温泉の勧め
「おい、そこ! 手が止まってる!」
赤いズボンの将校が叫んだ。
「ちっ」
ヘルムート軍曹は舌打ちをした。
ホルガー軍曹と二人、重い砲身を担ぎ上げる。
武器の運搬、組み立て訓練中だった。
細かな雨が降っていた。
「早く! そんなことでは、火薬が湿気ってしまうぞ!」
赤いズボンの高級将校から、容赦ない下知が飛ぶ。
寒い朝だった。しもやけのできた手が、かじかむ。
先を歩くヘルムートの手が、つるりと滑った。
思わず、息を呑んだ。
こんな泥地で、大切な武器を落としたら、それこそ、鞭打ちものだ。
オーストリア軍にも、プロイセン流のスパルタ教育が入り込みつつあった。
軍曹ならまだしも、歩兵に至っては、まるで、牛馬のように過酷に扱われていた。
誰かが、横から、すっと手を出した。
落ちかけた砲身の真ん中を、力強く支える。
「……」
ライヒシュタット大尉だった。
白い制服が、泥だらけになっている。
あちこちで、兵卒たちが、武器を運ぶのに、手を貸してきたのだ。
「急げ」
言葉少なに、彼は言った。
冷たい雨の中なのに、まるで、寒さを感じていないように見えた。
苦役でしかない訓練に、神聖な任務のように、従事している。まじめに、骨惜しみせず、二人の軍曹に力を貸す。
降りしきる雨の中、三人は、黙々と、武器を運んだ。
*
「ほれ、また、間違えた!」
生徒が書いているノートを覗き込み、ディートリヒシュタインが指摘した。
「え? どこ?」
そんな筈はないとばかり、生徒が問い返す。
「自分で探しなさい」
「ええっ?」
フランソワは不平そうに唸った。今書いた箇所を、まんべんなく見つめる。
彼には、間違いが見つけられなかったようだ。そのまま、次のパラグラフを書き始める。
ディートリヒシュタインは、ため息をついた。
「先生。僕、独立したいんです」
俯いてペンを走らせながら、フランソワが言った。
「僕はもう、先生がおっしゃるほど、子どもではありません。思慮分別も、それなりについてきました。僕は、独立して、軍務に邁進したいんです」
皇帝は、孫を、実際の軍務につけるつもりでいた。候補地として、プラハが上がっている。
ウィーンを出て、プラハで軍務につく。
それは、フランソワにとって、解放を意味した。
ハプスブルク宮廷からの。
メッテルニヒの監視からの。
息苦しい、「高貴な囚人」としての、捕虜生活からの。
それなのに、家庭教師は、彼の独立に、猛反対していた。
軍務に就くということは、フランソワが独立するということだ。ディートリヒシュタインら家庭教師の任務は、終わる。
彼らの代わりは、軍人が担うことになるだろう。軍での教育。ナポレオンの息子への、警護と監視。そして、ライヒシュタット家の家政全般は、全て、軍籍にある者の手に委ねられる。
密かに、ディートリヒシュタインは、グスタフ・ナイペルクに話を持ちかけた。フランソワと共に軍に入るよう、説得したのだ。
グスタフは、
グスタフに、
ディートリヒシュタインは、民衆や、年若い軍人たちの、無責任な熱狂が心配だった。
また、外国の政党や暗殺者が近づきやすくなるのも、心配だ。
このところ治まってはいるが、彼の咳が心配だった。主治医のシュタウデンハイムは、依然、慎重な生活を推奨している。
しかし、グスタフ・ナイペルクは、プリンスと共に軍へ入れ、というディートリヒシュタインの説得を断った。
……プリンスと一緒にいると、自分まで、スパイに行動を探られてしまう。それでは、居心地が悪い。
……プリンスにつけられたスパイが、自分をも監視するだろう。
それは、グスタフの杞憂ではなかった。
家庭教師以上に、外国の政治的な勢力が、
心の底から、フランソワの動向を探りたがっていたのは……、
「僕は、実際の軍務に就きたいのです。それなのに、なぜ、先生は、僕の独立に反対なさるのですか?」
書き取りのノートから顔を上げ、重ねて、フランソワが尋ねた。
ディートリヒシュタインは答えなかった。
彼は、生徒が間違えた箇所を、ペンの先で指し示した。
ぽつんと、赤いシミがついた。
「プリンス、貴方のスペルは、ひどいものですぞ!」
有無を言わさぬ強い口調だった。
フランソワも、黙ってはいなかった。
「それは仕方がないと思います。母に聞いたのですが、僕の父も、字は汚かったそうですから」
「字の汚さは、遺伝しません!」
ディートリヒシュタインは叫んだ。
「貴方、こともあろうに、
「え? あれ?」
フランソワはうろたえた。
なおも、ディートリヒシュタインは糾弾する。
「お母様は、大変なショックを受けておられました。私もです! 間違えるなら、本文で間違えなさい! お母様以外の者の目に触れないように!」
さすがに家庭教師も、手紙の表書きまでは、チェックしなかった。その結果、彼は、教え子の大変な過ちを、他ならぬマリー・ルイーゼ自身から知らされたのだ。
教師の怒りは深甚だった。
「何度も言っている通り、プリンス、貴方の独立は、身体的にも、道義的にも、知性的にも、無理があります!」
忍び笑いが聞こえた。
生徒と教師は、ぎょっとして、振り返った。
部屋の入口で、フランソワの叔父の、F・カール大公が、体を2つに折り曲げて、笑っていた。
「F・カール大公!」
むっとしてディートリヒシュタインは声をあげた。
「立ち聞きするとは、見過ごせませんぞ」
「失敬失敬」
