旅の始まり
あれから、アシュラは、シャラメの店へ行っていない。
薄暗い店の中で見た、フランソワの姿は、彼に、強いショックを与えた。
……いつの間に。
……どうして。
彼は、シャラメの店にたどり着いたのだろう。
エオリアの元へ。
彼を見つめるエオリアの優しい顔が、頭から離れない。
喜び。恥じらい。そいして、甘さ。
アシュラの初めて見る顔だった。彼女は決して、あんな顔で、アシュラを見てはくれなかった。
……冬の旅人がいたら、ピエタ像の聖母様のように、ずっと抱いていてあげたい。冬が終わるまで。その人が、寂しくなくなるまで。
彼女はそう言っていた。
あれは、シューベルトの「冬の旅人」を聴いた帰りのことだった。
「冬の旅人」。
それは、決して、アシュラのことではない。アシュラは、冬に旅をしたりしない。冬は、暖かい暖炉の傍らで丸まって過ごし、時折、仲間たちと踊りに行く。
いざとなれば、一般民衆として、彼は、ビーダーマイヤー(5章「墜ちた小鳥」参照)の悦楽へ、逃げ込むことが出来るのだ。
しかし、フランソワは……。
ナポレオンの息子として生まれた彼は、決して、逃げることができない。否、逃げることを潔しとしない。彼は、矢折れ力尽きるまで、ナポレオンの息子であるという矜持を捨てないだろう。
その時。
誰が、彼の聖母となるのか。
アシュラにできることは、何か。
……考えることだ。いつも彼のことを気にして、心を砕き、最善を模索する。
シューベルトの言葉が蘇る。彼から聞く、最後の言葉になってしまった、いわば、遺言だ。
……ライヒシュタット公は、努力しておられる。まずは現実での成功を、君は、せいいっぱい、手助けしてやるといい。
アシュラは立ち止まった。
そうだ。
自分は、彼の
彼は、自分の究極の
何があっても、彼に尽くそう、と、アシュラは思った。
命も恋も、自分の大切なものを全て差し出して、彼を守るのだ。
それこそが、自分の使命だ。
「アシュラ! アシュラじゃないか!」
誰かが自分を呼んでいる。
とても懐かしい声だ。
アシュラは、はっと顔をあげた。
いつの間にか、宮廷に隣接する役所の中に来ていた。
箱が積み上げられ、ごたごたした廊下に、小柄な男が立っている。
最後に会った時より、幾分痩せた……、しかし、驚くほど、若々しい、その笑顔……。
「ノエ捜査官! 帰ってきてたんですね!」
アシュラの上司ノエは、3年前、フランソワの馬車に三色旗を投げ込んだ男を追って、ヨーロッパの各地を渡り歩いていた。
フランス人の室内装飾家だったその男は、名を、ドゥデイといった。ドゥデイは、あちこちから、ウィーン政府を馬鹿にする手紙を送りつけ、大言壮語を吐いた。
ノエは、ぎりぎりまで迫るのだが、いつも、もう少しのところで、逃げられていた。
怒り心頭に発した長官の
馬車の事件から2年後の、去年(1828年)の夏。
ほとぼりは冷めたと思ったのだろう。ドゥデイは、フランスへ帰国した。そこを、待ち構えていた当局に、拘束された。
「せっかくだから、裁判まで見てきたよ。2年間の勾留だと」
日に焼けた顔で、ノエは笑った。
「ライヒシュタット公への接触は、結局、やつの、単独犯だったんだ。ナポレオン2世支持の秘密クラブを作ったなんて、大きなことを言ってたくせにな。でもまあ、2年の勾留は、決して軽い罰じゃない」
「そうですね」
フランスの刑法について、アシュラは、殆ど、わからない。だが、とりあえず、ドゥデイの逮捕は朗報だった。
ノエが帰ってきてくれたことが、嬉しくて仕方がない。
「何だお前。犬みたいな顔して、はしゃいで。仕事はうまくいっているのか?」
優しくノエが尋ねる。
彼が、アシュラを、秘密警察官として、採用してくれたのだ。
「はい! と、思います……」
「頼りないなあ」
ノエは笑った。
ふと、笑顔を引き締めた。
自分の部屋へ、ノエは、アシュラを招き入れた。
懐かしい上官の執務室は、埃があちこちに溜まっていた。
椅子を引き寄せ、ノエは、アシュラに身を寄せた。
「ライヒシュタット公回りの警護を、ゲンツが手配しているそうじゃないか。いったい、何があったんだ?」
アシュラは、バーデンでのフランソワの不調から、緑の毒薬「パリス・グリーン」、そして、ダッフィンガーの
「その後、料理人には、安全な人間を選んだんだな」
「はい。フランスからの紹介で……」
思い切ってアシュラは、ユゴーとエミールのことを話した。
ノエは眉を顰めた。
「フランス人の話は、ライヒシュタット公には?」
「していません」
「そうか。……なぜ?」
「なぜ、とは?」
政府の方針により、ライヒシュタット公は、外部の情報からは遮断されている。
秘密警察官として、アシュラは当たり前のことをしたと、
……それを、なぜ、と問うとは?
