温泉の勧め


 「おい、そこ! 手が止まってる!」

 赤いズボンの将校が叫んだ。

「ちっ」

ヘルムート軍曹は舌打ちをした。


 ホルガー軍曹と二人、重い砲身を担ぎ上げる。

 武器の運搬、組み立て訓練中だった。

 細かな雨が降っていた。


「早く! そんなことでは、火薬が湿気ってしまうぞ!」

赤いズボンの高級将校から、容赦ない下知が飛ぶ。


 寒い朝だった。しもやけのできた手が、かじかむ。

 先を歩くヘルムートの手が、つるりと滑った。

 思わず、息を呑んだ。

 こんな泥地で、大切な武器を落としたら、それこそ、鞭打ちものだ。


 オーストリア軍にも、プロイセン流のスパルタ教育が入り込みつつあった。

 軍曹ならまだしも、歩兵に至っては、まるで、牛馬のように過酷に扱われていた。


 誰かが、横から、すっと手を出した。

 落ちかけた砲身の真ん中を、力強く支える。


「……」


 ライヒシュタット大尉だった。

 白い制服が、泥だらけになっている。

 あちこちで、兵卒たちが、武器を運ぶのに、手を貸してきたのだ。


「急げ」

 言葉少なに、彼は言った。

 冷たい雨の中なのに、まるで、寒さを感じていないように見えた。

 苦役でしかない訓練に、神聖な任務のように、従事している。まじめに、骨惜しみせず、二人の軍曹に力を貸す。


 降りしきる雨の中、三人は、黙々と、武器を運んだ。







 「ほれ、また、間違えた!」

生徒が書いているノートを覗き込み、ディートリヒシュタインが指摘した。


「え? どこ?」

そんな筈はないとばかり、生徒が問い返す。

「自分で探しなさい」

「ええっ?」


 フランソワは不平そうに唸った。今書いた箇所を、まんべんなく見つめる。

 彼には、間違いが見つけられなかったようだ。そのまま、次のパラグラフを書き始める。

 ディートリヒシュタインは、ため息をついた。


「先生。僕、独立したいんです」

俯いてペンを走らせながら、フランソワが言った。

「僕はもう、先生がおっしゃるほど、子どもではありません。思慮分別も、それなりについてきました。僕は、独立して、軍務に邁進したいんです」




 皇帝は、孫を、実際の軍務につけるつもりでいた。候補地として、プラハが上がっている。


 ウィーンを出て、プラハで軍務につく。

 それは、フランソワにとって、解放を意味した。

 ハプスブルク宮廷からの。

 メッテルニヒの監視からの。

 息苦しい、「高貴な囚人」としての、捕虜生活からの。


 それなのに、家庭教師は、彼の独立に、猛反対していた。


 軍務に就くということは、フランソワが独立するということだ。ディートリヒシュタインら家庭教師の任務は、終わる。

 彼らの代わりは、軍人が担うことになるだろう。軍での教育。ナポレオンの息子への、警護と監視。そして、ライヒシュタット家の家政全般は、全て、軍籍にある者の手に委ねられる。



 密かに、ディートリヒシュタインは、グスタフ・ナイペルクに話を持ちかけた。フランソワと共に軍に入るよう、説得したのだ。


 グスタフは、故ナイペルク将軍マリー・ルイーゼの2番めの夫が、前の結婚で得た三男である。長いこと、フランソワの傍らにあり、遊び友達でもあった。そしてなにより、亡父ナイペルクとディートリヒシュタインは、古い友人同士であった。


 グスタフに、かつての教え子フランソワと、自分たちとの橋渡しをしてもらおうと、ディートリヒシュタイン考えた。そうすれば、自分たちは、グスタフに指示を出し、プリンスを守ることができる。


