我らが氷であるゆえに


 フランソワとゾフィーは、馬車で、ウィーンの町を散策していた。

 街路樹の葉はすっかり枯れ落ち、秋が一層、深まっている。

 暖かい毛皮の内側で、ゾフィーは身を竦めた。


「マリー・ルイーゼ様は、とうとう、ウィーンにいらっしゃらなかったわね」

延々と続くフランソワの軍務の話を遮り、彼女は言った。

「まだ、スイスにおられるのかしら」



 ナイペルクの死後、マリー・ルイーゼは、弱った体と神経を休めるため、スイスに滞在していた。ジュネーヴから、フランスにほど近いグラン・サコネにも滞在したが、パリの政府は、特段に神経を尖らせることもなかった。


 ナイペルクの未亡人かつての皇妃は、もはやフランスの脅威ではなくなっていたのだ。

 そのナポレオンの息子と違って。



「スイスまで来ているのなら、もう少し足を伸ばせばウィーンなのに」

フランソワは、不満げだ。

「スイスの空気より、ウィーンの家族の、温かい笑顔を見たほうが、お母様の健康には、ずっといいのにね!」


「仕方がないわ。本当に悲しい時は、人に顔を見られたくないものよ。たとえ家族であっても、ね!」

ゾフィーの口調は、優しく、宥めるようだった。



 マリー・ルイーゼの旅には、ナイペルクとの間にできた、二人の子どもが同行していた。彼らと共に、ウィーンに来れるわけがない。また、間近に迫ったクリスマスも、彼女は、パルマで過ごすつもりだと言ってきた。自分の子どもたちと、そして、ナイペルクが前の結婚で得た子どもたちと一緒に。



 「ゾフィーは優しいね」

ため息をつくように、フランソワがつぶやいた。

「他の人は、みんな、お母様のことを、悪く言うのに」

 淋しそうな声に、ゾフィーは、胸を衝かれた。

「私が優しいんじゃないわ。フランツルが、優しいのよ」


 ……本当になぜ、マリー・ルイーゼ様お義姉様は、こんなに健気な子を、一人にしておけたのだろう。

 ……私が、もし、子どもを授かったなら、

 フランソワを見るたび、彼女は、決意を新たにする。

 ……自分は決して、その子から、目を離すまい。一人にはすまい。

 ……でも、その子は、

 ……。



 ゾフィーの逡巡に、フランソワは気づかない。涼やかな目を上げ、微笑んだ。

「お母様は僕に、パリの流行だというマフラーと、それから、ステッキを送って下さったんだよ」

「まあ、ステッキ! さすがお母様ね! 彼女は、貴方のコレクションを、よくご理解されているのね!」

 嬉しそうに、フランソワは頷いた。


 ……本当にこの子は、

ゾフィーは思った。

……お母様が、大好きなんだわ。


 フランソワは、母親を、愛し続けている。

 長年に亘って裏切られていたことがわかっても、なお。


 ゾフィーは、ため息をついた。

「私も、貴方のような息子が欲しいわ」

「ゾフィーは、僕のママンだよ」

甘えた声で、フランソワが言った。

「なによ。私の可愛いお爺さん」

二人は顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。





 馬車は、城門を潜り、グラシを走り始めた。

 石畳とは違った、草地の柔らかな振動が心地よい。


 「彼の先祖のグスタフ2世アドルフは、」

 話は、フランソワの上官、ヴァーサ公に終始していた。

 彼の話題を、ゾフィーが喜んだからだ。


 フランソワもまた、ヴァーサ公の自慢をしたくてしようがないように見受けられた。


「17歳で即位したアドルフヴァーサ公の先祖は、30年戦争で、『北方の獅子王』と呼ばれて、列強から恐れられていたんだ。父上も、グスタフ2世のことは、称賛していたんだ!」


「……ナポレオンが?」

ためらいがちに、ゾフィーはその名を口にした。

 フランソワにとって、父親がいい影響を与えることはない。直感で、彼女はそう、悟っていたからだ。


「そうだよ!」

 しかし、ゾフィーの心に、彼は気がつかなかった。屈託なく続ける。

「でも、それは、王一人の力で成し遂げられたものではなかった。アドルフには、名宰相がついていたんだ」


「あら! 名宰相ですって?」

「オクセンシエルナだよ。11歳年上の彼は、アドルフが即位した時には、28歳。若いこの二人は、数々の勝利を、スウェーデンに齎すんだ!」

「ステキね」

「うん! アドルフは炎のような男だったけど、反対に、部下のオクセンシエルナは、常に広い視野を持っていた」


 体を前に傾げ、フランソワは、ゾフィーの顔を覗き込んだ。是が非でも、話を聞いてもらいたい時の、彼の癖だ。


「ある時、軍議で、アドルフは部下達に、『お前たちは、氷のように冷静すぎる!』って怒ったんだ。すると、オクセンシエルナは、『我らが氷であるがゆえに、陛下は燃え上がらないでいられるのですぞ』って、諫言したんだって!」