「君は、ライヒシュタット公のことになると、とても親身になる。彼が知りたい情報を、彼に隠すようなことは、しないんじゃないか?」
そう言って、ノエは、にやりと笑った。
……バレてる?
マリー・ルイーゼの隠し子の件で、アシュラは、グスタフが全てを話してしまうのを、止めなかった。とうの昔に、彼の私信を漁ることは止めている。そうしたことを、ノエは知っているのだ。
全く、この人には隠し事ができないと、改めてアシュラは感じた。
それなら、自分の本心を言うまでだ。
「僕は彼を、フランスに渡したくない。彼を、ナポレオンの息子としてしか見ていないようなやつらには」
「なるほど」
「彼は彼だ。ライヒシュタット公には、ライヒシュタット公としての魅力と、実力がある」
「……」
ノエは答えなかった。
「アシュラ」
しばらくして、改まった声で呼びかけた。
「今、フランスは……フランスだけじゃない。ヨーロッパの国々は、大きく動こうとしている。君、直にそれを見たくはないか」
「直に?」
「イタリア。ギリシア。ポーランド。そして、フランス。民衆の力が、大きく躍動している。民族自決の動きが、旧宗主国をはねのけようとしている。私は予言しよう。今世紀中に、王制は廃され、大衆の時代となる」
あまりに大きすぎる話だと、アシュラは思った。
……大衆。
……大衆って、何だ?
ノエは、アシュラの顔を覗き込んだ。
いまひとつ、ぴんと来ていないのに気がつき、眉を潜める。
「アシュラ、お前、平和ボケしてるな。ビーダーマイヤーに首までどっぷり浸かっている」
「はあ……」
「そうだ!」
不意に、ノエは、何か思いついたようだ。いかにも密談という風に、アシュラの方へ身を寄せた。
「実は、ナポレオンのもう一人の息子が、ポーランド入りしたという、情報が入ったんだ」
「ナポレオンの、もうひとりの息子?」
「ああ。アレクサンドル・ワレフスキー。ナポレオンが、ポーランド貴族の妻に生ませた息子だ」
1809年、二度目のウィーン占拠の時、ナポレオンは、ポーランドから、情婦であるマリア・ワレフスカを呼び寄せた。彼女は、ポーランド貴族の妻である。
ナポレオンは、毎夜のように、馬車を仕立て、マリアの元へ通った。
やがてポーランドへ帰った彼女は、翌年、男の子を産んだ。自分には生殖能力がないと恐れていたナポレオンは、この報を聞き、新たな妻を娶る決意をしたという。
青い血の流れる、高貴な妻を。
白羽の矢が立てられたのが、ハプスブルク家のマリー・ルイーゼである。
一方、生まれた息子の方は、母の夫の、ポーランド貴族の子として育てられた。
しかし、ロシアの徴兵を拒否して、国外に逃亡した。14歳の時のことだ。3年後、フランスに渡った。
「ロシアのポーランドへの圧政は、ひどいものがある。このままではすまない。決してね」
ノエは言った。
ナポレオンにより、一時は、ワルシャワ公国として独立を果たしたポーランドは、ウィーン会議により、また、プロイセンとロシアに分割された。
「そこへ、ナポレオンの血を引く息子が、帰ってきたとしたら……」
背筋がぞくっとするのを、アシュラは感じた。
ノエは、にやりと笑った。
「どうだ。その目で確かめたくなったか?」
「ですが……フランソワはどうなります? 僕には、ライヒシュタット公の身の安全を守るという任務があります」
「ゲンツは、信頼できる。あの男は、メッテルニヒに見出され、その相談役を務めてはいるが、今や、宰相とは
フランツ・ヨーゼフ・ザウラウは、古くから皇帝に仕える、重臣だ。かなりの老齢ではあるが、その勢力は、隠然として、他を圧倒している。
さりげなく、ノエが付け足した。
「メッテルニヒとて、滅多なことはできまいよ」
一拍遅れて、アシュラは叫んだ。
「ノエ捜査官!」
……この人は、メッテルニヒが、彼を害そうとしていることを認めるのか!
