柩を戦場に


 「それは、ディートリヒシュタイン伯爵が、お前のことが、大好きだからだ、フランツ」

祖父皇帝は、おかしそうに口を歪めた。

「彼は、お前を、えこひいきしているのだ」


 だが、フランソワは、納得できなかった。奮然と、彼は口にした。

「えこひいきというのは、相手の為に、何かしてやることでしょう! ディートリヒシュタイン先生は、僕が軍務に就くことを、邪魔してるんです」

「あの伯爵は、お前と一緒にいたいのだよ。ずっと、ね」


 軍の生活になれば、フランソワの身の回りは、軍人で固められる。家庭教師はお払い箱になってしまう。


 まだ、フランソワは納得を拒絶した。

「僕は、独立したいのです。いつまでも子どものままではいられません!」


 祖父は、口の端に笑みを浮かべたまま、卵を割った。どろりとした中身を、カップに落とす。

 朝食の席のことだった。祖母のカロリーネ皇妃は、すでに退席している。


「焦ることはない、フランツ。私はお前を軍務に就けると決めたのだ。今、配属先を吟味しているところだ」

お祖父様皇帝陛下はおっしゃいました。……僕を、プラハにやる、と」

「ああ。そのつもりでいる。だが、ディートリヒシュタイン伯爵は、14年間も、お前のそばにいたのだ。お前のことは、よくわかっている。だから、彼の言うことにも、耳を傾ける必要がある。それに、宰相メッテルニヒの意見にも」


「宰相の意見!」

フランソワは身震いした。

お祖父様皇帝陛下。副官には、どうか、尊敬できる人を選んで下さい。その方から、私が学べるような、立派な将校を、どうか。ディートリヒシュタイン先生に代わって、家政を見てくれる人も、ちゃんとした軍人をお願いします」


 従軍生活での人選に、メッテルニヒが絡んでいるとなると、自分の身の回りに、政府のスパイが送り込まれてしまう。

 フランソワは、独立後も、監視されるような生活は、送りたくなかった。


 ちらりと、皇帝は孫を見た。

「軍における人事は、こちらで采配する。お前が口を出すことではない」

「はい……」

祖父とはいえ、皇帝だ。フランソワは、頷くしかなかった。


 カップに落とした卵を、皇帝は、一息に飲み込んだ。

 フランソワに目を移す。

 謹厳だったその顔が、ほころんだ。

「独立は近い。焦らず、勅命を待て」







 ビリヤード室の前で、フォレスチは、足を止めた。

 彼の教え子が一人、悄然として、キューを弄んでいた。


「相手をしようか?」

彼が入っていくと、フランソワは頷いた。


 「ディートリヒシュタイン先生が、僕が軍務に就くことに、反対なさるのです」

キューにチョークをつけながら、フランソワが言った。

「フォレスチ先生は、違いますよね?」

「軍務は、君の、長年の憧れだったからね。私はそれを知っている」


 フォレスチは、ディートリヒシュタインと同じく、子どもの頃からの、フランソワの家庭教師だ。軍務の基礎知識を授けたのは、彼である。


 フランソワは、ため息をついた。

「僕には、予感があります。きっと僕は、戦地に派遣される前に、死ぬんだ」

「おい、なんて、不吉なことを」

「だって、世界は平和になり、戦争なんて、なくなってしまった。これじゃ、従軍したくても、できやしない」

「平和、いいじゃないか。長く続いた戦争の後で、やっと訪れた穏やかな時代だ。私は、平和な時代に、感謝しているよ」

諭すように、フォレスチが言った。


 だが、フランソワの顔色は冴えない。

「でも僕は、戦争に行きたいんです。国の為に戦いたいのだ。……父上のように」

「……」


 ナポレオンが出てくると、フォレスチは、口を噤むしかない。

 黙り込んでしまったフォレスチを、フランソワは、申し訳なさそうに見た。


「あのね、フォレスチ先生。お願いがあるんです」

「なんだい?」

「もし、僕が、戦火の洗礼を受けずに死んだら、僕の死後、最初に起こった戦争に、僕の柩を送り出してくれますか? 柩の上を飛び交う弾丸や、砲弾の炸裂音は、僕の骸に、この上もない慰めを、与えてくれるでしょうから」


