幼い恋心


 「……6月17日、ローバウ島のナポレオン砦を経て、フランス軍の橋が完成した。ドナウはもはや、河として、ウィーンを守る機能を失った。

 7月5日夜、敵は、嵐を衝いて渡河作戦を敢行した。フランス軍18万。対して、わがオーストリア軍は、12万。頼みの綱は、ヨーハンの別働隊だった。

 だが、ヨーハン軍は、ウジェーヌ・ボアルネの軍により、ラーブで、てひどい敗北を喫していた。すみやかなる合流は、不可能だった。


 ここが、私の、作戦の甘さだった。


 一方、フランス軍には、ウジェーヌ軍が合流し、さらに膨れ上がっている。

 もはや、負けは見えていた。私は、直ちに、全軍に退却を命じ……」




 カール大公は、ふと、言葉を途切らせた。

 彼は、1809年の、ヴァグラムの戦いについて、姪の息子フランツに講義をしていた。

 そのフランツが、戸惑ったような顔をして、彼を見つめていることに気づいたからである。


 大公は、参照してたメモを、下に置いた。

「質問かね?」


「大公は……」

青年は、言い淀んだ。思い切ったように、続ける。

「軍の指揮官として、失敗をお認めになるのですか? 敵を前にして、軍隊に、退却を命じられたのですか?」


「ああそうだよ」

穏やかに、カール大公は答えた。

「わが軍に、これ以上、犠牲を出すわけにはいかないと判断したのだ」


 フランソワは、非常なショックを受けたようだった。

「もし大公と同じ状況にあったとしたら、僕は絶対に、自分の失敗は認めません」


カール大公は微笑んだ。

「なぜ、そんな風に思うんだね?」

「それが、軍の指揮官として、あるべき姿だと信じるからです」


「Reculer c'est se perdre.」

言って、カール大公は、にっこりと笑った。

「撤退は、自分自身を失わせる。……ナポレオンの好んだ言葉だね」


「Je ne veux pas avoir tort!(私は、間違っているとは思わない)」

フランソワが答えた。


「なるほど」

カールは答えた。

「だが、配下の兵士を、無駄に死なせてはならぬ。私はそう、思うのだ」


「それはそうですが……」

きっと、フランツは顔を上げた。

「僕は、自分の部下から、なめられたくありません。軍の規律は、守られねばならぬのです」


 強烈な自意識が感じられた。人の……特に、年長者の意見は、一切容れぬという、強い自我だ。人によってはそれを、強情だと言うだろう。


 ……それは、彼に、自信がないからではなかろうか。

 今の彼の地位を考えれば無理も無いことだと、カール大公は思った。


 れっきとした大公女の息子でありながら、その身分は、大公の下の、公爵だ。

 18歳になったのに、未だ独立を許されず、家庭教師の監視下にある。

 長らく将校の一番下の位にいたのが、去年、ようやく、昇進した。それでもまだ、大尉だ。その上、なかなか、実際の配属先が決まらない……。


「君はもう、解放されるべきかもしれないな」

ぽつんと、大公は言った。

「解放?」

「そうだ。政府宰相の監視から、そろそろ、解放されてもいいのではないか。君は、いったい、何をしたいのだね?」


 返事は、早く、揺るぎがなかった。

「僕は一刻も早く、実戦に赴きたい。砲弾の飛び交う中で、命を賭して、戦いたいのです。戦場こそ、ぼくの居場所です」

「君は、何の為に戦うのか」

「人々の為。人々の幸福と、正義のためです」

「もしオーストリアが、フランスと敵対したら、どうするか」


 我ながら、意地の悪い質問だと、カールは思った。

 だが、聞かない訳にはいかない。大事な問いだった。

 今回も、返事は素早かった。


「僕は、父の遺言を守ります」


 それはつまり、フランスとは戦えない、ということだ。

 ……全ては、フランスの人々のために。

 それが、ナポレオンの遺言だったから。


 カール大公は、ため息をついた。

 ……やはり、家庭教師の言うように、ウィーンに駐留させておくしかないのか。

 ……これほどの逸材を。



 一般に、皇族の子弟は、プラハ(現在のチェコ)勤務から、その軍歴キャリアをスタートさせる。

 だが、家庭教師は、フランソワを、ウィーン駐留軍に配属するよう、皇帝に、進言していた。


 ディートリヒシュタイン伯爵は、本音では、教え子を軍務につけること自体を、否認していた。彼が教え子に、何を望んでいるのか、カール大公にはわからない。ひどい咳を心配していたから、あるいは、体調を慮ってのことかもしれない。