「まあ!」


 真っ赤になり、怒りまくる青年王。

 反論できず、一塊に縮こまってしまった家臣団。

 その時、一人立ち上がった者がいた。

 若き宰相が、冷静に、王を諌める……。


 その情景を想像し、ゾフィーは、くすりと笑った。

「アドルフ陛下、かたなしね」

「そうだね!」

 フランソワの顔中が、笑みで満たされた。

 急に、その顔が、翳った。

「信頼できる部下。何でも言い合える人……親友。そういう友が、僕も欲しい……」


 昔から、フランソワが言っていることだった。

 それが皇族でも貴族でも、それとも庶民であっても、彼には全然構わないようだった。むしろ、庶民であることを望んでいる気配が濃厚だった。


 ナポレオンの26元帥の中には、元商人や、石工・製粉・皮革などの元工業従事者、宿屋の倅などがいる。



 ……でも、は、庶民などではない。元王族、廃太子だわ。

 それはどうだろうと、ゾフィーは思った。


 国を追われ、ヨーロッパを彷徨っている間に、は、庶民にも負けないほどの知恵とたくましさを身につけたのだろうか。

 新しい思想を受け容れることのできる力を。革命をも辞さないほどの、無謀さと勇気を。

 は、そういう、新しい人なのだろうか。


 それとも、高貴な血は、あくまで、皇族や貴族の為に戦おうとするのだろうか……。

 は、ゾフィーの属する、オーストリア皇室の守護として……。



「……だといいと思うんだよ」

「え、なんですって?」

自らの思いに沈んでいたゾフィーは、はっとした。


 咎めるような目を、フランソワは、彼女に向けた。

 だがすぐに、気弱そうに、その目を伏せた。


「ヴァーサ公がそうだったらいいのにな、って言ったんだよ。上官というだけでなく、個人的にも、僕の先輩……未熟な僕を導いてくれる友人に、なってくれたら……」

「ヴァーサ公!」


 話題が、昔話に移ったので、油断していた。

 フランソワの口から、いきなり出たその名に、ゾフィーは、度を失った。

「なぜ!?」

頬が熱くなっていくのを感じる。


 ゾフィーの剣幕に、フランソワは、驚いたようだった。

「なぜって……ヴァーサ公は、僕より12歳年上だし……アドルフとオクセンシエルナと同じくらいの年齢差だろ? ちょうどいいと思うんだ」


ゾフィーに負けず劣らず、フランソワの顔が赤く染まった。

「それにヴァーサ公は、母国での王太子位を廃されて、オーストリアへ来た人だ。フランスから来た、僕と同じだ! 彼は僕のことを、よくわかってくれる筈だ!」


「……そうね。確かに、よく似た境遇だわ」

用心深く、ゾフィーは答えた。

「でも、彼は少し、強引過ぎないかしら」

「強引?」

フランソワは目を丸くした。

「そんなことは、全然ないよ。いつもとても紳士的だ。将校達の信望も厚い」

「そうかしら」



 不意に抱き寄せる強い腕。

 強引に顎を上向かせ、

 頬を挟む、長い指。革手袋の匂い。

 そして、

 ……唇を。



「なんだよ、ゾフィー。いつも、彼の噂ばかりしているくせに。ヴァーサ公は、素晴らしい軍人だ。僕は、彼を、尊敬してるんだよ!」


 きらきらと輝く、青い瞳が眩しかった。

 ゾフィーは、フランソワから目をそらせた。






 王宮ホーフブルクに戻ると、意外な人が出迎えた。

「おかえり、ゾフィー。フランツも」

ゾフィーの夫、F・カール大公だった。


「ただいま、叔父さん!」

元気よく叫んで、フランツがキャリッジから飛び出す。

「ごめんね、叔父さん。大事な奥さんを連れ回しちゃって」

「おいおい。叔父さんは、ないだろう?」

「だって、僕の叔父さんじゃない」


 F・カール大公は、マリー・ルイーゼの弟だ。フランソワの、9歳年上でしかない。子どもの頃は、そして今でも、彼の、遊び仲間だという。


 フランソワは、反対側に回った。甲斐甲斐しくゾフィーに手を貸して、馬車から下ろした。

「今日は話を聞いてくれて、ありがとう、ゾフィー」

「楽しかったわ、フランツル」


 フランソワは、F・カールを振り返った。

「叔父さんも、大切な奥方を貸してくれて、ありがとう!」

「いやいや。全然構わまいよ。いい気晴らしになってるみたいだから。お前といると、ゾフィーの顔色は、とても晴れやかじゃないか」


 突っ立ったまま、F・カールは、ゾフィーを見た。

 ひどく照れくさそうだった。


「……」

無言で夫の脇を通り、ゾフィーは、居室に向かった。




 馬丁が、馬具を片付け始めた。

 「フランツ」

馬の首筋を撫でて、何か話しかけている甥に、F・カールは声をかけた。


「何?」

振り返った表情は、無心で、穏やかだった。

「……」

しばし、F・カールは、その顔を見つめた。


「何か用ですか? 叔父さん!」

「叔父さんって言うな!」

9歳年上のF・カール叔父は、反射的に言い返した。

「だって、叔父さんじゃん」


 いつものやりとりだ。姉の息子は、にやにやしながら、彼を見ている。

 F・カールは、言葉に詰まった。


「お前を、……俺は……、誘おうと思ったんだ」

「誘う? 僕を? 何に誘ってくれるのさ?」

怪訝そうに、フランソワが尋ねる。


 そこから先は、すらすらと言葉が出てきた。……まるで、それが目的で、ここに来たとでもいうように。


「馬の種付けだ。栗毛のメスが、季節外れの発情をしてな。ありゃ、厩舎のオスの、どれかが誘ったに違いない。そいつには気の毒だが、可愛いインランちゃん栗毛のメスは、イキのいいオスのいる牧場に連れて行くことになった。どうだ、フランツ。俺と一緒に、種付けを見物に行かないか?」


「遠慮しとく」

にべもない口調で、甥は答えた。

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