「何をメランコリックなことを言っている!」

フォレスチは、生徒を叱りつけた。


 フランソワも負けてはいなかった。日頃の鬱憤を晴らすように、言い募る。

「戦争さえ起これば、僕にだって、従軍するチャンスが巡ってくるんだ。ウィーンから出られるはずなんだ! いっそのこと、ロシアが、オーストリアに攻め入ってくれたら……」


「馬鹿なことを言うな!」

フォレスチは、声を荒らげた。

「私は、平和を支持する。ヨーロッパの平和を実現できただけでも、メッテルニヒのウィーン体制は、評価できると思っている」


メッテルニヒ宰相を、評価!?」

フランソワが、絶句した。目を見開いている。

「フォレスチ先生……」


 青い大きな瞳に語りかえるように、フォレスチは続けた。

「本当は、私も、ディートリヒシュタイン先生に、賛成だ。君を、軍務に就けたくない」

「え?」

「この平和は、もう、そう長くは続かないよ、フランツ君。ヨーロッパのあちこちで、綻びが出始めている。今、軍隊に入れば、近い将来、君は、戦争へ行くことになる。最前線で戦うことになる。ディートリヒシュタイン先生は……私もそうだが……、君を、戦争にやりたくないのだ」


「だって、戦うための、軍隊でしょう!」

奮然と、フランソワは叫んだ。


 フランソワを押しのけ、フォレスチは、ビリヤード台の前に立った。

 台の上に屈み、球を狙う。

「昔、私は、捕虜になったことがある。1809年のことだ」


 その話は、何度か、聞いたことがある。

 フランソワは、曖昧に頷いた。


「前にも話したろう? 捕虜には、ろくに食べ物も与えられない。多くの戦友が、寒さや飢えで死んだ。戦って死んだのではない。彼らの死は、まるで、無駄死にだった」

「でも、先生は、生きて戻られた」

「私は、運が良かった。それだけだ。解放された時、民家で、ミルクをもらった。がつがつと飲んで、すぐに、腹を壊してしまった。栄養失調の体には、カップ一杯のミルクでさえ、重すぎたのだ」


 なおも、フォレスチは言い募る。

「帰国後、私は、死んだ戦友の家を一軒一軒回った。希望と恐怖に震える家族に、父の、夫の、息子の死を告げた。辛かったよ。切なかった。自分が生きていることが、ひたすら、申し訳なかった」


「国の為に死ねるなら、僕は、本望です!」


「国ってなんだ? 家族や友人がいるからこその、『母国』なんだ。私は、君の死の知らせを、受け取りたくない。ディートリヒシュタイン先生もだ。名誉の戦死なんて、あれは、嘘っぱちだ。死は、いつだって、辛く惨めなものだ。残された者にとって、悲しく、耐えがたいものなんだ」

「……でも!」


「君にとって、軍務が大切なことは、よく知っている。お父上から続く、神聖な任務だ。だが、これだけは言わせてくれ。戦争は、繰り返してはならない。右頬を殴られたら、左頬を差し出す勇気も、必要だ。民を守るために。君は、為政者になるべき存在だ。どうか、そのことを、知っておいてくれ」

「……」


「傭兵の時代は終わった。兵卒たちは、国の民でもあるのだ。畑を耕す農民、工場で働く市民だ」

「……」


「もはや、剣と弓矢の時代ではない。砲弾やマスケット銃の使用で、兵隊たちは、簡単に、そして大量に死んでしまう。それが、君のお父さんが広げた近代戦の正体だ。だが、君は、違う。そうだろ?」