 だが、ディートリヒシュタインは、いつも最後には、生徒の主体性を重んじる。

 ウィーン駐留は、彼の、ぎりぎりの譲歩なのかもしれなかった。


 皮肉にもそれは、宰相メッテルニヒと同じ方向性を指し示していた。フランツのメッテルニヒと、味方ディートリヒシュタインが、ウィーンに彼を留めるという、同じ意見を出しているのだ。


 ……だがしかし、ウィーンに、フランスが攻めてきたらどうなるのだ?

 カール大公にできることは、二度と再び、ウィーンに、敵が攻め入らぬよう、神に祈るのみだった。




 「お父様!」

 明るい声がした。

 娘のマリア・テレジアが、駆け込んできた。

「もう、講義はおしまいのお時間よ! 私、ライヒシュタット公に、お話があるの!」


「アルブレヒトは、どうした?」

 大公は、苦い顔で娘を見た。

 弟のアルブレヒトには、あれほど、姉をしっかり見張っているように言ってあるのに。


「知らないわ! 知らないうちに、姿が見えなくなったのよ!」

おおかた、控室に取り残されているのだろうと、カールは思った。こっそり抜け出してきたのは、姉の方だ。


「僕に何か御用ですか、マリア大公女」

 彼の娘の方を向いて、フランツが尋ねた。柔らかい微笑を浮かべている。自分の失敗は、絶対に認めないと言い張っていた時とは、別人のようだ。

 その様子は、実に、王子らしかった。育ちの良い貴公子、そのものだ。


 マリアの頬が、ぱっと赤くなった。

「ライヒシュタット公。来年の新年は、御用がありまして?」

13歳の娘は、こまっしゃくれた口調で尋ねる。

「いいえ。特には」

真面目な顔で、フランツが答えた。

「では、わたくしを、馬車に乗せて下さいますか?」


 年明けから、皇妃の聖名祝日(本人が命名されたのと同じ名の聖人の祝日)までの間、皇族たちは、お祭り気分が続く。プラーターへ馬車で繰り出したり、劇場へ行ったり、城壁に沿って散歩をしたりする。

 その楽しい時期に、自分と同じ馬車に乗ってくれるよう、マリアは、頼んでいるのだ。


「よろしいですよ。ご一緒しましょう」

 にっこり笑って、フランツは了承した。

 マリアは躍り上がった。

「まあ、嬉しい! きっと! きっとよ、ライヒシュタット公!」

「はい。きっとです」

「約束です」

きっとして、小指を突き出した。


「おいおい」

思わずカールは、声を掛けた。

「指切りなんて、言質を取るような真似は、失礼じゃないか」

「そんなことはないわ。ね、ライヒシュタット公?」

「僕は一向に、構いませんよ」

白皙の貴公子は、優雅に微笑んだ。


「ほら!」

 得意そうにマリアが胸を張った。

 負けずにカールは言い募る。

「あんまりしつこいと、公から、嫌われてしまうぞ」

「だってお父様。私は、どうしても、ライヒシュタット公の馬車に乗りたいの!」

アルブレヒトの馬車は? あいつは、お前と一緒の馬車に乗りたがっていたが」

「嘘よ!」

短く、だが、断固として、マリアは答えた。

「あの子は、私とだけは乗りたくないって、言ってたわ!」


「しようのないやつだな。じゃ、お母さんの馬車はどうだ」

「お母様は、下のチビちゃん達と一緒に乗るの。あのね、お父様。私は、に乗りたいの。あの黒塗りの、素敵な馬車にね!」


「……お父さんのじゃ、ダメか?」

「え?」

マリアは、鼻白んだ顔をした。


 カールは、咳払いをした。

「わかった。彼の馬車に乗るんだな? お父さんが、証人になってやる」


 指切りなどさせたくはなかった。たとえ小指といえど、よその男と接触してほしくなかったのである。

 それは、カールが、父親だからだ。

 相手が、ナポレオンの息子だからという理由では、決してない。


 年明けまでには、まだ、時間がある。馬車の件は、そのうちに、うやむやにさせてしまえばいい。



 見渡すと、フランツの姿は消えていた。マリアが膨れて、カールを睨んだ。


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