ゾフィーと廃太子
長い廊下を歩きながら、ゾフィーがくすくす笑う。
「だめじゃない、フランツル。ディートリヒシュタイン伯爵を、あんなに、興奮させちゃ」
「先生が悪いんだ」
フランソワはむくれた。
「先生は、軍務の重要さを、少しも認めて下さらない。オベナウス先生もね! ディートリヒシュタイン先生なんて、従軍経験もあるくせに」
「訓練の時間が増えて、先生方は、あなたを取られたような気がしているのよ、きっと。特にディートリヒシュタイン先生は、そう。彼は、貴方を、どこかの国の王様にしたいの」
優しく諭すように、ゾフィーは言った。
フランソワは、口を尖らせた。
「栄誉を得るなら、僕は、軍務から得たい。戦場の勇敢な働きによって、自ら勝ち取りたいんだ!」
「戦場……」
ゾフィーは身を震わせた。
「あなたが戦争に行くのは、私、いやだわ」
「ゾフィー! 君までそんなことを言う!」
「だって……」
「僕は、早く独立したいんだ!」
強い調子で、フランソワは断じた。
「僕はもう、18歳だ。先生方の保護から独立して、軍務に邁進したいんだ。それなのに、ディートリヒシュタイン先生ときたら、僕の独り立ちは、『身体的にも、道義的にも、知性的にも』ムリだっていうんだよ? ひどいと思わない?」
「知性的って……」
思わず、ゾフィーは吹き出した。
フランソワは、このウィーン宮廷で、最も聡明な王子だと言われているのだ。それは、彼女の夫の、F・カール大公と比べても、明らかだった。
軍人の中には、ぜひとも、実際の軍務で、ライヒシュタット公と行動を共にしたいと願う者もいた。年若い彼の、監督官を希望している貴族軍人も多かった。その中の一人は、「ライヒシュタット公は、もはや、充分な思慮を備えた、成人である」と、断言している。
ふっくらとした唇を、フランソワは強く噛み締めた。
「僕は、いつまでも、ハプスブルクに寄生していたくない。はやく、ライヒシュタットとして、独り立ちしたいんだよ」
「寄生だなんて、そんなこと、誰も思っていないわ!」
思わずゾフィーは叫んだ。
こんなに美しい王子が、美しい時を駆け足で過ごそうとしていることが、彼女には、たまらない思いだった。
寄生。
なんていやな言葉だろう!
彼に対し、そんなことを言う人間を、ゾフィーは、決して許さない。
彼女の剣幕に、フランソワは少し、怯んだようだった。
「やがてこの国を治めるのは、君の子だ、ゾフィー。僕は、君の子の、負担になりたくないんだ」
「ありえない、負担なんて」
強いて、ゾフィーは笑ってみせた。
すぐに眉間を曇らせる。
「それにあなた、フェルディナント大公のことを忘れているわ」
ハプスブルク家は、長男が跡を継ぐのが鉄則だ。だが、今上帝の長男、フェルディナント大公は、体が弱かった。宮廷の誰からも愛されてはいたが、とても一国の王となれる精神を有していなかった。
ゾフィーの夫、F・カール大公は、フェルディナントの弟である。王位継承権は、兄の次だ。
だが、フェルディナントが子を持つことはできないだろうと、医師団は危惧していた。
いずれにしろ、次世代は、F・カールの息子が襲うことになる。
ゾフィーの子が。
それなのに。
オーストリアに嫁いで5年。ゾフィーには未だ、懐妊の兆しがない。
それは果たして、ゾフィー一人のせいだろうか……。
万感の思いをこめて、ゾフィーは、フランソワを見つめた。
フランソワは、まっすぐにゾフィーを見返してくる。
澄んだ青い瞳が、眩しいほどの輝きを帯びていた。ゾフィーの目線の強さを、柔らかく吸い込み、そして反射してくる。
頭の芯が、痺れるようだった。ゾフィーは、体が動けなくなるような心地がした。
……この子だって、ハプスブルクだわ。
ぼうっとした頭の、どこかで考えた。
……だってこの子のお母さんは、