「……」

「君は、民を、守らなければいけない。それが、君の責務なのだ」


「……はい」

 とうとう、フランソワは言った。


「君は優しい。君の気性は、まっすぐだ」

打って変わって、穏やかな声を、フォレスチは出した。

「君なら……」

だが、フォレスチは、続きを言わなかった。


 フォレスチの繰り出したショットは、盛大に、的を外した。







 自分たちの部隊に訓練に来た、年若い大尉に、ヘルムートは、反感を抱いていた。


 ヘルムートは、平民出身だ。

 軍功を上げ、軍曹にまでのし上がった。

 それなのに、は、皇族だというだけで、大尉だ。もっとも、長らく昇格がなく、ずっと軍曹だったというが。いずれにしろ、実戦経験はまるでない。


 ヘルムートと同じように妬んでいる兵士達は、多いはずだった。

 しかも相手は、あの、ナポレオンの息子なのだ。


 青臭い新任大尉には、何をしても、許されるような気がした。


 ライヒシュタット大尉の、初めての閲兵教練の時、ヘルムートは、彼の乗る馬の、鞍の下に小石を入れておいた。

 果たして、神経質な馬は、背に大尉を乗せたまま、大暴れをし始めた。


 だが、大尉が振り落とされることはなかった。それどころか、見事に、暴れ馬を乗りこなした。

 凶暴な白馬を乗りこなす金髪の大尉は、兵士たちに、強い感銘を与えた。


 その上、ライヒシュタット大尉は、軍務に忠実だった。どんなにくだらない、骨の折れる訓練にも、くそがつく真面目さで努力を重ねている。

 川でぐしょ濡れになることにも、その白い軍服を泥まみれにすることにも、決して、躊躇しなかった。過酷な訓練であるほど、積極的に、兵士たちの先頭に立って行動した。


 彼が、ヘルムートが落としかけた砲身を支えてくれた時、ヘルムートは、かつて己のしたことを恥じた。



 あの日と同じ、冷たい雨の日。やはり泥まみれになって、訓練は終わった。

 大尉は、兵舎に引き上げていった。この頃、彼は、兵舎に居室を与えられているのだ。


 ヘルムートは、大尉の居室に参じた。


 大尉は、着替えの途中だった。下は軍服のズボンのまま、真新しい白いシャツを着用している。首に、黒いクラヴァット(首周りに巻きつける装飾用の布。ネクタイの原型)をきつく巻き付けたその姿は、少し奇異に、ヘルムートの目に映った。

 訓練は終わったのだから、私服に着替える途中のはずだ。軍服ではないのだし、何もあそこまで首を締める必要はないのではないかと、ぼんやり思ったのだ。


 だが、それどころではなかった。

 ヘルムートには、大事な話があった。もしくは、告白、そして、心からの謝罪が。

 ヘルムートの深刻な表情に、何か感じるものがあったのだろう。大尉は、シャツの上に上着を羽織り、彼を部屋に招じ入れた。


 質素な部屋だった。書き物机と、仮眠の為のベッドが置いてあるばかりだ。

 立ったまま、つっかえつっかえ、ヘルムートは、告白を始めた。


 「いや、」

だが、話の途中で、大尉は遮った。

「あの馬は、朝から神経質だった。馬丁が忠告したにもかかわらず、仕上がっていない馬に乗ったのは、騎手の責任だ」

「ですが、大尉、」

「いいか、ヘルムート軍曹。私は、自らが所属する軍の兵士が、動物のように鞭打たれるのは見たくない。まして、将校ならなおさら」

覚えず、ヘルムートは首を竦めた。


 だが、彼は、告白を続けた。

「私は、一兵卒として、軍に入りました。戦地で敵の将校を倒し、軍曹に昇進を許されました」

 ゆっくりと、ライヒシュタット公が、言葉を継いだ。

「だが、私は、初めから軍曹だった。そして、何の軍功もないにもかかわらず、大尉に昇級した。明らかに、軍の規律を乱す昇進だ」

「いいえ! 他の皇族方を見れば、遅すぎる昇進です!」


 自分がこんな風に言うとは、かつてのヘルムートなら、全く思いもよらなかったろう。

 だが、彼は、言わずにはいられなかった。

「貴方には、力があるというのに! 軍を引っ張り、前へ進む力が!」


 青白かった大尉の顔が、紅潮した。

 少しうつむき、彼は言った。

「さっきも言ったように、私の昇進は、軍規を乱すものだ。君は、鞍に仕掛けをしたと言ったが、幸い、私は、落馬を免れ、軍の規律は乱されなかった。それどころか、兵士たちの尊敬を勝ち得ることができた。小石の件は、不問に付そう」


 最後の一言が、信じられなかった。


 ……この方は。

 何か理解できない、けれど、非常に神聖なものに触れた気がした。ヘルムートは、呆然と、立ち尽くした。


 くるりと、ライヒシュタット大尉が、背を向けた。

「わかったのなら、出ていってくれないか。着替えの途中なのだ」

 四苦八苦して、泥で汚れたズボンの紐を解こうとしている。そういえば、シャツのボタンも、全部は留められていなかった。


 自分で着替えることに慣れていないのだろうと、ヘルムートは察した。水で濡れた紐が、なかなか解けないのだ。

 床の上には、結ぶのに失敗したらしい、しわくちゃのクラヴァットが、幾つも落ちている。


「お手伝いします」

ヘルムートはひざまずいた。


 ほっとしたように、年若い大尉は頷いた。

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