ノエは頷いた。
「君が考えていることくらい、わからないと思ったか。そうだ。ライヒシュタット公にとって、最大の危険は、もはや、フランス王室などではない。それは、この国の中枢にある」
じろりと、アシュラを見下ろした。
「恐らく、ザウラウ侯を動かしているのは、皇帝の弟君の、ヨーゼフ大公だろう。伯爵と大公は、古くからの戦友でもあるのだから。また、カール大公も、ライヒシュタット公に関しては、何かと気にかけて下さっている。その上、彼には、3人の家庭教師がついている」
「しかし……」
「なんだ。それでもまだ、心配なのか?」
「大公方は、いつも、殿下の身近におられるわけではない。家庭教師たちは、日常的に、殿下に接してはいるけど……しょっちゅう、彼に、出し抜かれている」
渋い笑いを、ノエは浮かべた。
「それなら、これからは、私が、秘密警察の指揮を取って、彼の身の回りの警護に腐心しよう。はっきり言って、お前より、よほど有能だ。違うかね?」
「……」
なおも、アシュラはためらった。
彼は、フランソワから離れたくなかったのだ。
ノエが、じろりと睨んだ。
「いいか、アシュラ。何事にも、ぴったりのタイミングってものがある。本気でライヒシュタット公の為を考えるんなら、君は外へ出て、その時を、しっかりと見極めて来るんだ!」
*
何かに思いを定め、また、何かを振り切るようにして、立ち去っていく部下を、ノエは見送った。
ほっと、安堵のため息をつく。
ナポレオンの庶子、アレクサンドル・ワレフスキーを餌に、アシュラを説得することに、成功した。
母国を出、外国へ行くことに。
……良かった。
……しばらく、
ウィーンに帰ってきたノエを待ち受けていたのは、厚くたまった埃と、
不安定な山のようになった書類の頂上に、一枚の指令が、危なっかしく乗せられていた。
優美な字体でなされた署名は、宰相メッテルニヒのものだった。日付は、ごく、最近だった。
メッテルニヒは、秘密警察官アシュラ・シャイタンの身元を照会せよと言ってきていた。
出身。人種。宗教。教育。
思想。信条。家族。交友関係。
項目は、実に多岐に亘っていた。
スパイとはいえ、アシュラは貴族ではない。特別な政治活動に参加したわけでもない。
音楽が好きと言う以外は、取り立てて、特徴はない。
あるとしたら、その任務……ライヒシュタット公との接点くらいのものだ。
……まさか。
ウィーンに隠されているナポレオンの息子は、宰相の喉に刺さった棘であるということは、広く知られている。ゲンツ秘書官長などは、「ライヒシュタット公は、メッテルニヒ体制の、開かれた傷だ」とまで、言っている。
ナポレオンの遺児が、
この認識は、バーソロミーの詩集の出版で、フランス民衆の知るところとなった。今では、ヨーロッパ中の人が、知っている。
……
もし、
……アシュラは、目障り以上の存在だ。
そして、彼の命に、価値はない。
メッテルニヒからの指令には、
……地図?
つまり、こちらから出向くということだ。
……用があるなら、呼び出せばいいのに。
はっと、ノエは息を飲んだ。
呼び出さずに、こちらから訪れる。
住居に。最も安心して寛いでいる場所へ。
それは……
……暗殺者。宰相の命令を帯びた。
ノエは頭を振った。
……だが、あり得ないことではない。
いずれにしろ、
国外へ逃がそうと、ノエは考えた。
オーストリア政府の力の及ばない外国で、ほとぼりが冷めるまで、おとなしくさせておくのだ。
すぐに帰れぬよう、なるべく、ごたごたしている国がいい。民族運動が、王制を脅かしているような。
……まずは、イタリア辺りかな。
ノエは、立ち上がった。
紹介状が必要だ。
さっそく、人名録を取り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます