シェーンブルンのあずまやで


 「お前、どう思う?」

同僚のヘルムートに囁かれ、ホルガーは首を傾げた。

「むしろ、よく、大尉で我慢してると思うよ。その前は、長いこと、軍曹だったんだろ? 12歳から、一度も昇進なしで」


「だが、お前はどうだ、ホルガー。お前、幾つになった?」

「俺は、28歳だ」

「そして、まだ、軍曹のままだ」

「ああ。俺は、歩兵上がりだからな。ここら辺りが終着だろう」


「お前、何度、従軍した?」

「何度? 数えきれないくらいさ」

「お前は、敵の将校を殺した褒美に、昇格したのだろう? 命がけで、敵陣に切り込んだからだ」

「そうだ」

「だが、が、どういう戦功を立てたというんだ? それどころか、彼は、一度だって、戦場に出たことがないじゃないか」

「仕方ないだろ。皇帝の孫なんだから」

「ナポレオンの息子だ。敵国の親玉の子なんだぞ」

「確かにそうだが……」


「だから、俺は、仕掛けをした」

「仕掛け?」

の馬に、」

「おい、ヘルムート!」


 その時、ラッパの音が、高らかに鳴り響いた。

 新しい大尉のお出ましだ。

 ホルガーは、直立した。

 前を向いたまま、ヘルムートが、にやりと笑った。


 教練場に面した馬場の門が、ぱっと開いた。

 だが、いつまで待っても、馬に乗った将校は現れない。

 兵卒たちが、ざわめき始めた。


 甲高い馬の嘶きが聞こえた。

 興奮しきった鳴き声だ。

 荒々しい蹄の音がして、白い馬が走り出てきた。鞍の上の将校をふるい落としそうな勢いで、突っ走る。


 整列していた兵士達は、あっけにとられた。

 馬は弾丸のように、教練場を走っていった。

 蹄に蹴散らされ、土埃が上がる。


 馬上の大尉は、姿勢を低くし、腰を浮かせている。時折、力いっぱい、馬を両脚で締め付けている。


 頃合いをみて、大尉は、手綱をぐっとしめた。馬は後ろ足で立ち上がった。乗り手の位置も、鞍ごと、後方にずれる。

 だが、彼は、手綱を離さなった。


 馬が前足を下ろした瞬間に、鞭が、空を引き裂いた。

 しかし、馬が打たれることはなかった。鞭は、その音だけで、充分な効果を上げた。

 急カーブを描き、馬は、方向転換する。

 地面すれすれに傾き、ほとんど、地に足をこすりそうになりながら、騎手は馬を立て直した。


 今までの暴れ方が嘘のように、馬は鎮まっていた。

 徐々に走るスピードを落としていく。


 出てきた時とはまるで違う、穏やかなギャロップで、もどってきた。

 見事と言うしかない、手綱さばきだった。


 居並ぶ兵士たちの間から、ぱちぱちと拍手が沸き起こった。

 拍手は次第に大きくなり、まるで雷のように、教練上に鳴り響いた。

 馬上で胸を張り、優雅なギャロップで近づいてくる大尉は、美しい絵のようだった。


 兵士たちは、熱狂した。




 「ちっ。鞍がずれやがった」

ヘルムート軍曹が舌打ちをした。

「お前……まさか……」

ぎょっとしたように、ホルガーが、同僚を振り返る。


 ヘルムートは、苦虫を噛み潰したような顔で、拍手をしていた。

「ああ。小石を入れておいた。鞍の下に」

「おい! 危険じゃないか! 馬は神経質なんだぞ!」

「ああ、そのようだな」

「やっていいことと、悪いことがある! しかも、彼は、我々の上官じゃないか!」

「ふん。あんなの、訓練生に過ぎんよ。宮廷のお飾り騎兵になるのが、せいぜいだ」

吐き捨てるように、ヘルムートは言った。







 「将軍! ヴァーサ公!」

金髪の、背の高い大尉が追いかけてくる。


 早足で歩いていたグスタフ・ヴァーサは、立ち止まった。

「ライヒシュタット公。何か用か?」

「将軍。僕は、教えてほしいのです。つまり、どのタイミングで、号令をかければ、一番、効果的かということを」


 きらきらした目で見つめながら、年若い青年が尋ねた。白い肌に、高く通った鼻筋。まるで女のような、美しい顔立ちをしている。


「号令?」

 ヴァーサは眉を顰めた。

 ……まだ自分の連隊を任されてもいないのに?

 それは尚早であるように、ヴァーサには、思われた。


 だが、務めて愛想よく、彼は答えた。

「どのように素晴らしい指令であっても、兵士たちに聞こえなければ何にもならない。君は、少し、声が小さいようだな」

 指摘され、ライヒシュタット公は、はにかんだように、俯いた。


 ……大声が出せないのも、無理もない。ずっと宮殿の奥で育てられたのだから。

 ……大事に大事に。

 ……まるで姫君のように。外部と隔てられて。

 ヴァーサは、腹の中で吐き捨てた。



 彼が10歳の時に、父は、王位を奪われた。一家は、スウェーデンを追われた。

 間もなく父は精神に異常をきたし、両親は離婚した。

 それから先は、幼いヴァーサにとって、苦難の逃亡生活だった。

 ……。



 ヴァーサは、口元の筋肉に力を込めた。硬い笑みを、形作る。

「特に、馬に乗りながらの号令は、腹に力を入れる必要がある」

「はい」

 素直な返事だった。明日から早速、実行に移すのだろう。


 ヴァーサは苛立った。

 この青年が、懐いてくるのが、不快だった。



 彼は、ナポレオンの息子だ。ヴァーサの父が、クーデターを起こされたのは、反ナポレオンを貫いたせいだ。強大な権力に逆らったがために、日和見の臣下により、父は、王座を失った。


 父の後、王位を継いだ父の叔父カール13世は、ヴァーサが19歳の時に亡くなった。叔父の子どもは、みな、夭折している。


 しかし、亡き国王カール13世の甥の子である……そして、かつて王太子でもあった……ヴァーサが、故国スウェーデンに呼び戻されることはなかった。


 現在のスウェーデン王カール14世は、その名を、ペルナドットという。ナポレオンとともに、かつて革命の領袖りょうしゅうであった男だ。町の事務弁護士の息子で、ナポレオンとともに成り上がり、やがて、彼の下に組み込まれた。


 この男ペルナドットが即位したせいで、連綿と続いてきたホルシュタイン=ゴットルプ王朝は、断絶してしまった。

 そしてヴァーサは、永遠に、母国スウェーデンの土を踏むことができなくなってしまった。



 全ては、ナポレオンのせいといえた。

 父が王位を廃され、一家が国を追われたのも。

 ヴァーサが、スウェーデンへ帰る機会を、永久に喪ったのも。


 ……それなのに、こんなに馴れ馴れしく接してきて。

 ……ナポレオンの息子は、この俺をも、自分の思い通りに動かせると思っているのか。


 だが同時に、この若者は、オーストリア皇帝の孫なのだ。亡命してきたヴァーサを擁護し、軍に取り立ててくれた、皇帝の。

 皇帝の孫の機嫌を、損ねるわけにはいかなかった。



 心の奥底のどす黒い気持ちに、ヴァーサは蓋をした。

 力いっぱい形作った笑みを、なんとか自然に見せようと努力した。


 ヴァーサの心も知らず、青年は、相変わらず、憧れと信頼を満載にした瞳で、彼を見つめている。

「長い隊列の場合は、列のどの辺りで、号令をかければよろしいでしょう」

 重ねて問いかけてきた。


 ……いきなり、そんなに大隊を任されると思っているのか。

 ぐっと、ヴァーサは腹に力を入れた。

 ……朗らかな声を。

 ……優しい、頼りがいのある上官として。


「それは、一言では言えないよ。兵士の数や、歩兵と騎馬兵でも、違いがある」

「はい」

素直な返事だ。ヴァーサへの憧れが、痛いほどに伝わってくる。


「……」

 限界だった。

 大きく、ヴァーサは息を吸い込んだ。

「詳しくは、明日、朝の閲兵が終わった時にでも教えよう」

明日は、さっさと帰ってしばえばいい。


「明朝……」

ライヒシュタット公は、今すぐにでも、答えが知りたいようだった。


 露骨に、ヴァーサは、時計を出してみせた。

「私は、この後、用があるのだ」

「失礼しました!」

すぐに、彼は、敬礼の姿勢を取った。

「お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした!」


 こういうところに、育ちの良さがにじみ出ている。

 それがまた、ヴァーサの癇に触る。

 口を横に引き結び、彼は、頷いてみせた。革靴の踵を鳴らし、足早に、その場から立ち去った。


 背後から、若い大尉が、直立したまま、彼を見送っているのが感じられる。背中に、向けられる視線が、熱い。

 その熱が、素直さが、若さそのものが、ヴァーサは、厭わしかった。





 「また、フランツと出かけるのか?」

夫のF・カール大公が声を掛けてきた。

「ええ」

ゾフィーは答えて、首元のスカーフをきゅっと結んだ。

 鏡を覗き込み、頬紅のチェックをする。


 夫が、後ろに立った。

「今日はどこに? 芝居か?」

「いいえ。シェーンブルンへ行こうと思いますの」

 少なくともそれは、嘘ではない。


「雨が降らないだろうか。朝から曇りがちのようだが」

「平気ですわ。庭園には、東屋あずまやもありますし」

「ああ、お前のお気に入りの隠れ家か」

訳知り顔で、F・カールは答えた。


 ゾフィーは、むっとした。

 彼女のことなら何でも知っているという、夫の態度が厭わしかった。

 ……私のことなんか、何も知らないくせに。


 夫が、彼女の肩に手を置いた。

「フランツと、庭園を散策するのだな?」

 背後から、鏡を覗き込んできた。鏡の中の彼女の目を、捕らえようとする。

「ええ」

微妙に目線を反らせ、ゾフィーは、彼と目を合わせることを避けた。


 F・カールは、ため息をついた。

「そうか。気をつけていってくるがいい」

「はい」

「くれぐれも雨に濡れないように。今頃の雨は、体に毒だ」

「わかっていましてよ」

ぴしゃりと、ゾフィーは答えた。







 庭園のどこかで、ひときわ高く、鳥が囀った。

 狩猟場になっている森林地区から、ぱあん、という破裂音が聞こえる。


 花壇を抜けた噴水の先、樹々の高い梢に覆われた東屋から、一人の貴婦人が飛び出してきた。

 肩に掛けたショールが脱げかけ、スカートの位置がずれている。

 真っ赤な顔で、後をも見ずに、細い小道を駆けていく。

 覚束ない足取りだ。


 ゆっくりと、東屋から、男が出てきた。

 白い制服に、高級将校の穿く、赤いズボンを着用している。

 男は、婦人が走り去った小道を、いつまでも見つめていた。

 ……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る