柩を戦場に
「それは、ディートリヒシュタイン伯爵が、お前のことが、大好きだからだ、フランツ」
「彼は、お前を、えこひいきしているのだ」
だが、フランソワは、納得できなかった。奮然と、彼は口にした。
「えこひいきというのは、相手の為に、何かしてやることでしょう! ディートリヒシュタイン先生は、僕が軍務に就くことを、邪魔してるんです」
「あの伯爵は、お前と一緒にいたいのだよ。ずっと、ね」
軍の生活になれば、フランソワの身の回りは、軍人で固められる。家庭教師はお払い箱になってしまう。
まだ、フランソワは納得を拒絶した。
「僕は、独立したいのです。いつまでも子どものままではいられません!」
祖父は、口の端に笑みを浮かべたまま、卵を割った。どろりとした中身を、カップに落とす。
朝食の席のことだった。祖母のカロリーネ皇妃は、すでに退席している。
「焦ることはない、フランツ。私はお前を軍務に就けると決めたのだ。今、配属先を吟味しているところだ」
「
「ああ。そのつもりでいる。だが、ディートリヒシュタイン伯爵は、14年間も、お前のそばにいたのだ。お前のことは、よくわかっている。だから、彼の言うことにも、耳を傾ける必要がある。それに、
「宰相の意見!」
フランソワは身震いした。
「
従軍生活での人選に、メッテルニヒが絡んでいるとなると、自分の身の回りに、政府のスパイが送り込まれてしまう。
フランソワは、独立後も、監視されるような生活は、送りたくなかった。
ちらりと、皇帝は孫を見た。
「軍における人事は、こちらで采配する。お前が口を出すことではない」
「はい……」
祖父とはいえ、皇帝だ。フランソワは、頷くしかなかった。
カップに落とした卵を、皇帝は、一息に飲み込んだ。
フランソワに目を移す。
謹厳だったその顔が、ほころんだ。
「独立は近い。焦らず、勅命を待て」
*
ビリヤード室の前で、フォレスチは、足を止めた。
彼の教え子が一人、悄然として、キューを弄んでいた。
「相手をしようか?」
彼が入っていくと、フランソワは頷いた。
「ディートリヒシュタイン先生が、僕が軍務に就くことに、反対なさるのです」
キューにチョークをつけながら、フランソワが言った。
「フォレスチ先生は、違いますよね?」
「軍務は、君の、長年の憧れだったからね。私はそれを知っている」
フォレスチは、ディートリヒシュタインと同じく、子どもの頃からの、フランソワの家庭教師だ。軍務の基礎知識を授けたのは、彼である。
フランソワは、ため息をついた。
「僕には、予感があります。きっと僕は、戦地に派遣される前に、死ぬんだ」
「おい、なんて、不吉なことを」
「だって、世界は平和になり、戦争なんて、なくなってしまった。これじゃ、従軍したくても、できやしない」
「平和、いいじゃないか。長く続いた戦争の後で、やっと訪れた穏やかな時代だ。私は、平和な時代に、感謝しているよ」
諭すように、フォレスチが言った。
だが、フランソワの顔色は冴えない。
「でも僕は、戦争に行きたいんです。国の為に戦いたいのだ。……父上のように」
「……」
ナポレオンが出てくると、フォレスチは、口を噤むしかない。
黙り込んでしまったフォレスチを、フランソワは、申し訳なさそうに見た。
「あのね、フォレスチ先生。お願いがあるんです」
「なんだい?」
「もし、僕が、戦火の洗礼を受けずに死んだら、僕の死後、最初に起こった戦争に、僕の柩を送り出してくれますか? 柩の上を飛び交う弾丸や、砲弾の炸裂音は、僕の骸に、この上もない慰めを、与えてくれるでしょうから」
「何をメランコリックなことを言っている!」
フォレスチは、生徒を叱りつけた。
フランソワも負けてはいなかった。日頃の鬱憤を晴らすように、言い募る。
「戦争さえ起これば、僕にだって、従軍するチャンスが巡ってくるんだ。ウィーンから出られるはずなんだ! いっそのこと、ロシアが、オーストリアに攻め入ってくれたら……」
「馬鹿なことを言うな!」