弟と姉。皇帝の、息子と娘。
二人は、どう違うというのだろう。
……義姉の、子。
「あのね、フランツル。今夜、夫は、帰りが遅いの。だから……、」
ゾフィーが言いかけた時だった。
「ライヒシュタット公」
歯切れのよい声が呼びかけた。
白の軍服に、赤いズボンの将校が歩いてくる。
額に斜めに流した前髪が、軽くカールしている。髪も目も、濃い色だ。肌の色が白く、細身で、すらりとしていた。
ドイツ人ではない。北欧系のようだ。
「ヴァーサ公!」
フランソワが叫んだ。
嬉しそうな、誇らし気な声だ。
「
「クツシェラ将軍に呼ばれて」
男は答えた。
にっこり笑って、フランソワを見る。
「いつも朝が早いのに、君は、元気がいいな」
「はい! 明日もよろしくおねがいします!」
フランソワの、声だけでなく、体まで弾んでいるように見える。全身から、喜びが沸き立っている。
好きで好きでたまらない気持ち。フランソワの、希望に満ちた好意を、ゾフィーは感じた。
軍務は、彼が長い間、望んでいた職務だ。新しい生活の中で得た、尊敬する将校なのだろう。
相手は、にっこりと笑った。包容力のある、優しい笑顔だ。
「ああ。明日はプラーターで……」
そこで、軍人……ヴァーサ公は、ゾフィーに気がついた。
「これはこれは、ゾフィー大公妃。お初にお目にかかります」
丁重に頭を下げた。顔を上げ、ゾフィーを見つめる。
「あなたのことは、亡くなった母から、聞かされておりました」
実は、ゾフィーとヴァーサ公は、従兄妹同士に当たる。母親同士が、姉妹なのだ。
なめらかな一連の動きが、止まった。
「近くで拝見すると、あなたは、……なんてあなたは……美しい」
彼の目の色が、一段と深い鋼色を帯びたことに、ゾフィーは気がついた。
下腹が、どくんと疼いた。
はしゃいだ声で、フランソワが尋ねる。
「クツシェラ将軍は、何かおっしゃっていましたか?」
「……」
「近日中に、僕からも、連絡を取らねばならないのですが」
「……」
「ヴァーサ公?」
びくりと、ヴァーサ公の肩が震えた。
不躾にゾフィーの上に据えていた目線を引き剥がし、フランソワに移す。
「将軍は、何もおっしゃっていなかったよ」
ぎこちない笑みを浮かべた。
「逆に、私の方から報告しておいた。君の活力は、素晴らしいって。ライヒシュタット公は、やる気に満ちていて、兵士たちの憧れの的だ! ってね」
「いえ! まだまだです!」
フランソワの頬が、真っ赤に染まっている。
憧れの人を見る目で、彼は、上官を見上げた。
なぜか、ヴァーサ公は、そわそわとし始めた。
「それではまた、明朝! 寝坊するなよ。今夜は早く寝ろ!」
「はい!」
直立不動で、フランソワは敬礼をした。
ちらり。
ヴァーサ公がゾフィーに視線を投げた。無礼なくらい、遠慮のない目線だった。
ゾフィーは、衣服を脱がされ、心の奥まで見透かされたような気がした。
しかし、全然、不快ではなかった。
不快どころか……。
「ゾフィー? ゾフィー!」
「え? あ、はい」
はっと、我に帰る。
フランソワが、心配そうに、彼女の顔を覗き込んでいた。
「どうしちゃったのさ。急にぼんやりしちゃって」
「あ……なんでもない」
無理に、ゾフィーは微笑んでみせた。
ほっとしたように、フランソワも笑った。
「ねえ、フランツル。あの人……」
「ああ、グスタフ・ヴァーサ公だよ。僕は、彼の連隊で、訓練をさせてもらってるんだ」
「グスタフ・ヴァーサ……」
これまで彼女は、軍務や軍人に、あまり興味を持たなかった。
確かに、ヴァイエルンにいた頃、
けれども、ゾフィーは、彼とは、初対面だった。
自分の上司について話せることが、嬉しかったのだろう。ここぞとばかり、フランソワがまくしたてる。