軽薄にしか聞こえない口調で、F・カールは謝罪してみせた。
「フランソワはもう、帰ったんだね。ちょっと様子を見に来ただけだ」
「帰った? どこから?」
「僕は今日はずっと、ここにいましたよ」
師弟そろって、憮然とした答えが帰ってきた。
「私がプリンスに、外出を許すわけがないでしょう! なにせ、課題が、全くもって、失格ですからな!」
「だからって、朝からつきっきりで、勉強させなくてもいいでしょう? せっかく、軍の教練がお休みの日なのに」
「全く貴方ときたら! 朝もバカっぱやくから、演習場に行ってしまって。笛や太鼓がうるさいことうるさいこと。やっと行軍が終わったかと思えば、息吐くひまもなく、今度は、乗馬だ。それじゃ、お体がもたないと、私があれほど、さんざん申し上げているのに、」
ディートリヒシュタインは、ぜいぜい息を切らしている。
「息吐く暇もないのは、先生でしょ! 僕は全然、大丈夫ですからっ!」
「なんですと! まるで私が、年寄りみたいじゃないですか!」
「違うんですかっ!?」
「それじゃ、ゾフィーは一緒じゃなかったんだね?」
ぽつんと声が聞こえた。
熱くなって言い合っていたディートリヒシュタインとフランソワは、はっとしたように、声の主を顧みた。
「……ええ」
少し遅れて、フランソワが返事をした。
「ゾフィーは、今日は、叔父上と、ご一緒じゃなかったんですか? 彼女、そう言っていましたよ?」
F・カールは、額を抑えた。
「ああ、そうだ! ごめん、フランツ。勘違いしてた。ゾフィーは、フロイライン・コルネリアのところへ、髪をやってもらいにでかけたんだった。夕から、晩餐会があるんでね」
「そうですか」
フランソワの眉間に皺が、寄せられる。
ディートリヒシュタインは、なおも、教え子に向かって、低くうなっていた。が、不意に何かを思いついたらしい。ぽん、と手を打った。
「そうだ! F・カール大公に会ったら、この話をしようと思ってたんだ」
大公は、眉毛を上げた。
「何です? ディートリヒシュタイン伯爵」
「いえね。先日、私は、温泉へ行ってきましてね。そしたら、腰の調子が、大分、いいのです」
「腰?」
「ですから、温泉へ出掛けられたらいかがです? ゾフィー大公妃とご一緒に。お二人でゆっくりなさったら、きっと、いい結果が出ますよ」
暗に、温泉は、不妊治療にいいと言っているのだ。
「そうだ。叔父さん、それがいいよ!」
F・カールが何か言う前に、フランソワが騒ぎ立てた。
「ゾフィーを連れて、しばらくの間、この窮屈なウィーンを離れるといい。この街にいると、息が詰まりそうになる。高い建物ばかりで、狹い路地がうねうねと続いていて。ウィーンの街は、窮屈だ!」
「プリンス!」
ディートリヒシュタインが叱りつけた。
「現状に不満を言うのは、みっともないですぞ!」
「事実だから、そう言っているだけです!」
F・カールは、こほんと咳をした。
「だが、私もゾフィーも、腰は、なんともないのだが……」
言い終わらないうちに、フランソワが振り返った。
「ニブいな、叔父さんは」
「これっ!」
再び、
F・カールに向けて、ディートリヒシュタインが、謹厳な顔を向けた。
「でもまあ、心の鬱屈というのは、確かに、体に悪い影響を与えます。ここはひとつ、休暇を取ったと思し召して、心と体を思い切り解放してご覧になったらいかがです? ゾフィー大公妃とご一緒に」
「つまり、ディートリヒシュタイン先生。休暇をとって、心ゆくまでヤりまくれと? 温泉旅行に行って?」
「F・カール大公!」
「叔父さん!」
声が揃った。
「そういう風に、下品なことばかり言うから、叔父さんは、ゾフィーに嫌われるんだよ!」
「よもや、そのようなことを、ゾフィー大公妃の前でお話しになってはおられませんでしょうな!?」
「先生の言う通りだよ! でも、手遅れだ。馬の種付けの話だって、ゾフィーに聞こえてたよ!」
「馬の種付けですと!? 清らかな大公妃のお耳に、なんてことを!」
二人分の集中砲火をまともに喰らい、さすがに、F・カールは、たじろいだ。
「いや、ほんの冗談ですって」
「昔から、叔父さんは、低劣過ぎるんです!」
F・カールの品の無さについては、子どもの頃から、宮廷に集う貴婦人達の、非難の的だった。その昔、ザクセン王妃(皇帝の姉。F・カールとマリー・ルイーゼ姉弟の伯母)が、パルマのマリー・ルイーゼに、警告を書き送ったことがある。
……あの困った紳士は、
F・カールはにやにや笑った。
「きついこと言うなあ。お前は、昔から、顔だけは可愛いのに、口が悪くてナマイキなんだよ」
「顔だけ? いや、今は、可愛くなんか、ありません!」
「そうだよなあ。バカみたいに背が伸びたもんなあ」
「バカじゃありません!」
「とにかく、です!」
ディートリヒシュタインが口を挟んだ。
「私は、温泉の効用をお勧めします!」
ぴしりと言われ、F・カールは、首を竦めた。
「うーん。なら、お前も一緒に来るか、フランツ」
「それじゃ、意味がないでしょ。ゾフィーと二人きりで過ごしておいでよ」
ませた口調で、フランソワが答えた。
※
ザクセン王妃が、F・カール大公の品の無さについて憤慨する場面は、
2章「キーーーーーッ」
をご参照下さい。
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