 ディートリヒシュタインは、民衆や、年若い軍人たちの、無責任な熱狂が心配だった。

 また、外国の政党や暗殺者が近づきやすくなるのも、心配だ。

 このところ治まってはいるが、彼の咳が心配だった。主治医のシュタウデンハイムは、依然、慎重な生活を推奨している。


 しかし、グスタフ・ナイペルクは、プリンスと共に軍へ入れ、というディートリヒシュタインの説得を断った。

 ……プリンスと一緒にいると、自分まで、スパイに行動を探られてしまう。それでは、居心地が悪い。


 この軟弱な親友の息子グスタフは、ディートリヒシュタインに対し、そう答えた。



 ……プリンスにつけられたスパイが、自分をも監視するだろう。

 それは、グスタフの杞憂ではなかった。


 家庭教師以上に、外国の政治的な勢力が、ナポレオンの息子フランソワと接触することを恐れていたのは……、

 心の底から、フランソワの動向を探りたがっていたのは……、

 政府宰相メッテルニヒだったからである。




 「僕は、実際の軍務に就きたいのです。それなのに、なぜ、先生は、僕の独立に反対なさるのですか?」

書き取りのノートから顔を上げ、重ねて、フランソワが尋ねた。


 ディートリヒシュタインは答えなかった。

 彼は、生徒が間違えた箇所を、ペンの先で指し示した。

 ぽつんと、赤いシミがついた。

「プリンス、貴方のスペルは、ひどいものですぞ!」

有無を言わさぬ強い口調だった。


 フランソワも、黙ってはいなかった。

「それは仕方がないと思います。母に聞いたのですが、僕の父も、字は汚かったそうですから」

「字の汚さは、遺伝しません!」

ディートリヒシュタインは叫んだ。

「貴方、こともあろうに、マリー・ルイーゼ様お母様のお名前のスペルを間違ったのですよ! 『Luoise(正しくはLuisa)』って、なんです! しかも、よりによって、手紙の表書きに!」


「え? あれ?」

フランソワはうろたえた。


 なおも、ディートリヒシュタインは糾弾する。

「お母様は、大変なショックを受けておられました。私もです! 間違えるなら、本文で間違えなさい! お母様以外の者の目に触れないように!」


 さすがに家庭教師も、手紙の表書きまでは、チェックしなかった。その結果、彼は、教え子の大変な過ちを、他ならぬマリー・ルイーゼ自身から知らされたのだ。


 教師の怒りは深甚だった。

「何度も言っている通り、プリンス、貴方の独立は、身体的にも、道義的にも、知性的にも、無理があります!」


 忍び笑いが聞こえた。

 生徒と教師は、ぎょっとして、振り返った。


 部屋の入口で、フランソワの叔父の、F・カール大公が、体を2つに折り曲げて、笑っていた。


「F・カール大公!」

むっとしてディートリヒシュタインは声をあげた。

「立ち聞きするとは、見過ごせませんぞ」


「失敬失敬」

軽薄にしか聞こえない口調で、F・カールは謝罪してみせた。

「フランソワはもう、帰ったんだね。ちょっと様子を見に来ただけだ」


「帰った? どこから?」

「僕は今日はずっと、ここにいましたよ」


師弟そろって、憮然とした答えが帰ってきた。


「私がプリンスに、外出を許すわけがないでしょう! なにせ、課題が、全くもって、失格ですからな!」

「だからって、朝からつきっきりで、勉強させなくてもいいでしょう? せっかく、軍の教練がお休みの日なのに」

「全く貴方ときたら! 朝もバカっぱやくから、演習場に行ってしまって。笛や太鼓がうるさいことうるさいこと。やっと行軍が終わったかと思えば、息吐くひまもなく、今度は、乗馬だ。それじゃ、お体がもたないと、私があれほど、さんざん申し上げているのに、」


ディートリヒシュタインは、ぜいぜい息を切らしている。


「息吐く暇もないのは、先生でしょ! 僕は全然、大丈夫ですからっ!」

「なんですと! まるで私が、年寄りみたいじゃないですか!」

「違うんですかっ!?」


「それじゃ、ゾフィーは一緒じゃなかったんだね?」

ぽつんと声が聞こえた。


 熱くなって言い合っていたディートリヒシュタインとフランソワは、はっとしたように、声の主を顧みた。

「……ええ」

少し遅れて、フランソワが返事をした。

「ゾフィーは、今日は、叔父上と、ご一緒じゃなかったんですか? 彼女、そう言っていましたよ?」


 F・カールは、額を抑えた。

「ああ、そうだ! ごめん、フランツ。勘違いしてた。ゾフィーは、フロイライン・コルネリアのところへ、髪をやってもらいにでかけたんだった。夕から、晩餐会があるんでね」