「彼は、スウェーデンの人だよ。王太子だったんだ。でも、クーデターがあって……」
その話なら、ゾフィーも聞いたことがあった。
そうか。
彼が、その、スウェーデンの廃太子……。
「きれいなドイツ語を話していたわ」
「オーストリアに来てから、随分経つからね! 彼は、第二の、オイゲン公だよ!」
ほとんど跳ね上がらんばかりにして、フランソワは言った。
オイゲン公。
公は、フランスの貴族だった。だが、長男でなかった為、フランスでは、出世の道が鎖されていた。彼は、オーストリアに来て、軍に入った。
オスマン・トルコによる第二次ウィーン包囲を皮切りに、数々の戦いで、オイゲン公は、オーストリアを勝利に導いた。
住居であった美しいベルヴェデーレは、彼の死後、王室の宮殿となっている。
オイゲン公は、幼い頃から、フランソワの理想の軍人なのだ。
「あの……、彼……ヴァーサ公には、……奥様はいらっしゃるのかしら」
ためらいがちに尋ねると、フランソワは眉間に皺を寄せた。
「知らないの、ゾフィー。去年、オランダ王の娘との縁談があったんだけど、破談になっちゃったんだよ」
「破談?」
「そう。スウェーデンのカール14世が、横槍を入れてきたんだ。
歯切れの悪い言い方だった。
「だから、今、ヴァーサ公は、失意の人なんだ」
「失意の人……」
その言葉が、ゾフィーの胸を刺した。
「うん。肖像画を見て、お互い、すっかり、その気になっていたようだよ! スウェーデン王もひどいことをするよね。……まあ、僕は、あんまり、あの人の悪口を言いたくないけど」
今のスウェーデン王カール14世は、廃太子であるグスタフ・ヴァーサとは、何の繋がりもない人だった。
クーデターでヴァーサの父の王位を廃したのは、父の叔父だった。
このカール13世は、跡継ぎを残さずに亡くなった。だが、王位は、ヴァーサの元には戻って来なかった。
新たにスウェーデン王カール14世となったのは、フランスの軍人だった。ジャン=バチスト・ペルナドットは、かつて、フランスの軍人だった。スウェーデン側に乞われて、王位を継いだ。
さっぱりとした顔を、フランソワは上げた。
「彼には、王位なんか必要ない! だって、ヴァーサ公は、素晴らしい軍人だもの。勇敢で高潔な、オーストリアの将校なんだ。あの人の下で学べて、僕は本当に
晴れやかな表情だった。
白い肌に、赤く上気した頬。癖のある金色の髪。
ゾフィーが初めて会った時の、13歳の顔が、美しい18歳のプリンスの向こうに、二重写しになって見えた。
「さてと。ゾフィー、君の部屋へ行こうか。軍の話の続きなら、まだまだ、たくさんあるんだ……」
軍での新しい経験を話すのが、楽しくてたまらないようだ。
軽くゾフィーは、フランソワを睨む真似をした。
「ダメよ、フランツル。あなた、明日は早いのね? そういうことは、ちゃんと言わなくちゃ」
「大丈夫だよ。少しくらい、寝なくても。人間は、3時間寝れば、十分なんだ!」
「だめだめ、特に若い人は! 脳が育たないわよ」
「やだな、ゾフィー。まるで、ディートリヒシュタイン先生みたいなこと、言ってる」
「貴方の奥様によろしくね!」
笑いながらゾフィーは言った。
「貴方の奥様」というのは、二人でいる時の、ディートリヒシュタイン先生の呼び名だ。フランソワは、「心配性の老婦人」と呼ぶこともある。
「ヴァーサ公もおっしゃってたじゃない。遅刻はだめよ。今夜は、早くお休みなさい」
「えーーー」
フランソワは不服そうだった。
しかし、彼にとって、上官の言うことは、絶対だ。ゾフィーは、それを知っていた。
フランソワは跪いて、ゾフィーの手に、おやすみのキスをした。
素直に、自分の部屋へ戻っていった。
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