フォレスチは、声を荒らげた。
「私は、平和を支持する。ヨーロッパの平和を実現できただけでも、メッテルニヒのウィーン体制は、評価できると思っている」
「
フランソワが、絶句した。目を見開いている。
「フォレスチ先生……」
青い大きな瞳に語りかえるように、フォレスチは続けた。
「本当は、私も、ディートリヒシュタイン先生に、賛成だ。君を、軍務に就けたくない」
「え?」
「この平和は、もう、そう長くは続かないよ、フランツ君。ヨーロッパのあちこちで、綻びが出始めている。今、軍隊に入れば、近い将来、君は、戦争へ行くことになる。最前線で戦うことになる。ディートリヒシュタイン先生は……私もそうだが……、君を、戦争にやりたくないのだ」
「だって、戦うための、軍隊でしょう!」
奮然と、フランソワは叫んだ。
フランソワを押しのけ、フォレスチは、ビリヤード台の前に立った。
台の上に屈み、球を狙う。
「昔、私は、捕虜になったことがある。1809年のことだ」
その話は、何度か、聞いたことがある。
フランソワは、曖昧に頷いた。
「前にも話したろう? 捕虜には、ろくに食べ物も与えられない。多くの戦友が、寒さや飢えで死んだ。戦って死んだのではない。彼らの死は、まるで、無駄死にだった」
「でも、先生は、生きて戻られた」
「私は、運が良かった。それだけだ。解放された時、民家で、ミルクをもらった。がつがつと飲んで、すぐに、腹を壊してしまった。栄養失調の体には、カップ一杯のミルクでさえ、重すぎたのだ」
なおも、フォレスチは言い募る。
「帰国後、私は、死んだ戦友の家を一軒一軒回った。希望と恐怖に震える家族に、父の、夫の、息子の死を告げた。辛かったよ。切なかった。自分が生きていることが、ひたすら、申し訳なかった」
「国の為に死ねるなら、僕は、本望です!」
「国ってなんだ? 家族や友人がいるからこその、『母国』なんだ。私は、君の死の知らせを、受け取りたくない。ディートリヒシュタイン先生もだ。名誉の戦死なんて、あれは、嘘っぱちだ。死は、いつだって、辛く惨めなものだ。残された者にとって、悲しく、耐えがたいものなんだ」
「……でも!」
「君にとって、軍務が大切なことは、よく知っている。お父上から続く、神聖な任務だ。だが、これだけは言わせてくれ。戦争は、繰り返してはならない。右頬を殴られたら、左頬を差し出す勇気も、必要だ。民を守るために。君は、為政者になるべき存在だ。どうか、そのことを、知っておいてくれ」
「……」
「傭兵の時代は終わった。兵卒たちは、国の民でもあるのだ。畑を耕す農民、工場で働く市民だ」
「……」
「もはや、剣と弓矢の時代ではない。砲弾やマスケット銃の使用で、兵隊たちは、簡単に、そして大量に死んでしまう。それが、君のお父さんが広げた近代戦の正体だ。だが、君は、違う。そうだろ?」
「……」
「君は、民を、守らなければいけない。それが、君の責務なのだ」
「……はい」
とうとう、フランソワは言った。
「君は優しい。君の気性は、まっすぐだ」
打って変わって、穏やかな声を、フォレスチは出した。
「君なら……」
だが、フォレスチは、続きを言わなかった。
フォレスチの繰り出したショットは、盛大に、的を外した。
*
自分たちの部隊に訓練に来た、年若い大尉に、ヘルムートは、反感を抱いていた。
ヘルムートは、平民出身だ。
軍功を上げ、軍曹にまでのし上がった。
それなのに、彼は、皇族だというだけで、大尉だ。もっとも、長らく昇格がなく、ずっと軍曹だったというが。いずれにしろ、実戦経験はまるでない。
ヘルムートと同じように妬んでいる兵士達は、多いはずだった。
しかも相手は、あの、ナポレオンの息子なのだ。
青臭い新任大尉には、何をしても、許されるような気がした。
ライヒシュタット大尉の、初めての閲兵教練の時、ヘルムートは、彼の乗る馬の、鞍の下に小石を入れておいた。
果たして、神経質な馬は、背に大尉を乗せたまま、大暴れをし始めた。