「そうですか」

 フランソワの眉間に皺が、寄せられる。


 ディートリヒシュタインは、なおも、教え子に向かって、低くうなっていた。が、不意に何かを思いついたらしい。ぽん、と手を打った。

「そうだ! F・カール大公に会ったら、この話をしようと思ってたんだ」

大公は、眉毛を上げた。

「何です? ディートリヒシュタイン伯爵」


「いえね。先日、私は、温泉へ行ってきましてね。そしたら、腰の調子が、大分、いいのです」

「腰?」

「ですから、温泉へ出掛けられたらいかがです? ゾフィー大公妃とご一緒に。お二人でゆっくりなさったら、きっと、いい結果が出ますよ」


 暗に、温泉は、不妊治療にいいと言っているのだ。


「そうだ。叔父さん、それがいいよ!」

F・カールが何か言う前に、フランソワが騒ぎ立てた。

「ゾフィーを連れて、しばらくの間、この窮屈なウィーンを離れるといい。この街にいると、息が詰まりそうになる。高い建物ばかりで、狹い路地がうねうねと続いていて。ウィーンの街は、窮屈だ!」


「プリンス!」

ディートリヒシュタインが叱りつけた。

「現状に不満を言うのは、みっともないですぞ!」

「事実だから、そう言っているだけです!」


 F・カールは、こほんと咳をした。

「だが、私もゾフィーも、腰は、なんともないのだが……」

言い終わらないうちに、フランソワが振り返った。

「ニブいな、叔父さんは」

「これっ!」

 再び、教師ディートリヒシュタインの叱責を受け、フランソワは、眉を吊り上げた。


 F・カールに向けて、ディートリヒシュタインが、謹厳な顔を向けた。

「でもまあ、心の鬱屈というのは、確かに、体に悪い影響を与えます。ここはひとつ、休暇を取ったと思し召して、心と体を思い切り解放してご覧になったらいかがです? ゾフィー大公妃とご一緒に」

「つまり、ディートリヒシュタイン先生。休暇をとって、心ゆくまでヤりまくれと? 温泉旅行に行って?」


「F・カール大公!」

「叔父さん!」

声が揃った。


 教師ディートリヒシュタイン生徒フランソワが、揃って、F・カールを睨み据えている。


「そういう風に、下品なことばかり言うから、叔父さんは、ゾフィーに嫌われるんだよ!」

「よもや、そのようなことを、ゾフィー大公妃の前でお話しになってはおられませんでしょうな!?」

「先生の言う通りだよ! でも、手遅れだ。馬の種付けの話だって、ゾフィーに聞こえてたよ!」

「馬の種付けですと!? 清らかな大公妃のお耳に、なんてことを!」


 二人分の集中砲火をまともに喰らい、さすがに、F・カールは、たじろいだ。


「いや、ほんの冗談ですって」

「昔から、叔父さんは、低劣過ぎるんです!」



 F・カールの品の無さについては、子どもの頃から、宮廷に集う貴婦人達の、非難の的だった。その昔、ザクセン王妃(皇帝の姉。F・カールとマリー・ルイーゼ姉弟の伯母)が、パルマのマリー・ルイーゼに、警告を書き送ったことがある。

 ……あの困った紳士は、小さな坊やフランツに近づけない方がいいわね。坊やの教育上、大変、よろしくないわ。



 F・カールはにやにや笑った。

「きついこと言うなあ。お前は、昔から、顔だけは可愛いのに、口が悪くてナマイキなんだよ」

「顔だけ? いや、今は、可愛くなんか、ありません!」

「そうだよなあ。バカみたいに背が伸びたもんなあ」

「バカじゃありません!」


「とにかく、です!」

ディートリヒシュタインが口を挟んだ。

「私は、をお勧めします!」


ぴしりと言われ、F・カールは、首を竦めた。

「うーん。なら、お前も一緒に来るか、フランツ」


「それじゃ、意味がないでしょ。ゾフィーと二人きりで過ごしておいでよ」

ませた口調で、フランソワが答えた。









ザクセン王妃が、F・カール大公の品の無さについて憤慨する場面は、

2章「キーーーーーッ」

をご参照下さい。





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