ」
「お前は、お前だけは、僕に、全てを話してくれると思っていたよ」
声が震えた。
「僕は、お前を、信じていたのに」
「殿下! 私は貴方に……、」
言いかけたアシュラを、フランソワが遮る。
冷たい声だ。
「フランスでもイタリアでも、行ってしまうがいい。だが、安心しろ。僕は、お前が考えているほど、軽はずみではないつもりだ。僕は、自分の名誉は、自分で掴み取る。そしてその名誉は、ただ、軍務の中にある!」
はっと、アシュラは息を飲んだ。
炎をも凍らせそうな目で、フランソワは、アシュラを睨んだ。
「たとえフランスであろうと、民主的な方法で選ばれたのでなければ、僕は決して、王座に上がろうとは思わない。それと、
怒りに震える指先で、フランソワは、部屋の扉を指し示した。
アシュラは、傲然と頭を擡げた。両手を握りしめ、腹に力を入れた。
「殿下。暫く留守を致します。ですが、これだけは、お忘れにならないで下さい。私は、あなたの守護です。何があっても。どんなことが起ころうとも!」
答えは、なかった。
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