だが、大尉が振り落とされることはなかった。それどころか、見事に、暴れ馬を乗りこなした。
凶暴な白馬を乗りこなす金髪の大尉は、兵士たちに、強い感銘を与えた。
その上、ライヒシュタット大尉は、軍務に忠実だった。どんなにくだらない、骨の折れる訓練にも、くそがつく真面目さで努力を重ねている。
川でぐしょ濡れになることにも、その白い軍服を泥まみれにすることにも、決して、躊躇しなかった。過酷な訓練であるほど、積極的に、兵士たちの先頭に立って行動した。
彼が、ヘルムートが落としかけた砲身を支えてくれた時、ヘルムートは、かつて己のしたことを恥じた。
あの日と同じ、冷たい雨の日。やはり泥まみれになって、訓練は終わった。
大尉は、兵舎に引き上げていった。この頃、彼は、兵舎に居室を与えられているのだ。
ヘルムートは、大尉の居室に参じた。
大尉は、着替えの途中だった。下は軍服のズボンのまま、真新しい白いシャツを着用している。首に、黒いクラヴァット(首周りに巻きつける装飾用の布。ネクタイの原型)をきつく巻き付けたその姿は、少し奇異に、ヘルムートの目に映った。
訓練は終わったのだから、私服に着替える途中のはずだ。軍服ではないのだし、何もあそこまで首を締める必要はないのではないかと、ぼんやり思ったのだ。
だが、それどころではなかった。
ヘルムートには、大事な話があった。もしくは、告白、そして、心からの謝罪が。
ヘルムートの深刻な表情に、何か感じるものがあったのだろう。大尉は、シャツの上に上着を羽織り、彼を部屋に招じ入れた。
質素な部屋だった。書き物机と、仮眠の為のベッドが置いてあるばかりだ。
立ったまま、つっかえつっかえ、ヘルムートは、告白を始めた。
「いや、」
だが、話の途中で、大尉は遮った。
「あの馬は、朝から神経質だった。馬丁が忠告したにもかかわらず、仕上がっていない馬に乗ったのは、騎手の責任だ」
「ですが、大尉、」
「いいか、ヘルムート軍曹。私は、自らが所属する軍の兵士が、動物のように鞭打たれるのは見たくない。まして、将校ならなおさら」
覚えず、ヘルムートは首を竦めた。
だが、彼は、告白を続けた。
「私は、一兵卒として、軍に入りました。戦地で敵の将校を倒し、軍曹に昇進を許されました」
ゆっくりと、ライヒシュタット公が、言葉を継いだ。
「だが、私は、初めから軍曹だった。そして、何の軍功もないにもかかわらず、大尉に昇級した。明らかに、軍の規律を乱す昇進だ」
「いいえ! 他の皇族方を見れば、遅すぎる昇進です!」
自分がこんな風に言うとは、かつてのヘルムートなら、全く思いもよらなかったろう。
だが、彼は、言わずにはいられなかった。
「貴方には、力があるというのに! 軍を引っ張り、前へ進む力が!」
青白かった大尉の顔が、紅潮した。
少しうつむき、彼は言った。
「さっきも言ったように、私の昇進は、軍規を乱すものだ。君は、鞍に仕掛けをしたと言ったが、幸い、私は、落馬を免れ、軍の規律は乱されなかった。それどころか、兵士たちの尊敬を勝ち得ることができた。小石の件は、不問に付そう」
最後の一言が、信じられなかった。
……この方は。
何か理解できない、けれど、非常に神聖なものに触れた気がした。ヘルムートは、呆然と、立ち尽くした。
くるりと、ライヒシュタット大尉が、背を向けた。
「わかったのなら、出ていってくれないか。着替えの途中なのだ」
四苦八苦して、泥で汚れたズボンの紐を解こうとしている。そういえば、シャツのボタンも、全部は留められていなかった。
自分で着替えることに慣れていないのだろうと、ヘルムートは察した。水で濡れた紐が、なかなか解けないのだ。
床の上には、結ぶのに失敗したらしい、しわくちゃのクラヴァットが、幾つも落ちている。
「お手伝いします」
ヘルムートはひざまずいた。
ほっとしたように、年若い大尉は頷いた。
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